『飛び地のジム』第二部 9
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前世紀末、グレイハウンドバスの路線は全部で二五〇を数えていた。ところがその後の二十数年でそれが三六路線にまで減り、今ではその数すらも見直しが図られていた。
今世紀の初頭から始まった交通革命は、地上を走る内燃機関のクルマという存在を、どこかノスタルジーにあふれた愛玩的なものに変えてしまった。
エアカーが移動手段の主流になり始めた頃、連邦議会は内燃機関の地上車を環境汚染源として一掃しようと働きかけたが、国民の猛反対にあった。クルマはいずれ消え去る運命にあるのだし、だったら、好きなだけ走らせたって構わないだろう。それくらいなら、地球だって、少々目を瞑ってくれるに違いない、と彼らは考えた。
そういうわけで、今では地上車は完全に趣味の乗り物と見なされていた。そしてグレイハウンドバスもまた、移動の手段というよりは、むしろ観光目的のものとされていた。かつての合衆国――先進国に辛うじて片足をひっかけていた栄光の時代――を偲ぶよすがというわけだった。
客たちも移動の手段としてではなく、走る楽しみとして乗った。ジョージ、まるでロードムービーを見てるような風景だったよ、というわけだった。
ジムがコロラド行きにグレイハウンドバスを使うことにしたのは、もっぱら前世紀の怪物たちを愛したカスターへの感傷のためだった。コロラド州サント・ドミンゴのブルンヴァン精神病院にいるカスターを見舞うのは、ジムの巡礼の旅であり、だとしたらエアカーで一足飛びに行くわけにはいかなかった。
バスがアイダホ州への州境に差しかかりつつあるとき、車内のディスプレイ・ニュースが、ポートランドで雨降虫が移動しつつあると告げた。ジムと同じく、雨降虫もまたポートランドから重い腰を持ち上げたようだった。
「やれやれ」マイケル・ヘッジズがおかしそうにいった。
「わたしのせいだな。わたしを追っかけてきたに違いない。わたしは雨男なんだよ」
ヘッジズはジムに、組立式クローゼットを売るため、オレゴンに二週間滞在した、と語った。
「ところが、さっぱりだ。オレゴンの人間は大方、服なんて着ないんだろうな」
バスはくたびれたハイウェイを一直線に進んでいた。小さな町のいくつかを通った後、バスは大きく右に曲がり、石ころを撥ね飛ばし、車体をきしませながら旧道に入った。
窓から眺める光景は荒涼とした寒々しいものだった。
枯れた草があちらこちらで固まって、まるで死に絶えた亀の死骸が点々と続いているように見えた。遠くに見える森はまだ緑の葉を繁らせていたが、それもあまり長いことはなさそうだった。雨降虫の手を借りなくても、砂漠化は確実に広がっており、誰もそれを止めることはできなかった。
ジムは早くも尻の辺りが痛くなってきているのに気づいた。
バスに乗って既にまる一日が経っていた。それは長い道中からすると、ほんのわずかな時間に過ぎなかったが、何しろ、ひどく乗り心地が悪かった。交通の主流が空に変わってから、どの州も道路の補修にそれほど金をかけなくなっていた。そのうち、アメリカ全土の街は広大な砂漠に点々と散らばるオアシスのようなものになるかもしれない、とジムは思った。
ロバート・ジュニアのバスは途中のツイン・フォールズでさらに六人の乗客を追加していた。
それでも合わせて九人だ。決して多いとはいえない。
新しい乗客たちのうちの三人はソルトレイクシティの観光業者だった。そのうちの一人は雨降虫ブランドの制服を着ていた。あるいは有名な雨降虫ブランドのアイスクリーム売りかもしれない。
そしてやたら声の大きな太った婦人がいた。彼女は驚くべきことに、バスを乗り継いでニューヨークにまで行くらしい。そこに姪がいるのよ、と彼女はいった。
残りの二人は若いカップルだった。男の子の方は古いパンクス・スタイルで、女の子の方もそれに合わせる恰好だが、非常に目立つヴィドホーンをしている。直接神経端末に刺激を送り込むタイプに違いない。二人は声高に話し、下卑た声で笑った。
