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『飛び地のジム』第二部 12

12

 ブルンヴァン博士がそのニュースを聞いたのは、本物のワイルドターキーで沈没しそうになっているときだった。
 仇敵ポール・マイヤーのいうことは、相変わらずわけがわからず要領を得ないものだった――もしかすると、こちらがぐでんぐでんになっているせいかもしれないが。
「え? なんだって?」とブルンヴァン博士はいった。
「飲んでるのか、あんたは」国連議長はユダヤ人らしい謹直さで非難した。
「もっと早くあんたを首にしとくべきだったな。アル中の医者がアル中の患者を診てるなんて、全くアメリカ人てのはどうなってんだ。これは金曜夜のバラエティ・ショーじゃないんだぞ」
「あんたはわたしがかつらだってことを知ってたか?」
「おい、いいかげんにしろ」
「いいから聞いてくれ。ハマーシュタインは、テイラーは、あのイカレポンチはわたしがかつらだといったんだ。あいつはサイオニック能力の持ち主だそうだよ。自分でいったんだ。透視して、わたしの頭がカツラだと見破ったと」
「で、実際のところはどうなんだ?」国連議長が興味深そうに尋ねた。
「かつらさ」
 そういうと、ブルンヴァン博士は頭に手をやり、人工毛髪を取ってみせた。
「おやおや」国連議長はいった。
「とにかく、あんたのいうことはわかった。全てオーケーさ」
 不意に国連議長の好奇の視線にいたたまれなくなり、ブルンヴァン博士はそうしどろもどろにいうと、逃げるように映話を切った。
 空白になったモニターと左手に握りしめた人工毛髪を見て、おれは今、一体、何をしたんだろう、と思った。あのマイヤーに自分はかつらだと告げたばかりか、その証拠を見せたのでは?
 末期的症状だ、とブルンヴァン博士は自分に診断を下した。
 自ら自殺的行為を招くなんて。そして頭の隅で、これはいささか自家撞着的な表現かもしれないな、とぼんやり思った。
 アルコールのせいだ、とブルンヴァン博士は思った。それと過剰なストレス。大昔の日本人シンガーがいった通りだ。ストレスが世界をだめにしている。ストレスが責任ある地位についているひとかどの人物をいかにたやすく間抜けにするかを見てみるがいい。
 ブルンヴァン博士はワイルドターキーのボトルをにらみつけた。
 とにかく、今は当面の問題を処理すべきときだった。
 さあ、アーノルド、重い尻を上げて、そのボトルをキャビネットに戻すんだ。現実を直視しよう。そしてあのトンマで自信過剰の国連議長に、このブルンヴァン博士にどれだけのことができるかを大いに見せつけてやれ。きみにならできる。できるさ。がんばれ、アーノルド。天下のブルンヴァン医学博士。ヒポクラテスも応援してるぞ。
 ブルンヴァン博士は自分を叱咤激励し、やっと思いでボトルをキャビネットに戻すと、改めてデスクの前に座った――そうさ、これでいい。
 とにかく状況は複雑怪奇。しかも刻一刻と悪化の途をたどっているかに見える。
 一体、なんだって、あのマクガイア博士がここに現れるんだ、とブルンヴァン博士は思った。もう既にこちらはハマーシュタインで手一杯だというのに。今度はあの気違いがこちらに向かっているという。いや、そうじゃないな、とブルンヴァン博士は濁った頭で考えた。マイヤーはやつを仕留めたといったんだ。こちらに向かっていたが、州警察に捕まり、殺されたと。それでこちらに連中が来るのが遅れたんだ。幸いなことに。
 しかし、なぜマクガイア博士はここに来ようとしたのだろう、とブルンヴァン博士はいぶかった。もしかすると、わたしに対する復讐だろうか。わたしがあいつをちゃんと治療できなかったので、その腹いせにわたしを切り刻もうとしたのだろうか。まったくの逆恨みってやつじゃないか、こいつは。
 マクガイア博士は正真正銘の分裂病だったな、とブルンヴァンはかつての患者を思い起こし、つぶやいた。あいつは全く現実が見えていなかった。
 精神病者は何を考えているかわからない。それは彼が長年、この仕事に携わってきた経験から導き出された唯一の結論らしきものだった。結局のところ、長いキャリアを積み上げ、わたしが獲得したことといえば、そこらの素人の意見と何ら変わりがない。
 これはもしかすると、恐ろしいことかもしれない、とブルンヴァンは思った。これまでのキャリアが全く無駄なものだなんて。いやいや、もちろん、そうじゃない、とブルンヴアン博士は慌てて考え直した。わたしは今、典型的な抑うつ状態に陥ってるんだ。自分に価値がないと思いはじめたら、要注意だ。それはうつ病の徴候だから。
 とにかく精神分裂病にはコミュニケーションの隔絶という本質的な問題以外の何かがある、とブルンヴァン博士は思った。
 たとえば、マーサ・アルムだ、とブルンヴアン博士は思った。あの患者は今まで自分が診た中でもとりわけ特異な症例だった。
 マーサがその病んだ頭の中で作り上げた世界は、考えうる限り最悪の世界だった。そこでは人は一様に悪意に満ちた阿修羅のごとき存在であり、物という物は皆、人間に歯向かう。もちろん、そこに投影されている強迫観念自体は従来の心理学的解釈でも十分説明はできるだろう。だが、あの世界、巧緻でありながら、同時に歪んだあの世界は無理だ。絶対的創造者として、その頂点に怒れる神ホークナーをいただく世界。いまいましいビル・ホークナー。B級映画監督にして、マーサ・アルムの支配者。
 多分、やつも病的人格の持ち主だったに違いない、とブルンヴァン博士は思った。診察したわけじゃないが、あいつの作品を見りゃわかる。けったいな異星物にもったいぶった主人公――病気だ。もしかすると、ホークナーは自分の作品の中に自らの病的な部分を少しずつ注入していたのかもしれない。全ての作品に少しずつ彼の病んだエッセンスが含まれているんだ。多分、しきい下に伝わるメッセージが入っているのだろう。彼の作品を観たものは、次第にホークナーの世界観を受け入れるようになる。自分を世界一の大富豪だと思い込んだテイラーのように――もっとも、それには自分も協力しているわけだが。
 そういえば、マーサ・アルムには娘がいたな、とブルンヴァン博士は思った。何かとんでもない名前がついていた。男の名前だ。確か――。
 カルテを見てみりゃいい、とブルンヴァン博士は思い立った。もちろん、記録されているはずだ。ブルンヴァン博士はよろよろと立ち上がると、端末機の方に向かいかけた。
 そのとき、デスクの上のインターヴィドが鳴った。
「なんだ?」
 ガードマンロボットだった。
「侵入者、三名です」
