見出し画像

『カゴ抜けの年』プロローグ

プロローグ

 そこは単に「ヤマ」と呼ばれていた。
 町の東北部に位置するヤマは、その昔――かれこれ三十年ほど前――この地方で「雑古場(ざこば)」と呼ばれた、世間でいうところのゴミ捨て場であり、マルミ興産という産廃業者によって、この地方の各地で集められた、新旧の粗大ごみの一大集積場となっていた。
 マルミ興産の持ち主である丸美達義は、町ではよく知られた人物だったが、それは彼がヤマの所有者であることとは関係がなかった。達義はこの町の町長であり、また、町の五分の一ほどを所有する大地主だったからだ。そのため、マルミ興産にはさまざまな便宜がはかられていたが、それに表立って異議を唱える者はだれもいなかった。
 それでも、ヤマの管理については、いろいろと問題が指摘されていた。その多くは子どもを持つ親たちからで、ヤマで遊んでいた子どもが怪我をしたり、ヤマに出入りするトラックに子どもが轢かれそうになったりという状況への抗議――要はヤマが危険な場所だったからだ。
 もちろん、ヤマには関係者以外の立ち入りは禁止されていたが、それを守る子どもたちはひとりもいなかった――そのような子どもは即座に仲間から「弱虫」と断定された。
 ヤマの背後には石切山と呼ばれる、この辺りでは比較的新しい石灰岩の切り出し場が控えていた。そこを粉塵を巻き上げながら出入りするダンプカーは、スピードを控えるということを知らなかった。だから、不注意な犬や猫がいつもぺしゃんこになって、恨めしげに地面に張り付いていた。
 そして、そんな乱暴なダンプカーの間を自慢の自転車ですり抜けながら、ヤマに出入りするのが、子どもたちに一番人気のある度胸試しだった。
 ヤマにはいくつものアトラクションめいた遊び場があった。あるエリアには、古いテレビが集中して捨てられていたため、ブラウン管が百の目を持つ怪獣のように見え、想像力のたくましい子どもは、自分をその怪獣に立ち向かうスーパーヒーローに見立てた。また、別のエリアには、冷蔵庫や洗濯機が雑多に捨て置かれたままになっていて、子どもたちに難度の高いかくれんぼの場所を提供していた。
 なかでも、子どもたちのお気に入りの遊び場は、タイヤがうず高く積まれたエリアだった。そこはさまざまなサイズのタイヤがサイズごとに揃えられ、天にそびえるがごとく、いくつもの山をつくっていた。そのてっぺんにに上り、一番上のタイヤを揺らしながら、その山を上から崩すのは、ちょっとした快感だったが、もちろん、大変危険でもあった――実際に、崩れ落ちるタイヤの山に巻き込まれ、亡くなった子どももいる、という噂もまことしやかにささやかれていた。そのせいもあってか、ヤマにあって、唯一、そのエリアには鉄条網が張られていた。
 臆病な亮にとっては、そんなタイヤ王国のなかでも、比較的与しやすいのが、鉄条網の外側にある平積みのタイヤ置き場だった。そこには横綱級のタイヤの山には加えてもらえない規格外のタイヤ――多くはダンプのタイヤのように、用途が限られた巨大なタイヤや、溝がまったくない、再生不可能なタイヤ――が、五段かせいぜい六段くらいの高さで平積みにされていた。
 亮はヤマへ行くと、ちょくちょくここまで足を伸ばして遊んだ。
 野積みされたタイヤは、雨上がりのあと、必ず内部に水が溜まった。その太い輪の上に両足を広げて踏ん張り、力を入れて左右に揺らすと、バシャバシャと中の雨水が盛大に散らばるのがおもしろかった。溜まった水が多すぎると、タイヤは重くなり、亮のような子どもの力では簡単に揺らすことができなかった。だから、ちょうどよい水の量のタイヤを見つけるのがこの遊びの肝であり、コツだった。そして、そのコツを知っているのが、亮の自慢だった。
 その日の夕暮れ、亮は家に帰る時間を気にしながら、いつものようにタイヤの山の上に君臨していた。ここ二三日続いた晴天でタイヤの中の水はあらかた蒸発していた――したがって、あまりおもしろくはなかった。タイヤの下には雑草が生い茂り、トノサマバッタが時折、草むらの隙間から飛び出しては、バタバタと耳障りな音を立てながら、より高い丈の草むらへと飛んで行った。
 亮はタイヤの山を下りながら、ふと何かの気配を感じて、足を止めた。遠くに何か光るものを目の端で捉えたような気がしたのだ。
 タイヤの山の反対側には、それより背の低い冷蔵庫の丘があった。廃棄された冷蔵庫は、通常、中にある冷媒用のガスを抜かれた上でここに捨てられることになっていたが、実際にそれが守られることはほとんどなかった――ヤマではそんな面倒なことは行われなかった。
 廃棄冷蔵庫の多くは、人目を忍ぶように乗りつけられた何十台ものトラックの荷台から乱暴に投げ落とされた。そして、それらはそのままだんだん積み重なっていった。それが冷蔵庫の丘の正体だった――遺棄された冷蔵庫の墓場なのだ。
 冷蔵庫のなかには何も入っていないはずだった。普通、人は冷蔵庫の中身を捨ててから冷蔵庫の本体を捨てるだろう。しかし、おそらく食べ物の臭いが染みついていたのだろう。いつからか、冷蔵庫の丘の上にはカラスの一群が居つくようになっていた。ヤマのカラスは人間を恐れず、まれではあるが、食べ物を持った人を脅かすこともあった。
 亮は、冷蔵庫の丘にカラスのねぐらがあるのではないかと考えていた。ここは、子どもたちのかくれんぼの場所に事欠かないのだから、カラスたちが隠れる場所もたくさんあるだろう。きっとそのなかにカラスのねぐらもあるに違いない、と亮は思った。カラスが群れをなして、一か所にかたまっている様子を想像すると、亮は空恐ろしくなった。
 亮がカラスを恐れるようになったのは、カラスは人の目をえぐって食らうという、子どもたちの間でまことしやかに囁かれていた噂を信じたからだった――実際、くちばしに目玉らしきものをくわえたカラスが電柱の上に留まっているのを見かけたことが遭ったのも、亮の思いに拍車をかけた。実際は魚か家畜の目玉か、それよりもっと取るに足らないものだったのだろうが、亮にはそれが人間のものに見えた。そして眼帯をつけた大人を見ると、彼らがカラスに目玉を奪われたのだろうかと思った。
 おそらく、その噂は、カラスが光るものを集める――カラスの巣の中にビー玉を発見したという類の記事を、子どもらしい想像力で歪曲したものなのだろう。ビー玉が目玉に変わることで、子どもたちに不条理な恐怖の対象を提供していたのだ。
 亮が冷蔵庫の丘で見かけたものは、実際、カラスとは何の関係もなかった。それは遺棄された冷蔵庫のひとつの、ドアの隙間から見えていたものだった。
 タイヤの山を下りると、亮は冷蔵庫の丘を見上げた。さっき光った場所はそこからは見えなかったが、確かにそこに何かがあると思った。冷蔵庫の丘まで行ってみたかったが、亮は時間が気になっていた。そろそろ母親が起きるころだった。
 タイヤの山の鉄条網の柵の下には雑草が茂っていた。それはイヌタデと呼ばれるピンク色の実に似た花をつける野草で、亮が物怖じして話しかけられない、同級生の女の子たちが、ままごとで赤飯代わりによく使っているものだった。
 亮は足元にあったイヌタデの花を乱暴にむしり取ると、指でしごいた。そして名残惜しそうに、背後の冷蔵庫の丘を見やると、家に向かって走り出した。

