見出し画像

『飛び地のジム』第二部 7


 葬儀の日は雨だった。
 二、三日前からポートランド市内に居座りつづけた雨降虫のせいだった。
 葬儀自体はヴォルフガングが一切を取り仕切り、厳かではあったが、故人への思いがあふれた心温まるものだった。
 爆弾処理班の担当者は、犯人が使ったのは、新種のプラスチック爆弾で、非常に局所的な爆発を起こすのだ、とジムに語った。対人用ですよ、と彼はいった。もちろん、即死だった。ジムはそれを聞いて、少し慰められた。
 葬儀にはテロ事件を担当していると称する警察やFBIの連中も来ていたが、ジムがさほど大した情報も提供できないのを知って、あからさまに失望した様子だった。彼らは墓地の片隅に一か所にかたまって、胡散臭そうな目で参列者たちを見つめていた。
 ジーナ・シモンズが以前、修道女であったという事実が、意外と人々に知られていなかったことにジムは驚いた。カトリック教会の支部から派遣された痩せこけた牧師はそれに触れたがらなかったが、ジムとヴォルフガングはぜひとも故人への別れの挨拶に入れて欲しいと頼んだ。ジーナはそれを人々に知ってもらいたいだろうというのが、二人の考えだった。
 ヴォルフガングはジムにいった。
「きみのお母さんは、およそ与えられた運命というものに満足できなかった人だったな。いつも何かしようとしていた。立派な人だったよ」
 ヴォルフガングはまた、警察はおそらく犯人を見つけられないだろう、ともいった。ウッドペッカーは逃げ足が早いので有名だった。ビリーが犯人だとしたら、既に国内から立ち去っているに違いない。
「全米に一一五近くもあるテロ組織ってのは、恐ろしく入り組んでいるものなんだよ、ジム。日本のヤクザともつながりがあるし、資金源には台湾マフィアが絡んでいるという噂だ。全米だけじゃなく、EUにも下部組織があるらしい。もし、ビリーがそこに潜りこんでるんなら、まず割り出しは不可能だな」
「気を落とすなっていうのは、無理かもしれないけど」
 パット・シュリーマンが墓地の横で目を赤く腫らしながら、そういった。パットは黒い喪服を着ていたが、とてもきれいに見えた。それをいうと、パットは不謹慎な、というような顔をした。パットの方が自分よりずっと気落ちしているように、ジムには見えた。
 近くにいた元ホークナーの弁護士だというよぼよぼの老人が、目ざとくパットに目を留め、好色そうな目でジムに合図を送ってきた。
 やれやれ、とジムは思った。あのご老体は普段、パットが奇妙なマスクを被って、人生相談をしているのを見たら、何と思うだろう? 近頃は新種のSMプレイか何かが流行っているのだろうとでも考えたかもしれない。
 ジムの耳元でぼそぼそと話すヴォルフガングの声には疲れがにじんでいた。ジムは改めてヴォルフガングが随分年を取ったことに気がついた。まだ五十歳には手が届いていないはずだったが、ヴォルフガングの頭はほとんど白くなっていた。
「きみには辛いことだろうが、犯人のことは忘れた方がいい。ビリーは狂人の母親に育てられたんだ。こういうことは予測が不可能だし、たとえ予測できたにしても、結局は実行される例が多いんだ。それにもう一切が終わったことだよ」
 多分、ヴォルフガングはそれをいいたかったに違いない。一切が終わったのだと。
 しかし、ジムは全てがこれで終わったとは考えられなかった。
 ジムには逆にここから全てが始まるように思えた。
 それに今は春だった。どんなに雨が降ろうとも、どんなに悲しみが周囲を覆い尽くそうとも、全てがここから新しく生まれる季節だった。それは刷新を意味した。物事の生まれ変わりを、新しい生命の訪れを。ジムは自分が生まれ変わる必要性を感じた。
「そうだ、ジム」突然、ヴォルフガングが思いついたように、いった。
「きみの友達のカスターだが、どうやらこちらに戻って来ているらしい」
「こちらに? この国にってことですか?」
「ああ。強制送還か何かでな。精神医学会の会報で読んだんだ」
