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『飛び地のジム』第二部 13

13

 三台目の車を見送った後、ヤスコ・メイは埃っぽい道路に、ジムにはわからない記号を書いた。それは棒に棒を書き足していく不思議な図形だった。
 ジムがそれについて尋ねると、ヤスコはこういった。
「これは日本語なのよ。漢字というの。祖母から教わったわ。今、わたしは“下”という字を書いたのよ。これは3ね。こうやって一本ずつ増やしていくのよ」
 そういって、ヤスコは“下”の左横にもう一本、縦の線を書き加えた。
「これが4よ」
 ジムはひどく落ち着かない気持ちになった。
「じゃあ、それは永遠に続くのかい? 永遠に何千何百とその棒が書き加えられていくわけ?」
「もちろん、違うわよ」とヤスコが笑っていった。
「いい? あと一本、書き加えるわ」といって、ヤスコはその下にもう一本、横に棒を付け加えた。
「これが5ね。これで最後。それは“正”という字なの。正しい、という意味」
「じゃあ、5で終わりなのかい? それ以上はどうするの?」
「この“正”の字を連ねていくの。“正・正・正”ってね。これだと、“正”が三つだから一五」
「正しい、正しい、正しいって?」
「そういうことね」
 二人は笑った。
 陽が次第に高くなってきていた。
 じりじりと肌が焼かれ、火照った肌から汗が吹き出す、長くけだるい夏の日の一日がいよいよ本格的な活動を始めようとしていた。
「ハマーシュタインはエルドン・テイラーという俳優だったの。アマチュアのね」とヤスコがいった。
「彼はホークナーの知り合いだった。ホークナーの映画に出ていたのよ。ホークナーの取り巻き連中の一人だったの」
「そのどこかで戦争があった」とジムはいった。
「戦争が先か。それともこの計画のどちらが先だったかはわからないわ。イザール人とのファーストコンタクトという仕掛けを作ってから、おもむろに戦争を始めたのかもしれない。いずれにせよ、彼らは一本の映画でまんまとわたしたちを騙したのよ」
 ビル・ホークナーの未公開作品だ、とジムは思った。母親のジーナはそれを発見し、もう少しで真実にたどり着きそうだった。あるいは、もしかすると、カスターもそうだったのかもしれない、と思った。中古エアカーの上物を買いにきたイザール人一行の背中に、カスターはYKKの規格品のジッパーを見たのかもしれない。
「ハマーシュタイン・コーポレーションは国連のダミー会社だ」とジムがいった。
「もちろん、そうよ。彼らはテイラーの頭の中をいじって、ハマーシュタインに仕立て上げたの。テイラーがそのことを知っている唯一の人間だったから」
「でも、なぜテイラーだけが生かされていたんだろう」とジムはいった。
 他はみんな殺されているはずだ。あのホークナーですら、とジムは思った。今ではホークナーの死が事故ではないという強い確信があった。他の関係者と同様にビル・ホークナーもまた、殺されたのだ――ペプシを開ける安っぽい栓抜きにではなく、彼らに。
「ブルンヴァン博士が教えてくれたわ」とヤスコがいった。
「エルドン・テイラーは重要人物だったのよ。科学者なの。細菌兵器の専門家だった。雨降虫を作ったのが彼なの。雨降虫は一切の核兵器を無効化することのできる唯一の兵器だったのよ」
「驚いたな」とジムがいった。
 ヤスコが両腕を大きく上に上げ、伸びをした。足元から吹き上げてきた小さいけれどもつむじ曲がりな風が、砂ぼこりとともにヤスコのピンとはねたくせ毛を揺らした。
「ホークナーの作品は一本も見たことがないわ」とヤスコがいった。
「中には面白いものもある」とジムが考えながらいった。
「だけど、ほとんどの作品は見るべきだけの価値はないな。彼は一切を憎んでいた。この世の全てのものをね。強迫神経症の世界だよ」
 そして少し間をおいて、こう付け加えた。
「ホークナーはぼくの父だった。生物学上のだけど。ぼくは彼の死後に生まれた人工受精児なんだ」
「まあ」
 どこかで虫の声が聞こえた。背の高い葉の繁みからはっきり聞こえてくる小さな生き物の声だ。それはおそらくバッタかキリギリスのものであったろう。昆虫の中でも最も生命力が強いもののひとつだが、しかしまた最も放射能の影響を受けやすい生物だった。その小さな生き物には七本目の脚があるかもしれない。あるいは、翅が癒着し、無様な恰好で地べたをはい回るだけの生き物になっているかもしれない。しかし、それでもその小さな存在は生きていた――それが肝心だった。
「国連も政府も認めないだろうな」とジムがいった。
「認めないでしょうね、絶対に」とヤスコがいった。
 そのとき、それが聞こえてきた。
 待望久しいクルマのエンジンの音だった。低い振動とギアが切り替わるときのやかましい金属音。それはマクガイア博士のチューンナップされた高性能エンジンとは比べるべくもない貧弱で情けない音だった。
 それは緑と赤のペイントで彩られたド派手な農場用のトラックだった。おそらく、その農場ではお化けのようなカボチャとお化けのようなトマトを作っているのだろう。
 運転していたのは、でっぷりと太った四〇がらみの男だった。二重顎で野球帽を被っていた。多分、仕事を終えた夜には缶ビールのパックとポテトチップスの袋を手に、TVの前に座って、インディアンズの応援をするのだろう――おい、へっぽこジョージ、何で打てねえんだよ、貴様には金玉がついてんのか。