「ガキって大嫌いよ」ベッキーが顔をしかめて、いった。
自分だってそれほど年は違わないはずだけどな、とジムは思った。
ロバート・ジュニアの運転はロボットらしからぬ大胆な――はっきりいうと、非常に乱暴な――ものだった。
ジムが覚えている限り、ロバート・ジュニアは三人の子供と二人の老夫婦、そして一匹のちんくしゃな模造犬を轢き損なっていた。もちろん、彼らに怪我はなかったが、老夫婦はあの後で心臓発作を起こしたかもしれない。
ジムがジュニアに、ロボット三原則を知らないのかい、と聞くと、ロボットはこれ見よがしに鼻をフンと鳴らしただけだった。
こうしてバスは走りつづけた。
ふと気がつくと、バスの後部座席で議論が起きていた。例のカップルの男の子と太った婦人が何やらわめき合っていた。ジムは気がつかなかったが、隣のヘッジズなどはずっと前から聞き耳を立てているようだった。そしてロバート・ジュニアの方は、気づいていても、全く意に介さないでいることに決めているらしい。
「やつら、マクガイア博士について話してるのさ」
ジムの訝しげな表情を見て、ヘッジズがいった。
「最近、この辺りにやっこさんが盛んに出没しているのは聞いているだろう。あのいけすかないガキどもはこのバスのルートが、マクガイア博士の勢力範囲に接しているといっているんだ。まあ、わたしとしては、それを否定するつもりはないがね。しかし、バス会社だってちゃんと考えているさ」
ヘッジズが神経質そうに咳払いをすると、ジムの頭越しにロバート・ジュニアに話しかけた。
「なあ、運転手くん」
「ボビーと呼んでください」とすぐにロバート・ジュニアは訂正した。
ヘッジズはちょっと鼻白んだが、すぐに言いなおした。
「ボビー、マクガイア博士がこのバスを狙うなんてことはないだろうな」
「わたしが知る限り、マクガイア博士の活動地域はこの二年変わっていませんよ。会社はそのルートは外してあります。大丈夫ですよ」
ロバート・ジュニアはステリングを握ったまま、淡々とそういった。
ヘッジズはうなづくと、ジムに向かっていった。
「そういうもんさな。それに不思議なことに、今までマクガイア博士がバスを襲ったって話は聞いたことがない。やっこさんにはやっこさんなりに哲学めいたものを持っているんだろう」
そのとき、ロバート・ジュニアが意地悪そうを顔をしてこちらを振り向いた。ジムはロボットがこのような表情を浮かべるのを初めて見た。
「しかし、わかりませんよ」とボビーはいった。「マクガイア博士は人間じゃないですからね」
「それに――-」といって、ロバート・ジュニアは二人を見つめた。
「人間だったときでも、到底まともとはいえませんでしたよ」
灰色の空に土埃が舞っていた。
鶏小屋に錆びた釘一本でひっかかっている看板がバタンバタンという悲壮な音を立てながら、隣の杉の幹を力任せに叩いていた。
ハリケーンの前兆だろうか。カンザスからやってきたハリケーンがドロシーをオズの国へ連れて行ったように、自分をどこかに連れ去ろうとしているのだろうか。しかし、それならよほどでかいハリケーンじゃなきや駄目だ。そして幸いなことに、このマクガイア博士を打ち負かせるようなハリケーンなどこの世には存在しない。
そのシヴォレー・コルベットは入念にメッキを施されたV型八気筒エンジンをブルブル震わせながら、ハイウェイのコンクリートに圧着式センサーをぴたっと押しつけた。移動物体――かなり大きいものだ――-が、二〇マイルほど向こうからやってくるのがわかった。
マクガイア博士は既に一人のスパイを送っていた。馬鹿な中年女で、この恐れを知らぬ人間はこともあろうに、マクガイア博士を盗もうとした。ハイ・ウェイの端に停めてあった真紅のコルベットに誰も乗っていないことを発見すると、ドアをこじ開け、もぐりこもうとしたのだ。このマクガイア博士は誰にも乗られることはないし、今後も誰も乗せたりはしないことは、みんなが知っていることなのに。