 まったく、こんなときに限って。一体、この病院はどうなってるんだ、とブルンヴァン博士は心の中で罵った。
「なに者なんだ?」
「わかりませんが、ロボットが一体混じっています。排除命令を出してください」
「許可する。だが、殺すな。わたしが後で話を聞く」
「ロボットもですか?」不満そうな顔でガードマンが尋ねた。
「ロボットも破壊しちゃいけないんですか?」
「もちろん、ロボットもだ」
 そういうと、ブルンヴァン博士は切った。全くロボットがお互いに抱いている近親憎悪にはいらいらすると思いながら。
 多分、わたしはそれについての論文を一本ものすることができるに違いない、とブルンヴァンは思った。人間の脆弱な自我に比べ、ロボットの自我は――いや、疑似自我というべきかもしれないが―― 、奇妙なまでに頑固だ。それは帝国主義的な拡大戦略をとる。かつて島国日本がそうやってアジアの周辺諸国を次々と傘下に収めていったように。自分たちの価値観で相手を覆い尽くすのだ。
 しかもロボットは―― 、とブルンヴァン博士は思った。かつての日本人よりももっとタチが悪い。大日本帝国が複数いるようなもんだ。なぜなら、彼らはお互いの存在を認めることができないからだ。やがて世界はロボットの世界観で埋め尽くされる。それぞれがそれぞれの価値観を主張しあって。彼らは折り合うということができないんだ。その結果、起こることは――恐ろしいことに共食いだ、とブルンヴァン博士は思った。やつらは他のやつらの自我を食いつぶすことで、自分の生き残りを図っているんだ。
 そのうち、忘れずにこれについて書いておこう、とブルンヴァン博士は心に誓った。精神医学学会の会報に載せてもらおう。レイアウトに工夫を凝らし、特注の書体を奮発し、センセーショナルに飾りたててやるんだ。これが終わったなら。この厄介事が全て処理されたら――十分やってみる価値はある。
 ブルンヴァン博士はデスクの引出しを開けると、処方箋用の書類の束の下から、一挺のレーザー・ガンを取り出した。
 それを白衣の下に忍ばせると、ブルンヴァン博士はオフィスを出た。
 そして二、三歩進んだところで、慌てて引き返した。
 かつらを忘れていた。

 その病室は明らかに他のものと違っていた。
 天井から透明のプラスチック・シートの覆いが多数ぶら下がっていた。
 白い世界は明らかに病院であることを感じさせるが、その異様な光景はまるで何か得体の知れない昆虫の巣穴に迷い込んだかのような気にさせた。
 そこはひと言でいえば、ハイテクの霊廟だった。
 一定間隔で信号を送るモニター・ロボットが室内を徘徊し、患者を生かすためなら、ありとあらゆる非人間的な行為が行われても一向に構わないとでも思っているようだ。
「ここはむしろ、工場ですね」ロバート・ジュニアが病室を見渡して感想をいった。
「こんなところにレイはいないな」とジムはいった。
「火星から戻されたのなら、きっと一般病棟に違いないさ」
 もっとも、ここに一般病棟なんてものが存在するならだけど、とジムは思った。
「こいつら、これでも本当に生きてるのか」
 ヘッジズがぎらぎらした目で、ベッドの上の患者たちを見つめていた。
 ジムはヘッジズの状態が次第に変わりつつあるのに気づいていた。頬がこけ、目が落ちくぼんできた。突き出た腹はそのままに、手足だけが妙に細くなってきていた。そして目は黄色く鈍い光を放ちだしていた。
 だが、一番気になったのは両手の爪だった。あんなにぼろぼろだった爪が今ははっきり伸びてきているのがわかった。しかもそれは元の爪ですらなかった。それは鳥のようなカギ爪だった。かいつまんでいえば、マイケル・ヘッジズは時間が経つにつれ、ますますグールに似てきていた――いわゆる喰人鬼に。
 あとどれぐらいの間、ヘッジズは人を襲うのを我慢することができるのだろう、とジムは思った。もうそれほど長い時間ではあるまい。
 ロバート・ジュニアが廊下に出ていた。
 ジムはヘッジズに向かっていった。
「あっちだ。行こう」
 ヘッジズは一瞬、物凄い形相でジムをにらみつけると、すぐに、
「ああ。わかった」とつぶやいた。
 そして名残惜しそうにその病室を後にすると、ジムの後についてきた。
 ジムはヘッジズが自分の背中を痛いほど見つめているのを感じた。あるいはそれは背中などではなかったのかもしれない。およそ考えたくはない可能性だったが、もっと肉がついていそうなところかもしれない、とジムは思った。
 ロバート・ジュニアは一部屋一部屋、病室をあらためていくつもりだった。
「仕方ないですよ」とボビーはいった。
「我々は不法侵入者ですからね」
 不法といえば、この病院にはそいつの匂いがぷんぷんしているぞ、とジムは思った。この病院は見たまんまのところじゃない。もっとも、何にせよ、見たまんまのものがこの世に存在するとは彼には思えなかったが。
「二手に分かれよう」とヘッジズがいった。
「おれは二階に行ってみる。あんたらはこの階と、終わったら三階を探してみちゃどうだい? その方が効率がいい」
 果して効率だけの問題だろうか、とジムは思った。
「でも、あなたにはミスタ・カスターがどんな人かわかりませんよ」とロバート・ジュニアが指摘した。
「ジムにしかわからないんです。我々はやはり一緒に行動すべきだと思いますね」
「そうした方がいい」とジムもいった。
 それに廊下を出入りしている者が誰もいないのがジムには気になった。我々は確かに注意して行動しているが、それでも一人としてこの病院の関係者に出くわさないというのは少しおかしいのではないだろうか。
「おれにはわかるんだ。レイ・カスターはやせっぽちの黒人だ。喰いはしないよ」
 しかし、他の人間についてはどうかわからない、とジムは思った。既にヘッジズは以前のヘッジズではなかった。獣性がヘッジズを損なっていた。ヘッジズの人間の部分はもう残り少ないのた。ジムは餓えたようを目をしているヘッジズを見て悲しくなった。
 そのとき、ジムは気がついた。レーザー・ガンを手にしたロボットが二体、彼らの行く手を阻んでいた。ガードマンに違いない。制服を着たロボットなんて、今どき州警察の機動部隊かガードマンぐらいしかいない。
「ここはあんたたちのいるところじゃないよ」
 一方のロボットがレーザーガンを三人に向けたまま、そういった。
「面会だよ。患者の面会に来たんだ」とジムはいった。
「こんな夜中に?」ロボットがせせら笑っていった。
「それに、ここじや面会は前もってアポイントメントを取らなきゃできないんだ」
 もう一人のロボットがいった。
「取ったとしても、あんたたちは入れないだろうけどね。許可されない。許可しない。この文法的違いについて述べよ」