 ふたりは大声を上げて、トラックに向かって手を振った。ヤスコはジーンズの裾をまくり上げ、これみよがしに長くすらりとした足を見せつけた。
 しかし、その男は二人をちらりと見ると、首を盛んに横に振りながら走り去った。
 ヤスコは屈み込むと、耳をふさぎたくなるような罵りの言葉と共に、記号の下にまた一本、小さな棒を書き加えた。
「時々、自分には全然魅力がないんじゃないかと思うことがあるわ。あんな田舎者の間抜けすら、捕まえられないんだから」
「きみは十分魅力的だよ。前にもいったと思うけど」
 不意に、ヤスコが静かな声で尋ねた。
「“ボリスの声”に戻るつもりなの?」
「いや、戻らないだろうね」とジムはいった。そして自分でもその気が全くないのに気づいて驚いた。
 不意にジムはいった。
「生まれ変わるってのは、どういう気分なんだろうな」
 そして自分はいかに多くの生まれ変わりを見てきたのだろう、と思った。
 うまくいった者もいるし――母親のジーナやもしかするとハマーシュタインもそうかもしれない――、完全に失敗だった者もいる――ヘッジズやマクガイア博士がそうだ。その多くは既にこの世にはいなかったが、しかし、ボビーはきっといつしか生まれ変わってくるだろう、とジムは思った。人間の作家か詩人に。それとも何でもいいさ、彼のなりたい者に。彼にはその権利があるはずだ。
「新しい仕事を考える必要があるな」とジムはいった。
「最初から学ぶ必要のあるものがいい。修行し、鍛練し、細かい技術を覚え、そしてその技術で何かを作り上げるような仕事が」
 たとえば、映画のような、とジムは密かに思った。ホークナーの作品のようなものではなく、疲れ果てて暗闇の中に逃げ込んできた者を励まし、再び陽の当たる世界に送りだしてあげられるような映画だ。
「あなたにはできるわよ」とヤスコがいった。
 そのとき、ジムは西の空から雨降虫の群れが近づいてくるのに気づいた。
「もうじき雨が降るわね」ヤスコがそれを見て、いった。
「それまでにわたしたちを乗せてくれるようなトンマが来ると思う?  わたしは来ない方に賭けるわ」
「じゃあ、ぼくは来る方だな」とジムはいった。
 そしてふたりは所在なげに道端に突っ立ったまま、道路の彼方、農場用トラックに乗った救い主が現れる方向をじっと見つめた。
「わたしたち、間抜けに見えるわ」
「そりゃ、まあ、そうだろうね」とジムはいった。
「口の中がじゃりじゃりする」ヤスコが文句をいった。
「もちろん、ぼくがそうじゃないというつもりはないんだろうね? こっちはさっきヘンテコな虫まで食っちまったんだぞ」
 そしてやはりロードムービーは、自ら出演するより映画館で観るに限るな、と思った。
 そのとき、ジムはかすかに、遠くから乾いたエンジンの音が響いてくるのが聞こえたような気がした。
「来たわ、カモよ」とヤスコが同じく耳をすませて、いった。
 カモかどうかはわからなかったが、五台目のクルマは確かにやって来た――色あせたブルーの古ぼけたセダンがこちらに向かって猛スピードで走ってくるのがわかった。
 そのクルマは二人を認めると、明らかにスピードを落としたようだった。どうやら、今度は止まってくれそうだ。
「残念ながら、ぼくの勝ちのようだね」とジムはしかめっ面のヤスコにいうと、両手を大きく振りながら、道の真ん中に飛び出すように駆けていった。
 そのとき、ジムは自分が賭けに負けたのを知った。
 そのクルマを運転していたのは、若い女だった。
 尖ったあごに、真一文字に結んだ口。そしてその表情にはジム自身、以前、鏡の中で見かけたことのあるホークナーの血を示す狂的な何かがあった――その若い女はホークナー的世界の申し子、ベッキー・ジャービスこと、ビリー・アルムだった。
 一瞬にして、ジムはビリーは我々をひき殺すつもりなのを悟った。
 ヤスコを見たが、彼女は自分のすぐ横にくっつくようにして立っていた――期待に顔を輝かせて。注意が足りなかった。最後の最後にジムは自分が取り返しのつかない間違いをしてしまったのを知った。
 その瞬間、ジムは痛いくらい大きくぐっと目を見開いた。それが自分とヤスコの避けられない運命ならば、ちゃんと目を開けて見届けてやろう、と思った。
 しかしそのクルマは砂ぼこりを上げながら、二人の横をかすめるように通り抜けると、心持ちスピードを上げて走り去った。
 ビリーはジムの方を見ようともしなかった。
「人に期待させといて、最低だわ、あの女」ヤスコが走り去るクルマを見ていった。
「いいさ。待とう」とジムはいった。膝の力が抜けた。まだ心臓がどきどきしていた。
「時間はあるんだ」とかすれた声で付け加える。
「それまでに雨が降らなきゃいいんだけど」とヤスコが情けない声でいった。
「雨降虫はこっちには来ないよ、多分」ジムが空を見上げて、いった。
 微妙に風向きが変わっていた。雨降虫の群れは大きく進路を変え、今また元来た方向に戻りつつあるようにジムには見えた。
 それに随分待ったんだから、もう少し待てないこともないだろう、と思った。
 ジムは道端に屈み込むと、ヤスコが書いた記号の下にさらにもう一本、長めの横棒を書き加えた。
 それは“正”という字になった。                              

                           (第二部・了)

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