もちろん、女にはこちらの役に立ってもらうことにした。
マクガイア博士が、(滅多にないことだが)以前の人間の身体が懐かしくなるのは、決まってこんなときだ。すなわち、自分一人で密かに忍んでいって敵の寝首を掻くには、今の身体ではあまりに目立ち過ぎるということだった。
そう、確かにマクガイア博士は狂人だった。
この著名なロボット工学博士は、戦前からどこかタガが外れていた。
彼が一市井人として初めてマサチューセッツ工科大学に招かれて以来、学内にいる誰もが彼を狂人と見なしていた。ただ、並外れた頭脳と人がまず考えはしても実行しないような実験や手術を進んで行ったため、その頃から一種の畏敬に近いものを以て過されてはいたのだが。
マクガイア博士がやった実験や手術とは、八三年型シヴォレー・コルベットに人間の脳味噌を移植したらどうなるか、というものだった。
時速一三〇マイルでハイウェイを疾走するるスーパーマンができるじゃないか、と博士は思った。そして何よりも――こちらの方がずっと大事なことだが――えらくカッコイイじゃないか、と博士は思った。
マクガイア博士は、数ある面倒なマニアの中でも一番タチが悪いとされている戦前の旧車マニアだった。しかも車種は国産のものに限られていたので、博士の自宅のガレージには、先のコルベットを筆頭に醜悪なスタイルの前世紀の怪物たちがゴロゴロしていた。
それまでにもマクガイア博士は何度となく掃除機やオーブンに人間の脳を移植しようと試みたことがあったので、およそ一ダースはいるであろう博士の助手たちもそれくらいのことでは驚かなかった――土台、このような実験に自分の脳味噌を提供しょうとするおめでたい人間などいるはずがなかった。博士にしても、狂ってはいたが、馬鹿ではなかったから、事態が早々自分の思いどおりにいくとは思っていなかった。しかし、彼にはかねてから温めていたアイディアがあった。博士のアイディアとは――何のことはない自分が脳味噌の提供者になることだった。自分の脳がコルベットのボンネットの片隅に収められるところを思う
と、博士は期待と興奮でとうの昔に役目を終えていた股間の一物がかっかしてくるのを感じた。
実験――手術は、工学・医学面関係者の手で行われた。ロボット工学の専門家は実験といい、脳外科医は手術といった。当のマクガイア博士は転生だと主張した――諸君、わたしは今、第二の生を迎えようとしている。「チベットの死者の書」にあるように、わたしは第二の子宮を通り抜け、新しい人生を送るんだ。祝福したまえ、というわけだった。
わざわざGM本社から旧車部門の担当者も招かれた。彼は博士の実験にして手術にして転生の後、博士のボディ各部分の機能を調整する――即ち、キャブレターをいじくり、空気圧をチェックし、車内に掃除機をかけ、灰皿の吸殻を捨てる――役目を仰せつかっていた。ブードゥ教の導師(グル)もいた。もちろん、博士の転生を祝福するためである。
そしてはるか以前、クーパーズ・タウンの街路で、傷心のタクシードライバー、ロバート・ウィルソン――ロバート・ジュニアの法律上の雇い主にして、父親であった飲んだくれ――をどやしつけたときのように、マクガイア博士は相変わらず傲慢だった。
おそらく、関係者はこの老人の転生後の処置にもっと気を配るべきたったのだろう。コルベットのボディとV型八気筒エンジンを身につけた狂人が、転生後、何をやろうとするかについて、少しは想像力を働かせてみる必要があったに違いない。
「もっと空気圧を!」と真紅のコルベットが叫んだとき、関係者はこの前代未聞のイベントが成功裏に終わったことを確信した。今や白髪のマクガイア博士は八二年型シヴォレー・コルベットであり、彼は人類初の自動車人間――時速一三〇マイルでハイウェイやフリーウェイを疾走する世にも恐ろしい生き物だった。
GMから派遣されたエンジニアが空気圧を調整している問にも、マクガイア博士はどなり散らし(「エンジンオイルはどうした!」等)、アイドリングを続けた。