 ヴォルフガングはジムの失語症治療の際に出会った精神分析という学問に魅せられていた。その原因にはジムの庇護者として(彼はそう思っていた)、ジムの映話カウンセリングという仕事にも興味を持ったせいもあるのだろう。一方、ジムはそれはヴォルフガングの頑強なニキビにあるのだろうと思っていた。ヴォルフガングは自分が密かに抱いている強迫観念の根源に気がついたのかもしれない。
 ジムはカスターのことを思い浮かべた。最後に会ってから既に七年の歳月が流れていたが、ジムはこれまでカスターが地球に戻ってこられるとは全く考えていなかった。カスターにはなぜか犯した犯罪以上の罰が課せられていたように思えたからだ。それは不当なことだったが、その不当さゆえ、ただの悪意を越えた力がカスターをずっとその場所に留めておくように思えた。
「どこなんですか、レイが入っている病院は?」ジムは訊いた。「彼は無事なんですか」
 ヴォルフガングはジムの真剣な顔を見て、表情を曇らせた。
「これをあまり大げさに取らないで欲しいんだ。そして、そこから事実以上の意味を取らないで欲しい。それは大事なことなんだ。約束してくれるね?」
 ジムは苛立ちを感じた。急にヴォルフガングが父親役をやりたがっているように思えてきた。そしてジムが癪にさわったのは、ヴォルフガング自身がそれを楽しんでいるように見える点だった。
「いいですよ」仕方なくジムはいった。
「レイ・カスターが入っているのは、コロラドのブルンヴァン精神病院――
マーサ・アルムが最期を迎えた病院だよ」

 ジムはその日、葬儀が終わって以来、初めてバーンサイド墓地に足を踏み入れた。相変わらず雨は降り続いていたが、他には空いている日はなかった。
 雨降虫の動きは不可解極まるものだった。ポートランド市全域に特大の核爆弾が落とされたみたいだった。雨降虫は、時折気まぐれに晴れる以外はどっかと腰を据えたように動かなかった。発芽した種子もすぐさま腐りそうな長雨が降り続いていた。
 母親の葬儀は三週間前のことであり、その三週間の間、ジムは、母のジーナがやり残した様々な事務処理に追われていた。“ボリスの声” にはしばらくの間、休むことを伝え、密かにパットには辞めることを伝えておいた。
「それはあんたには必要なことなのね」自分を納得させるように、パットはいった。
「多分ね」といって、ジムは後ろめたい気持ちになった。
 ジムはそれまでパットと三度寝ていた。ジム自身、パットを好きだとは思っていたが、それを愛と呼べるかどうかは自分でもわからなかった。カスターを失ってからこの方、ジムは自分が何をしたいのかがよくわからなくなっていた。ただ、自分が何かをしなければならないという強い欲求だけは感じていた。難破した船がふらふらしながら陸地を目指しているようなものだった。
 葬儀の後、ジムはブルンヴァン精神病院についてできるだけ詳しく調べていた。
 最初、公共のデータ・ベースにアクセスしたところ、出てきたのは、至極真っ当な答えだった。即ち、ブルンヴァン精神病院というのは、高額所得者層が法外な金額を支払い、ただ自分を安心させてもらいたいがために、カウンセリングを受けるような場所なのだ。
 しかし、情報というのは、そのソースによって大きく異なるものだということを、彼は以前エルドン・テイラー探しに奔走した母親から聞き、知っていた。幸いにも、母親がテイラーを探すのに使った民間のデータ・ベースの回線のいくつかは未だに開かれたままだった。
 ジムはその一つにアクセスしてみたが、そこから得た内容はひどく不安を感じさせるものだった。
 “ブルンヴァン精神病院――サント・ドミンゴ、コロラド州。院長アンディ・ブルンヴァンはコロラド州選出の上院議員。富裕者向けの神経クリニック。開設当初はロボトミーの専門クリニックとして有名だったが、ロボトミー禁止後は、富裕者の高級クリニックとして政財界に知られる。連邦政府の矯正施設との噂もあるが、真偽は不明”
 矯正施設? 矯正施設だって?
