ずっと待っていた
これから書くことは、とても個人的で自己中心的な独白なので、誰かの益になる文面ではないと思う、でも自分の中では珍しくポジティブな意味合いを持つことなので少し勇気を出して語る。
平たくいうと、ここのところ10年以上抱いていた人間不信の念から解き放たれて、また人を信じて、人を愛してもいいような気持ちになれたのだ。
ぼくにとって人間不信はネガティブなものではなく、とても前向きなエネルギーを与えてくれていた、信じられないということをひとつ確信することで、孤絶された精神を強めて創作や生きる意味や糧としてくれていた。
絵を描くことも、文章を書くのも、歌をつくるのも、全部独りで生きているから、何にも誰にも負けないように、強く長く息をして、苦難を受け流して。
でもそれはとても脆い弱い勇気のもとで築かれた壊れやすい砂のお城に過ぎなかった。
ぼくは心も体も弱く、いつも何かと戦っているし、失うことには慣れていたつもりだったけれど、最近それは違うと思える出来事が多くあった。
家族も、友人も、先輩後輩も、すきなひとも、信じていいと思うようになった。
強がって、孤独を装って格好をつけて、それでも見て欲しがっている、なんて独りよがりで愚かだったのか、それに気づいた。
大人になっていくと、多くの打算やシビアなリアルに覆われて、大切なものを少しずつ失っていく。
でもジョンレノンが最期まで歌った愛の力、平和の希望はもしかしたら今のこんな世の中においても変わらずいちばんの希望なのではないか。
独りで生きるのは楽しく辛く、分かりやすくて便利でそれは綺麗で完結されていて、安易にパッケージングされた歓びを与えてもらえていた。
でも愛というものは寛大にぼくがその力のもとに帰ることを許してくれた。
人によってはこの文章は意味不明に思えるだろうし、自分に酔ったひとりごとだと感じると思うので、嫌だったら読まなくていいし、ここまで読み進めてくれて感謝をしたい。
ぼくはずっと怖かった。
少年から青年になって、おとなになって、多くを失って、忘れて、奪われて、慣れて、汚れてないがしろにし続けた。
幼い日に描いた希望は一つも残らず、本当だと思っていたことはただのゴミだったと思い知らされるたびに、ひとつひとつ捨てていった。
もう傷つかぬように、言い訳を重ねて、逃げて、与えられて感謝したような顔をして、陰で泣いて。
これはぼくの中の宣言なのだ。
誰のためでもない、自分との約束。
愛を大事に生きていく、それを忘れないように、ぼくのことを好きでいてくれる人と、ぼくにとって大切な人やものを大切に、もう拗ねて隠れて逃げないように、これからは笑って生きていく。
かみさまありがとう。
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