一同が驚愕の声を上げている中で、ブードゥ教の導師だけは冷静だった――多分、ブードゥ教の導師にとっては、蛙や蛇に魂を吹き込むことと同じくらい日常茶飯事のことだったのだろう。
しかし惨劇はその後で起こった。
関係者一同がシャンパンのグラスを割り、純粋な喜びの祝宴から淫らな乱ちきパーティに転じようとした頃、突然マクガイア博士が叫んだ。
「諸君、ついにわたしは神になった!」
博士の助手の一人がおくびを洩らした。彼は研究所でこの手の戯れ言には慣れっこになっていた。この気違い博士が何か他愛もないことを発見したり、気の利いた冗談のひとつも思いつくと、いつも決まって大げさに騒ぎ立てるのた。
うるさいジジイだ、とその助手は思った。そして何かもっと面白いものはないかと辺りを見回した。ジャーナリスト関係とおぼしき女が鼻をひくひくさせていた。おそらく、排気ガスに戸惑っているのだろう――この女はこれまで内燃機関の機械など見たことがなかったに違いない。ひどい臭いでしょう、といって近づくのはどうかな、と彼は思った。
その助手がぼんやり淫らな白昼夢に耽っているとき、それは起こった。コルベットのV型八気筒エンジンが突然、火を吹き、マクガイア博士は狂ったように暴走を始めた。
タイヤをきしませ、ゴムの焦げる臭いをまき散らしながら、博士はまず最初に、グラスを持った同僚たちの列になだれ込んだ。多分、研究所での鬱憤が溜まっていたのだろう。博士は悲鳴と共に逃げまどう教授たちを追いかけ、彼らを皆殺しにした。
ブードゥ教の導師が十字を切った。
次に博士は出口に向かって殺到している医学関係者の群れに飛び込んだ。骨の折れる気味の悪い音がし、吐き気を催す肉が焦げる臭いが辺りに漂った。大量の血しぶきがテーブルを覆った純白のレースを台なしにした。
最後に会場の片隅に追い詰めたジャーナリストの一団を一掃して、殺戮は終わった。生き残りは一人もいなかった。
マクガイア博士はその後しばらく姿を見せなかった。大量殺人の犯人は、捜査当局の執拗な捜索にもかかわらず、決して捕まらなかった。全米に張りめぐらされた警戒網を巧みにくぐり抜け、マクガイア博士は逃走に逃走を重ねた。
次にそのコルベットが現れたのは、事件から二カ月余りも経った頃だった。
場所はニューハンプシャー州コンコードの郊外。今度の犠牲者となったのは、地元のストリート・ワンダラーズという暴走族で、彼らは近くのパブでどんちゃん騒ぎをやらかしてきたばかりだった――地元産のビールをベースにしたカクテルを大量に浴び、何人かの娘の処女を奪う計画を立ててきたところだった。
「悪くないぜ。うん、悪くない」
先頭を走り、みんなからトニーと呼ばれていたリーダー格の少年が、そのクルマを最初に発見した。前方を走る真紅でピカピカのコルベット――クローム・メッキの部分は入念に磨き上げられ、人を魅入らせる鈍い光を放っていた。
いいカモだ、とトニーは思った。どっかの金持ちが道楽で乗ってるんだな。売ればいいカネになる、とトニーは思った。
「トニー、見ろよ」と一つ年下のジミー・カニンクスが叫んだ。いつのまにかトニーのすぐ後ろにジミーのホンダが追いついてきていた。ジミーの父親が息子に買い与えたバイクは仲間うちの誰のマシンよりもパワーがあった。くそったれな金の力だ、とトニーは苦々しく思った。
「何だよ」とトニーも叫び返す。
「あのコルベットには人が乗ってないぜ」ジミーが畏怖に打たれたように叫ぶ。
ジミーは仲間うちの誰よりも目がよかった。ジミー・カミングスの目を義眼だった。その昔、父親に折檻されたときに、視力の大部分をあらかた失っていたのだ。その代わり、ジミーはニコン製のエレクトリック・アイを移植していた――彼の父親は愛情の欠如を高価なテクノロジーで償ったのだ。くそったれな金の力によって――ジミーの父親は高名な弁護士だった。
「アホタレ」とトニーはジミーに怒鳴った。あれがドローン・カーとでもいうのかよ。まさか。彼はスロットルを全開にすると、前方のコルベット目指し、追撃を開始した。