 次の日、ジムは慌ただしく旅行の準備を始めた。ポートランド大学の研究室に連絡をとり、都合よくそこにいたパットにホンダを安く譲る交渉をした。次に地元の不動産屋に連絡をとり、母親が残した家に自分は住むつもりがないので、適当に修理して競売にかけてくれ、告げた。そして最後にヴォルフガングに映話し、しばらく旅行に行ってくる、と伝えた。
「それはいい。しばらくのんびりしてくるんだな。戻ってきたら、連絡してくれよ」
 そういってから、ヴォルフガングは思いついたように、付け加えた。
「但し、くれぐれも気をつけて欲しい。もちろん、一切は終わったことだが、何といってもビリーはまだ捕まっていないからな」
 ジムはうなずいた。そしてヴォルフガングもやはり気になっているのだ、と思った。
 いつの間にか、雨が止み、雲の切れ間から陽が差し込んでいた。
 ジムはふと足をとめると、ゆっくりと辺りを見渡した。墓石は古いものも新しいものも皆一様に雨にしっとりと濡れ、陽の光できらきら光っていた。
 二ブロック先にはかつてレイ・カスターのトレイラー・ハウスがあった空き地があるのを彼は知っていた。今ではそこは子供の遊び場になっている。
 ジムは傘をとじると、肩に降りかかった水滴を手で払った。遠くの方で一組の家族がゆっくりと墓石と墓石の問を進んでいくのが見えた。
 ここは平和だった。少なくとも死者の平安に満ちているように思えた。目を閉じると、柔らかい風が頬の辺りをすーっと撫でていくのがわかった。
 そしてふと、ヴォルフガングが父親役を買って出ることについて、自分が態度を決めかねているのはなぜだろう、と思った。
 やがてジムは腰を伸ばすと、時間を確かめ――そろそろロッカーから荷物を運び出す頃合だった――、丁寧に傘をたたんだ。そして、もう一度だけ母親の墓石を一瞥すると、出口に向かって歩きだした。
 そのとき、墓石のすぐ後ろに、誰かが置いたらしい花束が見えているのに気づいた。
 いや、かつて花束であったものだ、とジムは心の中で訂正した。
 ジムは足をとめ、その濡れそぼった薔薇の花束を拾い上げた。
 薔薇はジーナが好きだった花だが、その花束は花の部分を丁寧に切り取ってあった。切り取られた花の部分はひとかたまりにして、無造作に横に置いてあった。
 あたかも子供のままごとにでも使われたような稚拙な置き方が、なぜかひどく悪意あるもののようにジムには思えた。
 もちろん、天の邪鬼な子供がいたずら半分にやったんだろう。強いてジムはそう思おうとしたが、自分でも信じてないのは明らかだった。
 ジムは緊張感で全身をこわばらせながらゆっくり後ろを振り向いた。
 先ほどの家族は既に立ち去った後らしく、一人の男が掃除機を動かしていた。きっとこの墓地の管理係なのだろう。掃除機の立てるゴーッという音が、木々のたてるざわざわした音に混じり、ジムにも聞こえた。
 他には誰一人いなかった。誰一人も。
 もちろん、そうじゃない。
 ジムは確信を込めて思った。
 ついさっきまでここにビリー・アルムがいたんだ。

 グレイハウンドバスのバスディーボ(乗り場)は、バーンサイド郊外にあった。
 それは見すぼらしいプラスチック張の細長い納屋を改造したもので、戦時中にどこかの農家から無償供与されたものだった。かつてグレイハウンドバスが都市間交通の一翼を担っていた頃には、到底考えられないようなお粗末な代物だった。
 それに周りもひどかった。割れたコンクリートの地面からは、放射能に冒され、地面に這いつく、いびつな葉を持った雑草がところ構わず生え茂っていた。足元では絶えず埃っぽい風が渦巻き、歩道の側溝の掃き溜めでは、とうの昔に終わっている選挙ポスターの切れ端が風に舞い、くるくる踊っていた。
 そのロボットは屈み込んで、選挙ポスターの残骸を拾うと、正確な動作で近くのダストシュートに投げ込んだ。バタンと蓋が閉まり、ヒュルルルという情けない音と共に中に吸い込まれていく。
 ロボットはその黄ばんだ切れ端がどこに行くかを知っていた。もちろん、市の廃棄場に直行するのだ。そこにはありとあらゆるガラクタが眠っていた。そのガラクタに自分が加わったらいけないだろうか、とロボットは思った。そうしたら、早晩自分は破壊されるだろう。チップのかけらまで、粉々に。
 もっとも僕はここに入りはしないだろう、と陰鬱に考えた。第一、穴が小さすぎる。
 なぜ、市当局は集中ダストシュートの口径を13インチと決めているのだろう、とロボットは思った。その根拠は? 陪審員の皆様、ここには法的根拠がありません。