 ロバート・ジュニアが二人を押し退け、ロボットたちの前にしゃしゃり出ると、いった。
「その文法的違いは――」
 ヘッジズがロボットに飛びかかった。

 ハマーシュタインは旅をしていた。
 それは彼が長らく待ち望んでいたものだった。
 航宙船は流線型のスマートな形をしており、乗り心地は快適。おまけに隣にはヤスコ・メイが座っていた。
 ヤスコはドレスを着ていた。以前、見たような質素なTシャツにジーンズ姿ではなく、ゴージャスで優雅なスタイルだ。二〇世紀のデザイナーの作品のように見える。この方がずっと似合う、とハマーシュタインは思った。
 航宙船はワープをくり返しながら、琴座のベガに向かっていた。
 心地よい振動が眠気を誘う。
「あと、どれくらいなの?」
 ヤスコが眠そうな、幾分けだるい声で尋ねる。
「三時間ほどだ」ハマーシュタインは時計を確認して、いった。
「眠っていたらいい。着いたら起こしてやろう」
 ハマーシュタインはそういって、ヤスコの膝を軽くぽんと叩くと、傍らに置いたブリーフケースに手を伸ばし、中から一冊の本を取り出した。
 シートに深く腰掛け、いつものように任意の一ページを選んでみる。そこにはこうあった。

 苦痛には空白という要素があって
 苦痛がいつ始ったとも
 苦痛のない日が一日でもあったのかとも
 思いだせないもの

 苦痛に未来はない ただ「いまある」だけ
 だがその無限のひろがりは過去を含み
 新しい苦痛の時代を見つけようと
 あかあかと輝いている

 ハマーシュタインはパタンと本を閉じると、ブリーフケースに押し込み、こいつはもう必要ないな、と思った。
 少なくとも、わたしには必要ない。わたしはもう満たされているのだから。完全に。ここまで来るのに、随分遠回りをした、とハマーシュタインは思った。しかし、わたしはついにこの手に自分の人生を捕まえたんだ。
 ハマーシュタインは目をつぶった。
 ヤスコには次の映画の出演を約束してあった。それはずっと以前から約束していたことだった――ヤスコ・メイに主演映画をプレゼントするというのは。
 そうだな。恋愛物がいいだろう、とハマーシュタインは独りごちた。彼女の魅力がうんと引き立つようなスター映画だ。ヤスコ・メイを全面に押し出したニュー・ハリウッドの作品だ。相手役にはとびつきりの二枚目スターを選ぼう。男が見てもくらくらしそうなやつだ。ただし、ゲイに限る。撮影の合間に彼女にちょっかいを出されたら事だからな。清廉潔白で、それでいてセクシー。無理かな。ははは。それはちょっと欲張りすぎというものだろう。
 それとも、わたしが出てもいいな、とハマーシュタインは思った。いささかとうが立ってはいるが、なあに、メイクアップでいくらでもごまかせる。何なら、外科手術を受けてもいい。彼女だってその方がやりやすいのでは?  気心が知れた者とのやりとりの方が演技も生き生きするというものだろう。
 ハマーシュタインは妄想の淵であっぷあっぷしなから、何とか眠り込まないようにと努めた。彼にはイザール星に着く前に考えておくべきことがあった。歓迎レセプションでは何をいおう?  何か気の利いたことをいわなくては。地球人の偉大さと親しみやすさをひと言で表現するには一体、どうしたらいいのだろう?
 そのうち、彼は眠っていた。
 次に体が左右に揺すぶられるのを感じて、ハマーシュタインはうめき声を上げながら、目覚めた。隣にヤスコはおらず、目の前にはイザール人の男が立っていた。
「もう着いたのか」
 そういって、全然寝た気がしない、とハマーシュタインは思った。
「おはようございます。ミスタ・ハマーシュタイン。よく眠れましたか」
「ああ、眠れたよ。ありがとう」とハマーシュタインはイザール人にお愛想をいい、船窓から外を眺めた。
 船は既にイザール星に到着していた。ここはイザール星の宇宙港だ。
「わたしはあなたのガイドです。お連れの方は既に船外にお出になられましたよ。買い物をしたいそうで」
「おたくの星には何があるのかね?」とハマーシュタインはガイドに尋ねた。
「わたしが投資できるような産業はあるかね?」
 ハマーシュタインは席を立つと、背後にそのイザール人のガイドを従えながら、ブリーフケースを抱えて、出口に向かった。
 航宙船のデッキから、あれほど憧れていたイザール星を眺める。
 透きとおったような青空をバックに“歓迎”と染め抜かれた垂れ幕が見えた。
 遠くには火山のようなものが見える。噴煙を吹き上げ、今なお活動中の山だ。近くにはうっそうとした密林。典型的な熱帯性気候の惑星。おそらくどう猛な蚊もいるのだろう。刺されたら脳みそまで冒しそうなでっかいやつだ。しかし、海はどこだろう、とハマーシュタインは思った。この惑星は名だたる海洋惑星ではなかっただろうか。
 それはどこか大昔のサイエンスフィクションの挿絵を思わせる光景だった。タコに似た火星人と葉巻型の宇宙船に代表される世界。E・E・スミスとエドガー・ライス・バロウズのチンケなる合体。こいつはまるで子どもが描いた下手くそな絵だ、とハマーシュタインは思った。毛羽が立った絵筆の跡が見えてきそうな風景だ。
 ハマーシュタインは失望した。
 宇宙港には通商使節団らしきイザール人の団体が歓迎に来ていた。ハマーシュタインは辺りを見渡しながら、ヤスコはどこにいるのだろう、と思った。
 宇宙港の真ん中には演壇が設けられていた。多分、ここで歓迎レセプションが行われるのだろう。
 ハマーシュタインはガイドに促されるまま、演壇に上げられ、使節団の団長だというひとりのイザール人と対面させられた。
 ハマーシュタインはそのイザール人が口ひげを生やしているのに気づいてびっくりした。クジラ型異星人の口の上にはふさふさとしたひげがたくわえられていた。どことなくムーミン・パパに似ている、とハマーシュタインはぼんやり思った。
 そのイザール人は顔に満面の笑みを浮かべたまま、ハマーシュタインと握手すると、栄誉に堪えないといった誇らしげな声でこういった。
「我々はあなたを歓迎します。ミスタ・ハマーシュタイン。地球とイザール星の末永き友情に――」
 その途端、青空がぐらりと傾いた。薄っぺらい一枚板の空は、使節団のイザール人たちが手で支えていたのだった。誰かが「あーあ」という情けない声を上げた。
「おっとっと。こりゃ、いかん」
 そのイザール人はそういうと、あわてて演壇を駆け下り、仲間を応援しに走った。そのとき、ハマーシュタインはそのイザール人の背中にジッパーらしきものがついているのに気づいた。