二時間後、州警察のハイウェイ・パトロールが通報を受け、現場に到着したときは、既にストリート・ワンダラーズはただ一人を残して、見る影もない姿――無残な肉片に変わっていた。生き残ったのは、ジミー・カニングスという少年だけで、彼は化け物に襲われた、と息も絶え絶えに語った。
ジミー・カニングスによると、真紅のコルベットはあらかじめ犠牲者を待ち構えていたらしい。彼らがコルベットに追いつくと、コルベットは速度を落とし、路肩に止まった。もちろん、クルマには誰一人乗っていなかった。ただカーステレオだけがついていて、車内からはみんなが聞いたこともない呪文のようなものが流れていた。
誰も知らなかったが、それはマクガイア博士の転生を祝福に来た、あのブードゥ教導師の声だった。導師はあの悲劇的な出来事の際――コルベットのバンパーと壁に挟まれる直前に、自らの魂をコルベットのカーステレオに託したのだ。蛙や蛇よりは居心地が悪かったが、とにかく生きてはいた。導師が数多く扱った呪術の中でも、おそらく最も成功した例に違いない。今やマクガイア博士とブードゥ導師は運命共同体だった。こうして博士はヴードゥの神秘までも味方につけていた。
トニーがコルベットのドアをこじ開けようと悪戦苦闘していたとき、ヴ―ドゥの不吉な呪文をバックに、不意にその声が辺りに響いた。
「わたしは誰も乗せないし、誰にも乗られたりはしない」
「くそっ」とトニーは叫んだ。「こいつ、ドローン・カーだせ。誰か俺たちを見ているやつはいないか」
ワンダラーズのメンバーはあちらこちらを見回したが、やはり辺りには人っこ一人いなかった。
「なあ、トニー。こいつはやばいぜ」ジミーが怯えた口調でいった。
「馬鹿いえ。コケにされてたまるかよ」トニーはそういうと、なおもコルベットのドアに向かって、虚しい攻撃を始めた。爪が割れ、血が流れたが、トニーは自分に突きつけられた挑戦にかっかしていた。そのとき、また声が聞こえた。明らかにコルベットの中からだった。
「わたしは誰も乗せないが、代わりにお前の上に乗ってやることはできるぞ」
「馬鹿いえ。壊されたくなかったら、ドアを開けるんだ。このクソヤロー」
その答えが引き金になったようだった。いきなりコルベットのエンジンが唸り声を上げた。
ボンネットがブルブル振動を始め、過給器に大量の空気が送り込まれた。カーステレオの呪文を唱える声が喜びに震え、勝利の歌を高らかに歌った。そしてマクガイア博士は殺毅を始めた。
ジミー・カニングスが生き残ったのは、ひとえにその臆病さゆえだった。彼はトニーのように無鉄砲ではなかった。彼はそのコルベットがどこかおかしいと睨んだときから、そろそろと退却を始めていた。といっても、辺りに隠れることができるような障害物は何もなく、ジミーは仕方なく、三〇〇フィートほどの距離を腹這いになって進んだ。その先には陸橋があり、防音用の壁があった。
ジミーはその壁を自分でも信じられないくらい身軽によじ登ると、陸橋の下の柱の一本にしがみついた。仲間たちの悲鳴があちこちで聞こえ、タイヤの焦げる臭いは息苦しいほどだった。彼はぶるぶる震えていた。それはあの気違いコルベットに見つかるのではないかという恐れよりも、化け物が立ち去るまで自分がここにつかまっていられるだろうかという心配のためだった。下には上と同じようなひび割れたフリーウェイが走っており、そこはどう考えても自分をあたたかく迎えてくれそうにはなかった。
マクガイア博士がストリート・ワンダラーズを壊滅させ、腹に響く排気音を残して走り去った後、ジミーはおそるおそる柱から手を放すと、陸橋の手すりにつかまり、自分の身体を引き上げた。次いで防音壁を乗り越えようとしばらくの問、悪戦苦闘した。自分が先ほどどうやってこの壁を越えたのか、今となっては全然わからなかった。それでも何とか乗り越えると、がくがくする足を励ましながら、仲間の様子を見に行った。