 ロボットはうんざりしていた。こういってよければ、全てにうんざりしていた。
 しかし、それはこのロボットにとって、通常の状態といってよがった。
 精神医学界の会報でブルンヴァン博士がいみじくも語っていたように、鬱病者はすべからく抑鬱期と緩解期を交互に経験するのた。
 先週のツアーでロボットは自分の緩解期が終わったのを知っていた。
 乗客の一人が、自分の娘がチョコレートを食べすぎるといったときに、ロボットにはそれがわかったのだ。喜びにあふれた世界が突如反転し、不可解で高圧的で非人間的な世界――しかし自分にとっては、より馴染みのある世界――にとって代わる。ロボットはその乗客に殺意を覚え、同時に自分が無価値だという思いに強く捉えられた。
 多分、自分は父親(にして所有者)のいうことをちゃんと聞いておくべきだったのだろう、と思った。エアタクシーの運転手からグレイハウンドバスの運転手へと転職したのは、おそらく決定的な間違いだったに違いない。
 全てはそのように起こった。ロボットのチップの欠片に刻み込まれた欠陥は、いつのまにかタチの悪い癌のようにロボットを蝕んでいた。人間の遺伝子に原罪がしっかり記憶されているように、ロボットのメモリー・チップには自らを卑下してやまない悲しい衝動がちゃんと記録されていたのだ。十五年前から。
 その年、ポートランド・オレゴンにはなかなか春が来なかった。
 もちろん、その兆しはあった。
 半年も前からCBSの人気お天気キャスター、“すれっからしスウェイジ”がこの冬、ポートランドは凍りづけだと宣言していたし、またワシントン・パーク動物園では、五年前から飼育されている七頭のレッサーパンダ――正真正銘の本物で、フィリピンに住む華僑の夫婦が自分の敷地内で密かに飼育していたものだった――が、半年を過ぎても人工冬眠から目覚めないという異常事態も起こっていた。
 そしてニューヨークでは慢性的な不況が街を覆っていた。放射能霧よりずっとタチが悪かった。なぜなら、放射能霧と違って不況を食べてくれる生物など、どこにも存在しないのだから。
 不況の上にエア・タクシーのプレートが乗っかっているのさ、とジョンソンズ・エアタクシー社の熟練ドライバー、ロバート・ウィルソンは陰鬱に考えた。
 おまけにここ二、三週間ばかり、ステンレス製の義肢の調子が悪かった。まだローンを払い終わっていないというのに――クレームをつけようにも、保証期間はとうに過ぎていた。
 タオ・タスコ社は保証期間が切れるのを待って故障するように作っているに違いない、とウィルソンは断定した。中国人の考えそうなことだった。やはり、日本製のものにしておくべきだった。最初は高くついたにしても、後々のことを考えれば―― 。
 またぞろ憂鬱な思いが彼を襲った。俺はいつもそうだ。先見の明がない。目先の欲にとらわれて長期的な展望ってもんが、からっきし持てないんだ。
 ウィルソンは生気のない目で周りを見回した。
 五番街の上空三〇フィートの位置にぽっかりと浮かんでいる駐車プレートには、色とりどりのエア・タクシーが客待ちのために腰を据えていた。
 知った顔はいないだろうか。そうしたら、グチのひとつもこぼせるんだがな。だが、運転席に座っているのは、皆一様に表情のないロボットだけだった。顔なじみの多くは既に引退しているか、もっと実入りのいい仕事に就いていた。またもおいてけぼり。それはボブ・ウィルソンの人生を象徴する言葉だった。
 不意にプレートから一台が飛び上がり、急速度で旋回し、まるで餌を見つけた捕虫生物のようにぐんぐん降下していった。
 くそっ、運のいい野郎だ、と思いながら、ウィルソンも身構えた。
 客待ちにはタイミングが肝要だった。それと鋭敏な勘だ。ウィルソンは自分の勘を信じていた。コール・サインをじっと見つめる。サインが二度点滅しないうちにウィルソンはスロットルを開いていた。しかし、先に飛び出した者がいた。反射運動では、どう逆立ちしたところでロボットには敵わない。
 ウィルソンはこぶしをステアリングに叩きつけると、前方をぐっと睨んだ。
 青と黄色にけばけばしく塗り分けられたタクシーがウィルソンの前を飛んでいった。しかし、そのタクシーはどこか様子がおかしかった。
 ウィルソンが加速し、追い抜きざまに運転席を見ると、ロボットが悪戦苦闘しているのが見えた。ははあ、エンストだな、とウィルソンは独りごちた。あの馬鹿が吹かし過ぎたんだ。
 ウィルソンはスロットルを全開にし、降下態勢に移った。たちまち青と黄色のタクシーは遥か後方に流れ去った。きっとあのロボットはタオ・タスコ社製に違いない、と彼は思った。保証期間が切れたんだ。ウィルソンは笑い声を上げた。