「何せ、安普請なもので」イザール人のガイドが心からすまなそうにいった。
 ハマーシュタインは気分が悪くなった。胃の底から酸っぱいものがたえずおくびのようにこみ上げ、足ががくがく震えてきた。
「どうしました?」とガイドがいった。
「何か悪いものでも食べたのでしょう。それとも重力の影響かな」
 イザール人のガイドは心配そうな表情でハマーシュタインの顔を覗き込むと、すぐに背後に向かって叫んだ。
「おーい、誰か。水を持ってきてくれ」
 演壇の下でちょっとした混乱があった。長テーブルに置かれた水差しから一杯の水がコップに注がれ、ひとりのイザール人がそれを手に演壇を駆け上がってきた。
 そしてハマーシュタインの前に立つと、そのコップをうやうやしく差し出した。
「すまん」とハマーシュタインはいって、そのイザール人からコップを受け取ると、ぐいっと中身を飲み干した。
 そしてしげしげとそのイザール人を見つめた。
 今では彼らのどこがおかしいのか、ハマーシュタインにははっきりわかった。
 彼らの身体には一様にしわが寄っていた。まるでサイズの合わないウエットスーツを着ているかのように。おまけに足元はブーツだった。ハマーシュタインはそのブーツにメーカー名まで入っているのに気づいた。ホーキンスと。
「きみは――」とハマーシュタインはいった。
 そのイザール人はすぽっと頭を外した。
 中から現れたのは、ウィリアム・ホークナーだった。
「やあ、テイラー」とホークナーは笑いながらいった。
「地獄にようこそ」

 ブルンヴァン精神病院は迷路のようだった。
 実際、これを設計した人間はそれを念頭に、図面を引いたのだった。すなわち、脱走を企てる患者がなかなか道を覚えられないように、である。
 曲がりくねった廊下はどれも微妙に角度を変えられていて、それらは決して直角に交わることはなかった。患者がつまずいたりしないよう、段差はついていなかったが、ゆるやかな傾斜はあちこちにあった。
 だから、時たま訪れる面会人が、患者の乗った車椅子を押して、院内を散歩にでかけるときは、いつもちょっとばかり戸惑うことになった――すいすいと押せるな、と思った瞬間、患者の体重が両手にぐっと掛かってきたり、あるいはふうふういいながら車椅子を押していたかと思うと、急にひとりでに動きだした車椅子をあわてて追いかけたりした。
 もっとも、今ではそんな面会人もめっきり見かけなくなった。アーノルド・ブルンヴァン博士が連邦刑務所の囚人を優先的に受け入れるようになった結果、面会人の多くは自動的に三階の個室に案内されたからだ。ここは金持ち専用の特別室を集めたフロアで、ここに入っている患者たちは、厳密には患者ではなかった。彼らは仕事を逃れるためにここにやって来た。また、アブのようにうるさいマスコミ連中や養育費や慰謝料を取り立てにくる弁護士を避けるためにも。
 一階と二階には処置室と手術室、そして囚人用の病室があった。この階の患者たちの多くは身寄りがなかった。もしあったとしても、わざわざ長い道のりを一族の恥さらしを見舞うため、面会に来る者はいなかった。仮にそれだけの根気があったにせよ、植物人間同様の患者に話しかけるのはさぞかし気が滅入ったろう。囚人たちの中には歩ける者も歩けない者もいたが、いずれにせよ、何もいわなかったし(いえなかった)し、笑いもしなかった。彼らの脳にはブルンヴァン博士の手で細工がしてあったからだ。
 リチャード・カウフマンは当然ながら三階にいた。金はあったし、それをいうなら、彼は今、ちょっとした金持ちといってよかった。イザール人との一件が彼をトップに近いところにまで押し上げていた。
 名プロデューサーさ、とカウフマンは思った。名プロデューサーかどうかはわからなかったが、有名人ではあった。そしてそのおかげで多少リスクを伴うことになった。
 結局のところ、カウフマンはその女癖(男癖でもあったが)の悪さを最後まで直すことはできなかった。彼が現在、ブルンヴァン精神病院にいるのは、ひとりの性転換者のためであり、そのアリス・タウンゼントという性転換者は彼を恨んでいた。
 仕事を紹介するからといって、カウフマンはアリスと寝て、捨てた――事は極めて単純。ニースバリューはゼロだ。この業界じゃ全く当たり前のことなのに。そんなことがわからないようじゃ、どっちみち芽は出んよ、とカウフマンは思った。
 しかし、アリスはカウフマンの行く先々に現れた。局にもホテルにも、もちろん自宅にも。しつこかった。いつぞやは新番組の製作発表の席に記者を装って現れ、カウフマンに質問まで浴びせかけた――ミスタ・カウフマン、あなたの女性関係についてよくない噂が出ているんですが云々。
 しかし、ここにいれば安心さ、とカウフマンは思った。この場所はごく親しい者しか知らない。いずれも口が堅い連中だ。わが取り巻き連中よ、とカウフマンは思った。
 そういうわけで、カウフマンは安心してブルンヴァン精神病院の一室で眠ることができた――その日までは。
 カウフマンが目覚めたのは匂いのせいだった。病室に不快な匂いが立ち込めているのに彼は気づいた。長い間使われてなかったエアコンが部屋の雑臭を吸い込み、そのエッセンスだけを器用に集めて再び吐き出したような匂い。あるいはそれに似た不快な匂い。
 カウフマンは二、三度寝返りを打つと、あきらめて目を開けた。
 暗闇の中で何かが落ちる音がした。
 カウフマンはベッドの上にがばっと起き上がると、ドアの辺りをじっと見つめた。もちろん、閉まっていた。しかし、何かがこの部屋にいるのをカウフマンは感じた。
 ちくしょう、あいつがやってきたんだ、と思った。
 目がまるできかないのが癪だった。部屋は不自然なほど真っ暗だった。しかし、カウフマンはその暗闇の中にそれよりも一段と黒い影があるのに気づいた。しかもその影はこちらに向かって動いている。
「ハニー、おれはきみから逃げようとしたんじゃない」とカウフマンはその黒い影に向かっていった。
「アイデアをまとめる必要があったんだ。嘘じゃない」
 そういいながら、カウフマンは闇の中を忍び寄る黒い影にぴたっと目を据えた。それはなおもカウフマンのベッドに向かってじりじりと距離を縮めていた。
「よせよ、アリス」とカウフマンはいった。「こういうやり方はフェアじゃないぞ」
 そのとき、カウフマンはいきなり自分の腕がつかまれるのを感じた。それは物凄い力だった。しかもその爪が食い込む痛さと来たら、並大抵のものではなかった。
 こいつは何を考えてるんだ、とカウフマンは恐怖に震えながら思った。フレディの真似か。昔のホラー映画を気取って、腕に特製の爪でも付けてきたのか。