ひどかった。全くもってひどかった。彼はトニーの分断された首につまずき、悲鳴を上げた。そして吐いた。ひとしきり吐いてから、今度は狂ったように笑った。
「おまぬけ野郎! だからおれが最初っからよせっていったじゃないか」
そしてまた吐いた。結局、ジミー・カニングスはハイウェイ・パトロールがやって来るまでゲーゲーとだらしなく吐きつづけた。
ダッシュボードに据えつけられたカーステレオからボブ・マーリーを思わせる音楽が流れていた――導師のお気に入りの曲だ。ブードゥの根源に触れ得る唯一の音楽、レゲエだ。
風はいっときの勢いを失ったようだった。背の高い革がきざ波のようにそよぎ、絶滅を免れた幸運な虫が、マクガイア博士の足元でコロコロと鳴いていた。博士は黒い煙を辺りに振り撒きながら、しばらくの間、アイドリングを続けた。
「導師、そろそろ行くぞ」とマクガイア博士はいった。
いつのまにか音楽が止んでいた。導師の気分次第なのだ。カーステレオからは地元のFM局のニュースが流れていた。こちらの方がずっといい、とマクガイア博士は思った。
「導師」とマクガイア博士はいった。「助言を与えてくれ」
スピーカーからハウリング音が鳴った。まるでガラスを思い切り引っ掻いたような、不快で人を苛立たせる音だった。
「ウサギの足が必要だ」くぐもった声で導師が答えた。
「なんだと?」
「正確には片目がつぶれた穴ウサギの足じゃ。白と黒のぶちになっているのが最も効果的」
こいつは白痴だ、とマクガイア博士は思った。多分、カーステレオの中に転移するときに、脳の中枢部分が侵されたに違いない。
「ウサギは絶滅している」マクガイア博士は厳かにいった。
「代用品じゃダメなのか。たとえば、人間の頭の皮とか。それなら調達できる。州境は近いからな」
ニュースによれば、州境では検問が行われているという。大方、馬鹿な役人か、州警の人間が、シケた強盗でも追っかけているのだろう。こんな大物が彼らのすぐ近くにいることも知らずに。
マクガイア博士は満足げにため息をついた。自分が捕まることはないだろう。それは予め決められていることなのだ。遠い昔に、運命によって。所期の目的を果たし、最後の一人を血祭りに上げるその日まで、自分は決して誰にも捕まることはないだろう、とマクガイア博士は思った。
「ウサギの足じゃなきやダメだ」ブーンというハウリング音と共に、導師が懇願するような口調でいった。「博士、あんたはブードゥを理解していない」
また泣き言だ、とマクガイア博士は思った。いい加減、このオカルト気違いにはうんざりする。なのに、何の因果か、自分はこの、のべつまくなし文句しかいわない旧型のカーステレオと運命を共にしているんだ。くそいまいましい。
「何とかウサギを手に入れよう」とマクガイア博士はいった。
「多分、旅行者の誰かがペットとして飼っているだろう。絶滅は純粋に統計学的なものだからな。どこかで密かにペットとして動物を飼っている者がいるだろう」
そいつにこの気違いを押しつけてやってもいいな、とマクガイア博士は思った。ペットウサギの代わりにイカレたカーステレオを可愛がるというのは、ちょっとしたご愛敬というものじゃないか。
つかの間、マクガイア博士は目下の仕事を忘れ、ウサギのゲージに押し込まれたカーステレオの姿を想像した。水の入った器と干し草。きっと導師はエサがやってくる時間を待ちわびながら、通りがかりの子供に大事なアンテナを折られないよう、絶えずびくびくしていなければならないに違いない。
と、不意にそのユーモラスを場面をかき消すように、マクガイア博士の脳のイメージを支配する部分に、一人の男の顔がぽっかり浮かんだ。忘れようとしても、決して忘れられない顔。脳味噌のしわに刻み込まれた最後の一人。多分、子供という言葉が大脳皮質の記憶部分を刺激したに違いない。マクガイア博士はその男を心から憎んでいた。
シヴォレー・コルベットのエンジンの回転数が急激に上がった。ガスを吸い込み、点火し、爆発させ、排気する。低い唸り声が甲高い悲鳴のような音に変わった。