 五番街の交差点近くで、子供連れの女が手を振っていた。タクシー乗り場に人は疎らだった。今日は幸先がいいぞ、とウィルソンは独りごちた。
 ロバート・ウィルソンは知らなかったが、女はマーサ・アルムといって、一週間前にコロラドにあるブルンヴアン精神病院を仮退院してきたばかりだった。子供は三歳で、マーサの娘――つまり今は亡きウィリアム・ホークナーの二番目の子供(ジムの異母妹)にして、後にジーナ・シモンズを爆殺する、あのビリー・アルムだった。
 ウィリアム・ホークナーのあまり感心できない血が拡大再生産された経緯は次のようなものだった。
 十二年前、ジーナ・シモンズがボークナーの遺伝子を受け継ぐ栄誉を射止めてすぐ、マーサ・アルムは幻覚に襲われた。幻覚は怒れる神の姿となって、マーサを悩ませた。彼女にとっての神とは、もちろん、ウィリアム・ホークナーだった。ホークナーはマーサを救いようのないほど醜い女だといい、男なしではいられない、堕落した精神の持ち主だと激しく罵った。
 マーサ・アルムは怯え、泣いたが、ホークナーの言葉は容赦なかった。ホークナーにいわせれば、マーサのような女は生きている価値がないのであり、それが今まで生きてこられたのは、マーサに果たすべき使命があるからなのだといった。そして、その果たすべき使命というのは、マーサがウィリアム・ホークナーの偉大なる血を未来につなげていくことだった。
 マーサが現実との接触を完全に失ったのは、ちょうどその頃だった。広告代理業を営んでいた彼女の両親には、一流の精神分析医を雇えるだけの余裕があったが、ニューヨーク市内で一番の評判――腕にせよ、診察料にせよ――の分析医でさえ、マーサの心の奥深くに巣くっている頑迷な神、ウィリアム・ホークナーを追い出すことはできなかった。
 結局、マーサは十数回もあちこちの病院を転々とした挙げ句、最後にコロラド州ブルンヴァン精神病院に落ちつくことになったが、マーサの両親はその間、ただ手をこまねいていたわけではなかった。
 彼らはまず弁護士を雇って、ウィリアム・ホークナーの遺言状を検討させた。自分たちの娘が、あのくそったれな――彼女の両親は考えていた――ホークナーの種を受け入れられる余地があるかどうかを調べさせるためだった。結果、ホークナー側の弁護士は、二、三ちょっとしたミスを犯していることがわかった。
 ホークナーの遺言状では、彼の遺伝子を受け継ぐ者は、たった一人であると決められていたが、付帯事項には、ホークナーの子供は精神的にも肉体的にも健康であらねばならないとされていた。マーサの両親とその弁護士は、当然、この点を問題にした。知恵遅れ――当時、ジムはまだ言葉を話していなかった――で片腕が不自由なジーナの息子を、果して健康と呼べるであろうか?
 ヴォルフガング・ハースはもちろん、彼らの申し出に反対した。既に彼はジーナやジムと関わりを持っていたし、本音をいえば、これ以上、ウイリアム・ホークナーの亡霊に自分の周りをうろうろして欲しくなかった。ホークナーはとうに死んでいるのだし、死んだ人間にわずらわされるのは、もう沢山だった。それに彼自身もまた、個人的な問題を抱えていた。
 当時、彼は秘書のクリスティーナ・ゲインズと婚約を交わしたばかりだった。ハネムーンにはハワイのシェラトンを予約してあり、クリスはハワイに日本人が作った九番目のディズニーランドを見るのを楽しみにしていた。
 そして今を去る十八年前の冬、ヴォルフガングがクリスとハワイに旅行中に、マーサ・アルムはホークナーの種を孕んだ。実をいえば、ちょうどその頃、クリスもまたヴォルフガング・ハースの子種を宿していたのだが、その後、父親を生涯に渡って支配する厭世的な性格を受け継いだのか、ついにこの世に生まれてくることはなかった。
 ヴォルフガングとクリスがニューヨーク総合病院で、死産に終わった男の子のために泣いていたとき、マーサはブルンヴァン精神病院の特別室で、一人の女の赤ん坊を産んだ――マーサの子供が死産になる可能性は全くなかった。
 マーサの両親は娘の精神状態を十分に理解していたので、おそらく手足がバラバラで生まれてきても、それをつなぎ合わせるくらいはやってのけたに違いない。幸いなことに、マーサ・アルムの赤ん坊には、どこにも悪いところはなかった。ウイリアム・ホークナーの不愉快な遺伝子が五体満足な人間をも創造できると知って、関係者は内心驚いたに違いない。