 大きな音を立てないように気を遣って家に入ったが、母親の幸子は既に起きていた。レモンイエローのパジャマを着て、起きたばかりなのか、髪の毛はほつれ放題だった。ウィスキーの入ったグラスを手に、キッチンのテーブルに座っていた。
 テーブルの上には、今朝亮が用意した朝食が置いてあった。どれも冷めきっているが、どのみち、母親は食べないだろう、と亮は思った。薬が抜けるまで。
「どこに行ってたの」と幸子は亮の顔を見ないでいった。
「ちょっと」と亮はいって、肩をすくめた。母親の機嫌を損ねることがわかっているのに、亮はいつもこう答えてしまう。
 キッチンには饐えた臭いが漂っていた。朝、ゴミを出し忘れたのに亮は気づいたが、幸子はあまり気にしていないようだった。次の回収日までは、あと四日間ある。外の物置小屋に入れておこう、と亮は考えた。
「学校の準備があったんだ。用意しなくちゃならなかったんだよ」
「そう」と幸子は答えた。
 夏休みが始まって一週間になるのに、母さんはそれも覚えていないんだ、と亮は思った。義父が家を出ていってから、幸子はアルコールと睡眠薬を常用する生活を送っていた。
 義父の丸美浩三は、マルミ興産の三男で、丸美の家では厄介者扱いされていた。家を出て早々に、幸子が働いていたスナックに顔を出すようになり、やがて親子と一緒に住むようになった。それが三年前のことだった。
 浩三との暮らしは長くは続かなかった。浩三は女関係が激しく、すぐに新しい女ができたからだ。幸子は店をやめ、薬に頼るようになった。元が看護師だったから、睡眠導入剤の危険性については知っていたはずだったが、幸子はいとも簡単に中毒になった。
 テーブルの上にあった水の入ったコップには、口がつけられておらず、その前には封を切ったばかりの錠剤の箱が置かれてあった。
「寝ていなくていいの」
 亮は母親が一日の大半を寝て過ごすのを知っていた。
「今日は調子がいいから」と幸子はいった。
 そういう母親の顔色は悪く、いかにも病人めいていた。まだ薬の効果が抜けきっていないのだろう。ぶるぶる震える骨ばった手で、絶えずパジャマの襟元を合わせていた。
 亮は目を落とした。