「導師、ウサギは手に入れよう」とマクガイア博士はもう一度いった。もしなければ、精巧な模造ウサギでも与えよう、と博士は密かに思った。ソニーかニンテンドーの商品リストにちょうど手ごろなものがあるに違いない。あいつら日本人てのは、際限を知らないからな。きっと狂ったブードゥ教の導師用の模造ウサギなんて品目もあるに違いない。
「だが、その前に祈ってくれ」マクガイア博士はいった。
「われらとわれらの目的のために」
コルベットのカーステレオが祈祷を始めた。荘重にして単調な、眠気を催す声が辺りに響いた。州の南の州境近くの何もない、一台のクルマすら走っていない埃っぽいハイウェイに。
いつの日にか、全てが明かされるときがくるだろう、とマクガイア博士は思った。このマクガイア博士がただの犯罪者だったのか、高潔な復讐者だったのかを後世の人々が自らの頭で判断する日がやってくるだろう。真実を知るときがいずれくるだろう。そのとき、マクガイア博士の名は真に偉大なる伝説として、後々まで長く語り継がれるのだ。
マクガイア博士はトランスミッションのオートマティック・ギアを二速に入れると、かつて人間の身体を持っていたときのように、アクセルを動かした。このときばかりは身体がないことが恨めしかった――アクセルを踏み込む感触が欲しかった。そして徐々に速度を上げながら、州境目指して走りだした。
「博士、ガスは大丈夫か」導師が尋ねた――祈祷を終えた後はいつもそうであるように、物憂げでけだるそうな声だった。
「途中で無人スタンドに寄ることにしよう」マクガイア博士はいった。そしてハイオクを奮発しよう。
「今日の祈祷はなかなかのものだった」カーステレオが自画自賛した。
「博士、ウサギを忘れないでくれよ」
「アーメン」とマクガイア博士は答えた。
そしてスピードを上げた。V8エンジンの野太い音を周囲に響かせながら。
窓から強い陽射しが差し込んできた。ジムはまぶたの裏に眩しさを感じ、しぶしぶ目を開けた。朝だ。
バスの旅は三日目を迎えようとしていた。辺りを見回すと、乗客たちは皆シートの上でだらしなく眠りこけていた。
ロバート・ジュニアはちらとこちらを見ると、
「おはようございます、ジム」といった。
「おはよう、ボビー。ここはどこだい?」
「ユタ州バーナルの手前ですよ。ついさっき州境で検問がありました。コーヒーはいかがです、ジム? シートの右側のクランクを回すと、カップが出てきます。抽出時間は約一五秒です」
「ありがとう。今、検問ていったけど」
ジムはクランクを回してカップを受け取ると、コーヒーが出てくるのを待った。ほどなく琥珀色の液体が注がれ、日本産ミヤコの香りが辺りに広がった。
「多分、イザール人のスパイを探してるんでしょう。あの戦争からこの方、この辺りにはイザール人のスパイが多いんですよ」
ジムはロバート・ジュニアのへりくだった口調が気になった。昨日とは随分勝手が違うじゃないか。
「ボビー、今日は調子がよさそうだね」
「ありがとうございます、ジム。あなたも顔色がいいですよ」
「やれやれ」ヘッジズが口をはさんだ。片目を開け、うんざりした顔で二人を眺めやる。「ここじゃ、朝から問の抜けたコントをやるのか? ボビー、あんたは躁うつ病じゃないのかね。いいときと悪いときが交互にやってきてるじゃないか」
ヘッジズの大声で、乗客の大半が――といっても、たったの九名しかいないが――目覚めたようだ。
「躁うつ病なんてないのよ」耳ざとく二人の会話を聞きつけたべッキーが断言するようにいった。
「それはうつ病の緩解期の一症状なの。一見、躁期とうつ期が交互に繰り返しているように見えるけど、それはうつ病の典型的症状なのよ。今、精神医学界では躁うつ病というカテゴリーはないわ」
「ずいぶん、詳しいんだな」ヘッジズが皮肉っぼくいった。
「父親がそうだったわ」ベッキーがいった。