 マーサ・アルムのホークナーに対する忠誠は、ジーナ・シモンズのそれとはまた全く違った形で表された。マーサの子供は可愛らしく、健康な女の子であったが、彼女に与えられた名前はそれを台無しにした。将来性のある女の子につけられた名前として、およそウィリアムというものはどそぐわないものがあるだろうか。
 マーサはさらにホークナーという姓まで与えようとしたが、それは賢明にも、彼女の両親の強硬な反対によって、退けられた。その代わりに、彼らの孫が成人に達したときのために、かなり高額な信託預金が用意された――マーサの両親は、自分たちの孫が成人に達するまで娘が生きていられるとは考えていなかった。
 ロバート・ウィルソンが自分のエア・タクシーにマーサとその娘を乗せたとき、彼は自分が滅多にない上客を乗せたと思っていた。若い母親は、いつも彼に輝かしい未来というものの存在を思い出させてくれるし、それは大抵の場合、彼が忘れていたものだった。
 もっとも、ウィルソンは決して善良なだけの男ではなかった。彼は妻をよく殴ったし、以前には子供を折檻して、おそらく一生残るであろう傷を負わせたこともあった。彼はそれをアルコールのせいにしていたが、内心では自分の卑屈な性格に由来するものだとわかっていた。あのくそったれを戦争が自分の片腕を奪い、さらに自分の人間性まで歪めたのだと思っていた。そう思うことで一時的にではあるが、彼の考える暗澹たる未来に直面することを避けることができた。
 その未来とは、さほど遠くない将来、彼もこのジョンソンズ・エアタクシー社を追われ、タオ・タスコ社か、どこかそれよりもっとましなところで造られたロボットに、その地位を奪われるだろうということだった。
 多分、俺がすべきこととは、ここでこうやってロボット相手に無為な競争を繰り返すより、今すぐ新しいローン申込書にサインすることなんだろう、とウィルソンは思った。アルコールに費やされなかった分をかき集めたら、何とか中古の恒常性ロボット一体の頭金ぐらいにはなるに違いない。そのロボットにこいつを、この不格好なタクシーを任せることだってできる。現に昔の仲間がそうしているように。そして毎週金曜日の晩に、ハリーの店でみんなと一緒に自分のロボットの自慢話をすりゃいい。そうして何が悪い?
 だが、彼は自分はおそらくそんなことはしないだろう、と思った。ウィルソンは結局、仕事が生き甲斐だったのだ。たとえ俺以外のみんながロボットにとって代わられたとしてもクビにならない限りは――そして体力が続いている限りは、この仕事を続けているに違いない。自分がおいてけぼりなのは、何も運命のせいばかりではないのだ。
 ロバート・ウィルソンがこのように、いささか感傷的に自分について思いを巡らしていたとき、マーサ・アルムが乗り込んできたのは、まさに不運だった。彼は自分の理想化した若い母親像をマーサ・アルムに見ようとしたが、そこに見つけたものは冷やかな無関心と、驚いたことに侮蔑だった。
「何よ」とその若い母親はいった。「じろじろ見ないで。あんたのその出来損ないの腕についているコードを引きちぎってほしいの?」
 ウィルソンは決して育ちのいい方ではなかったが、ドアを開けて乗り込んできた客からいきなり自分の肉体的欠陥を辱められたのは初めてだった。ウィルソンはすぐに自分の拾った客が、彼の格別豊富ともいえない経験のなかでも最悪の部類に入るのを知ったが、それでも義務として、この高慢な女の娘であるらしい小さな女の子が乗るまで、ドアは開けたままにしておいた。
「地獄の業火に焼かれるがいい」席に着いて、唐突にマーサ・アルムはいった。
「地獄の何だって?」ウィルソンは自分の耳を疑った。彼は今でこそ無神論者を自認していたが、生家はプロテスタント系の新興宗教のある一派に属していた。毎週日曜日、近くのドライブインシアターに仮設された教会で、地獄だの天国だの、ありとあらゆる宗教的たわごとを聞いて育ったのだ。その後、彼は信仰を捨てるが、幼い頃に聞いた地獄についてのおぼろげな記憶は、大人になってからも頻繁に夢の中に現れ、彼を悩ませた。そこにこの見知らぬ女の確信ありけな言葉だ。ウィルソンはてっきり信仰を捨てた彼に、神の使いが復讐に来たと思った。
 だが、実のところ、この言葉はマーサ・アルムの口癖でしかなかった。毎夜、今は亡きホークナー神に祈りを捧げる彼女にとっては、地獄は怒れるホークナーの指し示す楽園であった。もし、理性の勝る者が、マーサのいう地獄というフレーズを聞いたなら、そこに自虐的な喜びを感じとることもできたろうが、しかし、ボブ・ウィルソンは理性よりも想像力が働く男だったので、マーサ・アルムとその娘が、自分を迎えにきた死神の一行に見えた。