 腐臭のような生臭い息がカウフマンの顔にかかった。
 ブルンヴァン博士はその悲鳴を二階で聞いた。くそ、一体、どうなってるんだ、とブルンヴァン博士は思った。
 一階へ下りかけた足を止め、再び踵を返して、階段を上りかけた。上がったり、下りたり。まるで誰かの人生のようじゃないか。しかし、断じてわたしの人生じゃないぞ、とブルンヴァン博士は思った。
 そのとき、ブルンヴァン博士は背後に人の気配を感じた。今や彼の神経は国連議長の不快なバイオリンの弦のように張り詰めていた。今肩を叩かれたら、彼はポール・マイヤーがかき鳴らすどの音よりも高い音を出してみせたに違いない。
 ブルンヴァン博士は飛び出そうな心臓を意志の力のみで抑えると、レーザーガンを構えたまま、ゆっくり後ろを振り向いた。
 ハマーシュタインの情婦だった――ヤスコ・メイとかいういまいましい女狐だ。
 ヤスコは一瞬、ぎょっとした顔でブルンヴァンの手にしたレーザーガンを見つめたが、それについては何も触れず、ただこういっただけだった。
「ハマーシュタインさんの様子がおかしいの。鼻の上に手をかざしてみたけど、息をしていないようなの」

 ヘッジズはうまく逃げおおせていた。
 二台のガードマンロボットは御しやすい方から捕まえることにしたのだ。
 ブルンヴァン博士にレーザーガンを使うことを禁止されていたので――脅しに使うのは一向に構わなかった――、ロボットたちはちょっと苦労した。
 ヘッジズはロボットの一体を押し倒し、馬乗りになり、さんざん蹴りつけた後、傷ついた獣のように廊下を走り去った――もしかすると、今やマイケル・ヘッジズは新しい生物なのもしれなかった。カギ爪と鋭く尖った牙と敏捷な運動能力を持つ肉食動物。グラン・ヘレナの大昔の住人なら、おそらく彼を悪魔と呼んだことだろう。
 その凶暴なヘッジズに比べ、ジムとロバート・ジュニアの何と頼りなかったことか。
 彼らはあっさり捕まった。
「彼を行かせちゃいけない」ロボットに小突かれながら、ジムはいった。
「なにをするか、わからないんだ」
 もちろん、ロボットたちにもそれはわかっていたのだろう。ロボットの一体が胸の送話器でだれかと連絡を取った。多分、ブルンヴァン博士に違いない。
 二人が入れられたのは拘禁室だった。刑務所でいえば、おそらく懲罰房に相当するところだろう。刑務所と違うのは、そこが患者が自分を傷つけないよう、詰め物をした真っ白なキルトで覆われていることだった――刑務所ならば、むしろ自分で自分を傷つけるというアイデアに小躍りしただろう。
 ジムの思うところ、現状は考えられるかぎり最悪だった。せっかく病院に入り込めたというのに、ほんの二、三歩歩いたところで捕まり、おまけに外ではヘッジズが――人肉に餓えたゾンビが――野放し状態になっているときてる。
「いつかこのことを書いてみたいですね」不意にロバート・ジュニアがいった。
「わたしたちがここから無事に出られたら。無理だと思いますか?」
 どっちのことなんだろう、とジムは思った。ロボットが本を書くことなのか、それともここから無事に脱出することなのか。
「わたしはこれまでに三冊、本を書いているんですよ。どれも出版されてはいないけれど」ロバート・ジュニアが恥ずかしそうにいった。
「もし、そこにぼくが登場するとしたら、掛け値なしのアホとして描かれるだろうな」とジムがいった。
 それとも異母妹と寝た破廉恥漢だろうか。そしてジムはビリー・アルムはこの混沌とした状況のどこに現れるのだろう、と思った。マクガイア博士の行方を密告できるくらいなら、既にグラン・ヘレナを脱出しているはずだ。
 しばらくして、ドアが不意に開いた。
「あんたらの連れてきたあの怪物は何なんだ?」いきなり大声が響いた。
「それにあんたらはこの病院では夜中に面会ができると思うくらい、非常識なのかね」
 憔悴しきったような初老の男がそこにいた。隣にはこの場には不自然と思えるほどの美人。
 その背後に先ほどのガードマンロボットが二体、警戒しながらこちらを見ていた。
「わたしがここの院長のブルンヴァンだ。一体、なに者なんだ、あんたらは」初老の男がいった。
 それに答えようとして、ジムはふと院長の隣にいる若い女と目が合った。どこかで見たことがある気がした。
「ジムです。ジム・シモンズ。人を探してるんです」とジムはいった。「ここの患者だと聞いてるんですが」
「名前は?」とブルンヴアン博士。
「レイモンド・カスター」
「聞いたことがないな。ここにはおりゃせんよ。それに、ここはあんたたちの来るところじゃないぞ」
「ちょっと待って」とその女がいった。「その人、この病院にいるわよ。見たもの。黒人でしょ、背の高い」
「何をいうんだ」あわててブルンヴァン博士がいった。
「あんたは何も知らないんだ。そんな男はいない。わたしがここの院長だぞ。ここにそんな人間がいてたまるか」
「いいかげんにしてよ」とその若い女はいった。
「あなたは自分のしたことに対してどこかで後ろめたさを感じているのよ、ブルンヴァン博士。多分、まだほんの少し良心が残っているのかもしれない。うんとちっぽけなものでしょうけどね。結局、あなたはハマーシュタインを死なせたし、他にもおそらく沢山死なせてるんでしょう。死なないまでも廃人同様にしてしまっているはずね。わたしからいわせたら、あなたは医者じゃない。ただの腰抜けよ」
「ひどいことをいう」
 ブルンヴァン博士はそういうと、
「わたしは疲れた」といった。
 ジムにはブルンヴァン博士が本当に疲れているようにジムには見えた。まるで一陣の風が吹いたら、たちまち吹き倒されてしまいそうな枯れた老木のように。
「案内してくれるかい?」とジムがその若い女に向かっていった。
「カスターのところへ、その黒人のところへ」
「いいわ。でも――」といって、女は一瞬、言葉に詰まったように見えた。
 ちくしょう、彼女はいうべきことを探しているんだ、とジムは思った。何か決定的なことをここでいうのを避けるために。一瞬、ジムは霊安室に置かれているカスターの姿を想像した。だらりと垂れ下がった腕と力なく緩んだ頬を。
 その女は自信なさげな表情でこういった。
「あなたがあの人の知り合いなら、会わない方がいいんじゃないかしら」
「どういうこと?」
「彼は多分、あなたが誰かもわからないはずだから」とその女はいった。
「わからない?」
 わからないってのはどういうことなんだろう、とジムは思った。カスターが自分を忘れるほど耄碌したとでも?  それとも火星の乾いた気候が、火星での想像を絶する過酷な労働がカスターを回復不能を記憶障害に追いやったとでも?