「うつ病だったの。父が緩解期のときはまるでスーパーマンだった。できないことなんて何もないように振る舞っていたわ。いつかうちで飼っていた犬が溺れそうになったとき、父は川に飛び込んだわ。泳げないのに。反対に抑うつ期のときは書斎にこもって、全く出てこないの。中でクロスワードパズルをやっているのよ。何時間も何時間もね。最後にはスポーツクラブのロッカーの中で首を吊って、死んでいたわ。ピカピカのスポーツシューズを履いてね。着ていたスーツはよれよれ、シャツの襟は真っ黒に油染みていたけど、なぜか靴だけは新品だったの」
「そいつは悪いことを聞いたな」
「いえ」とロバート・ジュニアは口を挟んだ。
「謝ることなんてありませんよ。ミス・ジャービスがいっているのは、つまり本の内容ですよ。確か『イザール人の退屈』というカルト小説です。主人公の生い立ちがまさにそうなんです」
「よくわかったわね」とベッキー。
「これでも全米読書クラブに入会しているんです。それはクラブ誌の通巻二五六号“太平洋文化圏の新しい小説”特集の推薦図書でしたよ」
「なんだって?」ヘッジスが困ったような顔で二人を見つめた。
「ボビーはベッキーがあなたをからかっているといってるんですよ」
ジムがいった。そしておかしなバスに乗ったもんだ、と思った。このバスじゃ、ロボットと若い女の子が趣味の文学談義をする。
「ちょっと待て」とヘッジズがいった。彼は奇妙な顔をして、ロバート・ジュニアを見つめていた。
「ボビー、あんた、ハンドルはどうしたんだ」
そういわれて、ジムも気づいた。
ロバート・ジュニアは通路の真ん中に立っていた。ベッキーとの話に夢中になって、運転席を離れていたのだ。
しかし、それをいうなら、今、バスは誰の手も借りずに、ただそれ自身の意志で動いていた。まるでバス自身がはっきり目的地を分かっているかのように、クラッチを切り、ギアを切り替え、またクラッチをつないで、アクセルを踏み込むという一連の作業を飽きることなく繰り返しながら。
「このバスには自動運転装置がついているのか?」ヘッジズが目を丸くしていった。
「いいえ。もしそうだったら、僕なんか必要ないでしょう」
ロバート・ジュニアは悲しそうに答えた。まるで自分が自動運転装置だったら、全てが丸く収まっていたに違いないとでもいうように。
「みんなにもわかるように説明してもらおう」
「前の検問所を出てから、コントロールが利かなくなったんです。もちろん、外部とも連絡はとれません。はっきりいえば、我々は現在、第三者の手によってどこかに運ばれているところです」
「その第三者ってのはなんだ?」
噛みつくように、そして聞きようによっては幾分怯えが混じっているような声でパンクスの男の子がいった。隣の女の子はガムをかみながら、目をまんまるくしてボーイフレンドを見つめていた。
「推定でよければ――」とジュニア。
そのとき、動物の唸り声のような、低くくぐもった響きが聞こえてきた。みんながはっとして、進行方向を見つめる。
前方で道路をふさぐように停まっていたのは、鮮やかな真紅のコルベットだった。
ピカピカに磨き込まれた新車のように見えるその往年のスポーツカーは、ベッキー・ジャービスが着飾って乗ればしっくりくるだろう原始的な野性美に満ちていた。ただ、不必要なほど膨らんだボンネットは熟練したアスリートのはりつめた筋肉のようで、今まさに獲物に飛び掛からんとする、どう猛な肉食動物を思わせた。
「ボビー」とヘッジズがいった。「今度、このバスを人に又貸しするときは前もっておれに教えといてくれ。もっとも――」ヘッジズは頑丈そうな顎を引いて、前方を見つめた。「その今度ってやつがあるとしてだが」
誰かがその瞬間、小さな悲鳴を上げた。多分、ニューヨーク行きの切符を持ったご婦人に違いない。反応速度が人より遅いのだ。
「もし、知らない人がいたら教えて上げるわ」ベッキー・ジャービスが気取った口調でいった。
「あれがかの有名なマクガイア博士よ」
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