 マーサ・アルムが行き先を指定し、それがここから三〇〇マイルも離れたところだと知ったとき、彼はこれからしばらくの間、自分は拷問のような時間を過ごすに違いないと思った。
 マーサが指定した場所は、ニューヨーク郊外のクーパーズ・タウンの外れにあった。そこには彼女の両親のセカンドハウスがあった。ブルンヴァン精神病院を仮退院した娘がしばらく落ちつくのに最適な場所だと彼女の両親が考えたからなのだが、ウィルソンはもちろんそれを知るよしもなかったので、この恐ろしい女がクーパーズ・タウンのような観光地に何の用があるのだろうと訝しんだ。
 そこでウィルソンは耳を澄まし、マーサがしきりに娘に話しかけている内容を聞き取ろうとしたが、それは彼の精神状態をかえって悪化させることになってしまった。何しろ、娘の名前からして尋常ではないのだ。マーサが娘にウィリアムと呼びかけるたび、ボブ・ウィルソンは背筋がぞくぞくするのを感じた。
 マーサがウィルソンのエア・タクシーの後席で娘にしきりにいい聞かせていたものは、ウィリアム・アルムという一少女の生き方を規定する、いわば前提ともいうべきものだった。
 マーサの強迫的な世界観からすると、この世はホークナー的なるものと、そうでないものとから成っていた。そしてホークナー的世界は、そうでないものを駆逐する運命にあるのた。ウィルソンはホークナーとは一体、何者なんだろうと思った。
 ウィルソンがホークナーの正体に思い悩んでいたとき、不意に彼のステンレス製の腕の内部に微弱な電流が流れた。
 それはジョンソンズ・エアタクシー社からボブ・ウィルソンに向けてのラブ・コールではなく、忌ま忌ましいタオ・タスコ社の欠陥製品のみが催すおくびのようなものだった。ウィルソンの義手は絶えず漏電をくり返しており、そのためウィルソンは何度も微妙な軌道修正を試みなければならなかった。
 ウィルソンが心の中で毒づきながら、厄介な軌道修正をくり返す間も、マーサ・アルムに対する講義は続いていた。ウィルソンはこんな小さな娘に果してこれらのことがわかるのだろうかと訝しみながらも、聞き耳を立てていた。
 話はホークナー的世界の前にはだかる敵についてのマーサの激しい糾弾に変わりつつあった。どうやら話の本筋はこちらであるらしいとウィルソンは見当をつけた。彼女の考える地獄についての観念もここではっきりしたし、そこで誰が生贄にされるかもわかった。それが自分ではないことを知って、心底ほっとした。   
 あり得ないことのようにウィルソンには思えたが、彼女のいう世界の敵とは、一人のあまりエレガントとはいえない女とその息子であり、息子の方は何と身体障害者であるらしかった。片腕が不自由ということだけで、ウィルソンはその子供に同情を禁じえなかったが、マーサ・アルムにいわせれば、それは当然の報いということになった。
 もちろん、マーサ・アルムがいっているのは、ジーナ・シモンズとその息子のジムのことだった。マーサの雑然とした脳の中で固まりつつあったものは、純粋に憎悪と呼ばれるものであった。
 ブルンヴァン精神病院での執拗な治療にもかかわらず、マーサ・アルムは完全に狂いつつあった。担当医――ブルンヴァン博士ではなかった――が彼女の仮退院を許したのは、その論理的思考に感銘を受けたからなのだが、今やマーサはその論理的な筋立てのありったけを反ホークナー的世界の不当さを立証するために使った。そしてそのために、彼女の世界観はヨハネの黙示録に世界各国の神話や宗教を継ぎ接ぎしたものと化していた。
 ウィルソンはマーサ親子とジーナ・シモンズ親子が対立するハルマゲドン的世界に寒けを覚えた。自分がとんでもないことに巻き込まれてしまったと思った。できればこんなことは忘れてしまいたいと思ったが、生憎彼の旺盛な想像力はマーサの語る偏執的世界をより一層鮮やかにビジュアル化する始末だった。
 高度二万フィートの上空でロバート・ウィルソンは参りつつあった。それはエア・タクシーのドライバーとしての適性を疑われる事態だったが、マーサがジーナ・シモンズを口汚く罵るたび、ウィルソンの気は滅入った。
 ようやくクーパーズ・タウンの目印となるナショナル・ベースボール・ホールが見えてきたとき、ウィルソンは神に――ホークナーではない神に――感謝した。
 車内はオレンジが半分腐ったような不快な臭いがするように感じられ、ボブ・ウィルソンは吐き気を感じていた。