「わたしが見るところ、あの人はずっと昏睡状態から覚めてないわ。どれくらい長い間かはわからない。わたしもついさっき知ったばかりだから」とその女がいった。
「脳に障害があるの。人為的に作られた障害がね」
「ちくしょう」とジムはいった。
 すぐにいつか自分がここについて調べたことが思い出された。ここでは以前、確かロボトミーが行われていたのだ。人間を意志を持たない人形に変える手術が。しかし、実際はそれよりずっと悪いことが行われていたのだ、とジムは思った。
「あんたがやったのか?」とジムはブルンヴァン博士に向かっていった。
 ブルンヴァン博士は何もいわなかった。老いぼれた犬のように、ただ床のしみをじっと見つめていた。
「行きましょう。案内するわ」と女がいった。そして振り返って、ブルンヴァン博士に向かっていった。
「連れて行くわよ」
「勝手にしたまえ」とブルンヴァンがいった。

 曲がりくねった廊下を三人は歩いた。
 その若い女は自分はヤスコ・メイだと名乗った。
「そしてあなたはダークマンね。“ボリスの声”の」
 やはりそうだった――彼女はそう、あのときの相談者だ。
「きみは女優だ」
「そうよ。いつかあなたと話したことがあったわね」
「なぜ、こんなところに――」といいかけ、
「失礼」といった。彼女はそんなに悪かったのか。この病院に入るほどに。
 ジムの表情を見て、ヤスコは笑っていった。
「違うわよ。わたしはここの患者じゃない。知り合いが、ここにいるのよ」
 そして間を置いていった。
「いた、というべきね。ついさっき死んだの。ブルンヴァン博士は脳腫瘍だっていってたわ。過負荷がかかりすぎたって。脳に負担をかけすぎたの」
「お気の毒に」
「いいのよ。わたし、その人あまり知らなかったから。会ってほとんど間がなかったの。知り合う時間すらなかったのよ。あなたとは違うわ」
 果してそうだろうか、とジムは思った。今にして思えば、自分もカスターを本当に知っていたとは言いがたかった。こんな事態になってみれば、それがはっきりわかる。自分が何も知らなかったことを。まだやり直せるだろうか、とジムは思った。もう一度やり直せるだけのチャンスがあるだろうか。
 ヤスコに案内されたカスターの病室は、二階のちょうど真ん中辺りにあった。
 ジムは複雑な気持ちのまま、その部屋に入ると、ベッドの上に横たわっている黒人の男に向かって、静かに声をかけた。ヤスコとボビーが自分のすぐ後ろに立っているのがわかった。
「やあ、レイ」
 レイ・カスターは眠っていた。もうずっと眠りつづけているんだ、とジムは思った。
 カスターは水色のパジャマを着せられていた。お仕着せのものだが、よく洗われ、柔らかくなったやつだった。白い上掛けの端からそのパジャマの腕がだらしなくはみ出し、そこから褐色の手がのぞいていた。
 実際のカスターは、記憶にあるカスターよりも、ずっと痩せているように見えた。額に刻み込まれた深いしわは、まるで火星での労働によるほこりが――鉱石のかけらが、肺を冒す砕石の微細な粉が――そこに降り積もったように白かった。
 そして手だ。ジムはカスターのごつごつした手を取ると、それを指でそっと撫でた。結局はこの手があんたを滅ぼしたんだね、レイ、と思った。かつて何百台ものエアカーの走行距離をごまかしたその手が、最後はあんたを欺いたんだ。
 ジムはカスターがバーンサイドを出ていくときのあのさっそうとした姿をまざまざと思い出すことができた。密告屋をやっつけたときのあんたの思いつきは最高だったよ、レイ。
 結局、雨降虫はあんたを助けてくれなかったんだね、と思った。御利益はなかった。あのジンクスはその場限りのものだった。ソルトレイクシティのあちこちで売られている観光土産のようなものだ。
 そのとき、カスターの手がびくっと動いたような気がした。
 ジムは一瞬、ぎょっとした。にわかに心臓がどきどきしてくる。
「不随意筋です」とロバート・ジュニアが冷静にいった。
「意志のカじゃないんです。脳から洩れてくる微弱な信号が動かしたんです。私の父もそうでした。父というのは、もちろん、わたしの前の雇い主のことです。父はタクシー・ドライバーだったんです。父が引退する前、よくこうなっていたのを思い出します。父はわたしをよくひっぱたいたんです。しかし、それはわたしを憎んでいたからではなかった。自分の意志ではなかったんです。自分の体が自分の意志を裏切るのです」
「彼をここから出したい。協力してくれるね」ジムはカスターを見つめたまま、ヤスコに向かっていった。
 ジムは今、自分のやるべきことをはっきりわかったような気がした。カスターをここから救い出す。この病院から外に出す。それが自分のやるべきことだ。
「無理よ」とヤスコが即座にいった。
「無理じゃないさ」ジムは振り向いて、ヤスコにいった。
「何とかやれるはずだ。僕らの他にボビーがいるし、病院から出たら、クルマを捕まえればいいし、連絡を取って知り合いを呼ぶこともできる」
 おそらく、ヴォルフガングなら助けてくれるだろう、とジムは思った。
「そういうことじゃないの。あなた、この人をここから出してどうするのよ。彼はひとりでは何もできないのよ。赤ん坊と同じだわ。いいえ、それよりずっと悪い。ここから出しても彼は絶対に回復しないのよ。死ぬまでこのままだわ。これからずっと、あなたに口をきくこともない。その可能性は全くないのよ」
「しかし、他の病院で診てもらえば――」
「残念だけど、彼の脳は戻らないわ。永久に閉じてしまったの。それはあなたも知っているはずよ。第一、彼は囚人なのよ。あなたがこの病院から連れだしたら、動けない彼を連れて一生逃げ回らなくちゃならないわ。そんなことできるわけないじゃない。ここなら、ここでなら、少なくとも彼はちゃんと世話をしてもらえる。あなたのお友達はここより他に行くところがないのよ。本当に残念だけど」