 夕暮れ近くのヤマは、昼間よりぐっと静かだった。トラックの大半が既に出払い、バッタよりも魅力的な声を持つ虫たちがそろそろ活動を開始しようとしていた。
 母親が再び寝室へ向かうのを確認して、亮は家を出た。出かけるとき、寝室の母親に声をかけたが、返事はなかった。きっと酩酊状態だったのだろう。家の裏手に回り、今朝出し忘れたゴミ袋を物置に押し込むと、家の中でうめくような声が聞こえてきた。幸子が薬を飲みすぎるのは、浩三のせいばかりとはいえなかった。
 ヤマにある冷蔵庫の丘は、夕日に照らされ、きれいだった。亮は、日が傾くと、昼間見た、あの光ったものが見つからないのではないかと思ったが、そんなことはなかった。
 丘にはさまざまな大きさや色の冷蔵庫が捨てられていた。その多くは扉が外されていた――愚かな子どもたちが入り込んで、閉じ込められないようにとの配慮だった。時折、ネズミが走り抜けていく、細く狭い道を、亮は足を滑らせないように、慎重に上っていった。
 光は冷蔵庫のひとつから出ていた。それは旧式の錆の出た白い冷蔵庫で、凹んだ扉がついていたが、閉まっていた。愚かな子どもを飲み込んだ後なのだろうか――光はその隙間から漏れ出ていた。庫内を照らす照明にしては明るすぎたが、そもそも廃棄された冷蔵庫に電気が通っていること自体が不思議だった。だから、その冷蔵庫の扉を開けて、そこに階段を見つけても、亮は驚かなかった。
 その階段は、ペンキの剥げた鉄梯子に毛が生えたような粗末な代物だった。庫内にはちょうど人ひとりが通るのがやっとという空間が広がり、ぼんやりとした光が下から漏れ出ていた。かすかに風も吹いているようだった。
 秘密基地だ、と亮はすぐに思った。だが、これだけのものを作るのは、子どもの力では無理だろう。だれがここにこんなものを作ったのだろうか。ヤマの持ち主のマルミだろうか。亮は丸美浩三の父、この町の町長である丸美達義を思い浮かべた。
 浩三が前に一度、幸子と亮を達義の家に連れていったことがあった。人を威圧するかのような大きな屋敷を見上げ、物怖じしている二人を前に、玄関先に仁王立ちしていた達義は、まるで野良犬を追い払うかのように、あっちへ行けと手を振った。おそらく、浩三の新しい女遊びの相手とその子どもだとでも思ったのだろう。門を出るなり、母親は浩三に泣きながら抗議したが、亮はといえば、早くその場を立ち去りたい一心だった。そんな無粋な達義が、好き好んでこんな秘密基地を作るとは考えにくかった。
 亮は知らなかったが、あと五日すると、ヤマは町長の丸美達義所有ではなく、息子の浩三のものになる。達義が土地を厄介者の浩三名義に変えてしまうからだ。それがヤマで子どもひとりが行方不明になったことに対する、達義なりのやり方だった。
 冷蔵庫の扉を押し開くと、足元に乾いた土のかけらが落ちてきた。亮は坂の上を見上げた。丘の頂上付近にカラスが一羽うずくまるように留まり、こちらをうかがっていた。冷蔵庫の丘にはやはり巣があるのだろうかと亮は思った。
 カラスは石炭のように真っ黒で、目が鋭く、油断ならない様子だった。亮はかがむと、足元の石ころを拾い上げ、カラスに向かって投げた。カラスのすぐ手前に落ちたが、カラスはこちらを見たまま微動だにしなかった。
 どうしよう、と亮は思った。このまま進むべきか、それとも、一度家に帰って、誰かほかの子どもを誘って一緒に来ようか。しかし、亮には自分と一緒に冷蔵庫の丘に行ってくれるような友だちは思い浮かばなかった。
 次に、家にいる母親のことを考えた。ベッドの中で布団にくるまっているか、テーブルの前にただじっと座っている母親の姿を。そして、何が待っているにせよ、家にいるよりはましだという気がした。
 亮は冷蔵庫の扉を開け放したまま、中に入った。そして、ぼんやりと光る階段の下へと歩き出した。背後で扉が閉まる音がし、カラスが愉快そうに笑う声が聞こえた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?