 ジムはすやすやと赤ん坊のように眠っているカスターを見つめた。
 その男はかつて子どもだった彼に、本物と偽物の違いについて述べ――もちろん、中古エアカーを使って―― 、“永遠”を標榜するものがいかにいい加減なものか――こちらはカーワックスを使って――を教えてくれたのではなかったか。
 頭が働かなかった。ただ、何かがひどく間違っているという気がした。ジムの心が聞き分けのない子どものように、この世界に正しい秩序を要求していた――元に戻すことを。運命の歯車をぐるっと一回転させ、元の状態に戻すことを。割れた花瓶がビデオテープの逆回しのように元通りになることを。
「しかし、どうだろう。他にも解決策が――」
 そのとき、ヤスコがジムの言葉を遮っていった。
「いつかわたし、あなたにいったことがあったわね。それをここでもう一度いわせてもらうわ。いいかげん、マスクを外したら?」
 ヤスコはジムに向かって、静かにいった。
「ダークマンはマスクをとらなきゃ、ヒーローにはなれないのよ」

 ブルンヴァン博士がヘッジズをじっと見て、いった。
「あんた、具合が悪そうだな。病気じゃないのか。タチの悪い伝染病に罹ってるのだったら、すぐにここから出ていってもらうぞ。ここには抵抗力の弱い患者もいるんだ」
 二体のガードマンロボットとブルンヴァン博士は、ヘッジズを一階の廊下の隅で捕らえていた。四つんばいになったヘッジズの上に二体のロボットが乗り、必死にもがく彼を万力のような力で押さえつけていた。
 シューシューという荒い息がヘッジズの口から洩れ、この世のものとも思えない獣じみた唸り声が腹の底から聞こえてくる。
 こいつはまるで地獄から抜け出してきた幽鬼のように見える、とブルンヴァンは思った。灰色と黄色が不気味に混ざった血の気のない顔。眉のすぐ上から急角度で後退した額。ワシのように鋭い爪。そして吐き気を催す腐臭。ぼろぼろの背広が節くれだった体にまとわりついているのが、かえって男の人間離れした異常さを際立たせていた。
 今やブルンヴァン博士は純粋にこの奇妙に変貌した人間に興味を持っていた。こいつはなに者なんだ? どこかの実験室から逃げだしてきたのだろうか。何かの実験の犠牲者なのか? 廃人同様に見えるが、あるいはどこかのマッドサイエンティストの成れの果てかもしれない。
「あんたの爪は凄いな。これは皮膚病の一種だろう。まるでキチン質だ」
 そういうと、ブルンヴァンは恐る恐るヘッジズに近づき、その手をつかんだ。
 その瞬間、ヘッジズがロボットをはじき飛ばした。
 そして逃げるブルンヴァン博士の腕を引き寄せると、黄色い歯を出して噛みついた。骨が砕け、肉が引きちぎれる不気味な音が辺りに響いた。
 ブルンヴァン博士はけたたましい声で悲鳴を上げた。それは二階にいた三人だけではなく、死者をも目覚めさせそうな悲痛な叫びだった。
「行きましょう」とロバート・ジュニアがいった。
「ミスタ・ヘッジズが暴れています。放っておいたら、あの人はこの病院の患者を皆殺しにしてしまいますよ」
「待てよ、ボビー」とジムがいった。
「カスターを置いていけってのか。ここに、この病院に?」
「あなたは前にヘッジズさんと約束したはずです」とロバート・ジュニアが指摘した。
「彼がもし、人を襲うようになったら、焼き殺すと。ヘッジズさんはもう元の人間ではないんです。あなたは約束を果たすべきです」
「一体、そのヘッジズってのは、なに者なの?」ヤスコが尋ねた。
「ゾンビさ。ばかばかしく聞こえるかもしれないが、事実なんだ。死んで蘇った。喰人鬼としてね」
「信じられないわ」
「我々もさ。全てが信じられない」
「あれはブルンヴァン博士の声よ。彼は襲われてるのよ」ヤスコがいった。
「食われちまえばいいんだ」
「いいかげんにしてください」とロバート・ジュニアがいった。
 ジムはもう一度カスターを見つめた。永遠に眠りつづける友人を。彼は決して目覚めることはないだろう――ヤスコのいう通り、彼はここにいるしかないのだ。
「わかったよ」とジムはロバート・ジュニアにいった。「行こう、ボビー。ヘッジズをやっつけるんだ」
 三人は廊下に出た。階下は既にパニック状態のようだった。
 階段を駆け下りながら、ジムはロバート・ジュニアに尋ねた。
「ヘッジズを焼き殺す方法はあるのか?」
「連中の使っているレーザーでは無理ですね。ポイントが小さすぎて。それにここには火炎放射器のような武器もありません。病院ですからね」
「何か手はないの?」とヤスコがいった。
「そう、ないことはないと思います」とロバート・ジュニアはいった。
「わたしには廃棄用焼却回路がついています。わたしたち、ロボットがお払い箱になったときに、廃棄を楽にするための回路なんです。環境に負担をかけないようにとの配慮からですよ。ロボットの内部回路が発火し、焼却を助けてくれるのです。だからわたしがヘッジズさんを捕まえたまま、発火すれば、彼を焼き殺すことができます」
 ジムは立ち止まると、ロバート・ジュニアを見つめた。
「しかし、それだと、この病院が火事になってしまうぞ、ボビー。患者にはろくに動けない連中もたくさんいるんだ」
「確かにそうですね」とロバート・ジュニア。
 そのとき、ヤスコがいった。
「さっき、あなたたちが入っていた拘禁室ならどうかしら? あそこなら使えるわ。密閉されているもの」
「ああ、それなら――わたしも可能だと思いますね」ロバート・ジュニアがいった。
「だめだよ、ボビー、その手は使えないよ」とジムがいった。
「それにもちろん、きみも焼けるんだ、ボビー。犠牲といえば聞こえはいいが、これは文字通りの自殺行為だぞ」
 ロバート・ジュニアが奇妙な表情を浮かべて、ジムにいった。
「ジム、わたしには自殺はできないのです。おかしいでしょう。わたしはずいぶん長い間、発作のたびに死にたいと考えてきた。でも死ねないのです。ロボットは最初から自分では死ねないように作られているんですよ。内部のプログラムとロボット三原則の二重の呪縛によって。だから、あなたが命じてください。人間のみがわたしの支配者です」
「それしか方法がないのか、本当に?」
「我々は自分の手札しか使うことができないのですよ、ジム」ロバート・ジュニアが悲しそうにいった。
 一階に下りると、ヘッジズは既に立ち去った後だった。
 ヤスコが血溜まりにいたブルンヴァン博士の元に駆け寄った。博士はまだ生きていて、意識もしっかりしていた。左の肘から先がなくなっていたが、ブルンヴァンは何とか自分で白衣を裂いて、止血していた。
「あいつは患者を襲っている。あいつをどこかに隔離するんだ。もうじき州警察と国連軍が来るはずだが、その前にあいつはこの病院の患者をあらかた殺してしまう」
「どっちへ行ったんです?」とジムが聞いた。
「一階の南病棟だと思う。ガードマンが向かっている」
「拘禁室のある棟だわ」とヤスコがいった。
「行こう」とジムがいった。
 南病棟に向かう廊下の半ばで三人は二体のロボットの残骸を見つけた。そのとき、その悲鳴が聞こえてきた――恐怖と絶望に満ちた入院患者の悲鳴が。
 三人は病室の入口でその陰惨な光景を目撃した。
 ヘッジズはひとりの患者をあらかた食い尽くしていた。内蔵をむさぼりながら、奇妙なうめき声を上げて、散乱した死体に被さるようにこちらに背を向けていた。
 そのとき、ヘッジズが後ろを振り返った。ジムは一瞬、ヘッジズの視線を捉えたような気がした。ヘッジズの目にすがるような光を見たように思った。しかし、おそらくそれはジムの思い過ごしだったのだろう。
ヘッジズは三人を威嚇するように睨みつけると、恐ろしい声で咆哮した。
「ボビー、ヘッジズを殺してくれ」とジムが静かにいった。
 ヤスコがびっくりしたような顔でジムを見た。
「ほんとうにいいの?」
「これは命令だといってください、ジム」ロバート・ジュニアがいった。
「これは命令だよ、ボビー。ヘッジズを殺してくれ」
「仰せのままに、ジム」とロバート・ジュニアはいった。
 三人は拘禁室のドアを開いた。確かにここなら十分、焼却炉の役割を果してくれるだろう、とジムは思った。そして、ついさっきまで何が起こるかも知らずに自分たちはここにいたんだ、と思った。
「わたしがドアを閉めたら、すぐにここを出てください」とロバート・ジュニアがいった。「火は酸素がなくなれば、自然に消えるはずです。無理でも、やがて州警察と国連軍がやって来るでしょう。彼らが火を消してくれます。あなたたちに神のご加護を」
 ロバート・ジュニアはそういうと、ヘッジズのいる病室に戻った。
 次に現れたときは、暴れるヘッジズを頭上に差し上げるように抱えていた。
 そして二人の前を通りすぎるとき、ジムはロバート・ジュニアが自分たちに向かって、そっと「さようなら」というのを聞いた。
 ロバート・ジュニアは不気味な唸り声を上げ、手足を振り回すヘッジズを拘禁室の中に放り込むと、すぐに自分も中に入った。ガシャンという音と共に分厚いドアが閉められ、内側から鍵を壊す鈍い音が聞こえた。
 次にヘッジズがドアを激しく叩く音がした。ボビーの手を振りほどいたらしいヘッジズは拘禁室の格子窓にすがりつくと、ジムに向かって悲痛な声で哀願した。
「あんたはわたしの友達だろう、ジム。こんな仕打ちはないぞ。わたしは閉所恐怖症なんだ。あんたは情け深い人だ、ジム。わたしをこんな目に遇わせて黙ってられるようなやつじゃないはずだ」
 そういうと、ヘッジズははらはらと涙をこぼした。そしてジムの顔を上目遣いで盗み見て、自分を助ける気がないのを知ると、今度は先ほどとは打って変わった恐ろしい表情でジムを睨みつけた。それはまさに喰人鬼にふさわしい表情だった。
「くそったれ」というと、ヘッジズは窓から消えた。すぐにロバート・ジュニアともみ合う音がドア越しに聞こえてきた。
 やがて拘禁室の格子窓が真っ赤になった。ドアの隙間からもうもうと白い煙があふれてきた。中からヘッジズの上げる凄まじい悲鳴が聞こえてきた。
 ヤスコが目を背け、耳をふさいだ。
「行こう。ボビーのいった通りにするんだ」
 ジムはヤスコの腕を取ると、抱えるようにして廊下を走った。
 ロビーを出る前、ブルンヴァンが哀れな声で二人に呼びかけたが、ジムは博士の方を見もせずに、そのまま病院の外に走り出た。
 しばらくふたりはそのまま走りつづけた。草いきれがむっとし、一日の始まりを告げる太陽が今まさに地平線から昇ってこようとしていた。
 突然、ジムは立ち止まった。まるで何か自分にとって、ひどく大事な忘れ物をしてしまったように、彼はもう一度、自分たちが脱出してきた病院を振り返った。
 病院は火事にはなっていなかった。ボビーのいう通り、完全な密室で火事を起こすのは非常に難しいんだ、と思った。
 ヤスコがジムの手を取って、優しくいった。
「行きましょう。わたしたちにできることはもう何もないわ」
 爆音を立てながら、何かがふたりのはるか上を通過する音が聞こえた。
 ジムは空を見上げた。
 夜明け前の薄紫色の雲の中から色とりどりのパラシュートで無数のロボットが下りてくるのがわかった。

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