 ナショナル・ベースボール・ホールの裏手にあるダブルデイ・フィールズの上空では、今では滅多に見ることもない星条旗がたなびいていた。一瞬ではあったが、そこにウィルソンは古きよきアメリカの姿を見たような気がした。日本や中国の経済援助を受け、やっとのことで体面を保っている今のアメリカ合衆国ではない姿を。ホークナーとかいう得体の知れない男に牛耳られる前の世界を。
 モニターの座標軸が目的地が近いことを示す点滅をくり返し、ウィルソンは何気なさを装いながら、ちらと後ろを振り向いた――世界の恐るべき秘密を胸に隠しもっている親子の姿を垣間見た。
 母親はまだ何かまくしたてていたが、それはもはや意味を成していなかった。今や語られるべきことは全て語られてしまったのだ。子供の方は――ウイルソンがひどく驚いたことに――ウィンドウの外を見ていた。あれだけ恐ろしい話を聞かされていながら、ウィリアムと呼ばれた女の子はちっとも怯えているようには見えなかった。
 エアタクシーの外の世界は、ウィルソンが昔子供の頃よく感じていたように、誰にとっても開放されている、とでも思っているみたいだった。しかしそんなことがあり得るだろうか?  あんな話を聞いた後で。
 ロバート・ウィルソンは熟練したドライバーであり、自分の操縦技術を誇りとする、いわばプロフェッショナルのタクシードライバーだった。その彼が訓練所以来、最も無様な着地をやってのけたのは、今やおしゃかになりつつあるタオ・タスコ社製の義手のせいばかりではなかった。
 彼の精神状態はボロボロであり、マーサ・アルムのちょっとした言葉の端々にも律儀に反応している有り様だった。そのせいで、本来抜群の乗り心地を誇るはずの三菱製エア・タクシーは煙を吹き出してもおかしくない状態だった。当然のことながら、マーサは金切り声でそれに応え、一層ウィルソンの手元を狂わせる結果となった。
 クーパーズ・タウンの西、グレン・アベニューから八〇号線に出る手前で、ロバート・ウィルソンは奇跡的に墜落せずに、エア・タクシーを無事着陸させることができた。エアカーの操縦の心得がある者なら、おそらく不時着という言葉でそれを表す方が適切だというだろう。
 マーサは娘を抱き抱え、ドアを蹴破るように押し開けると、操縦席で茫然としているウィルソンに向かって、「あんた、あたしたちを殺す気?」と叫んだ。
 もちろん、ウィルソンにはそんなつもりは毛頭なかった。彼としては精一杯の努力を払ったのだ。彼はマーサの提示するようなハルマゲドン的世界に関わりたくなかった。できれば自分をこのままそっとして欲しいと思った。ジョンソンズ・エアタクシー社の限られた世界の中で彼は十分に幸福だったのだ。
 しかし、マーサ・アルムはボブ・ウィルソンが自分の抗議を顕から無視していると思ったので、執拗にフロント・ウィンドウを叩いた。それでもウィルソンが黙ったままだったので、今度は先の尖ったパンプスの踵でウィンドウ越しにウィルソンの顔の辺りを蹴りはじめた。
 娘のウイリアムはそれを子供らしい好奇心の目で見守っていた。楽しそうに、といってもいいかもしれない。
 三菱製のエア・タクシーのウインドウは全て防弾プラスチックで装甲されており、現実的に考えれば、パンプスの踵ほどの衝撃で割れることはなかった。しかし、マーサの剣幕は凄まじく、ウイルソンはっきり身の危険を感じた。
 そこで、彼は込み入ったステアリングから苦労して自分の義手のソケットを抜くと、ドアを開けて、埃っぽい地面に降り立った。足元で誰か気の利く人間が破ったらしい徴兵用ポスターの切れ端が風に乗ってくるくる舞っていたが、彼は気づかなかった。
 だらりとコードの垂れ下がった腕を庇うようにして、ウィルソンはマーサ・アルムの前に跪いた。
「一体、何のつもりなのよ」とマーサ・アルムはいった。そこには戸惑いと若干の怯えが混じっていたが、ウィルソン自身がこれ以上ないほど十分怯えていたので、彼がそれに気づくことはなかった。
「あんたの会社を訴えてやるわ。わたしたち親子の精神的なダメージを何とかして償わせてみせるわ」
 マーサ・アルムは分裂病患者らしからぬ筋の通ったことをいったが、それはウィルソンが震えながら自分の手にキスするのを見たからだった。
 ロバート・ウィルソンのこのときの精神状態を正確にいい表すのは、かなり困難なことに違いない。彼はマーサ・アルムを心底恐れており、ここから早く立ち去りたいと思っていた。
 にもかかわらず、彼がびっくりしているマーサの手にキスしたことは、彼のあまりかんばしからぬ宗教教育の賜物だった。
 かつて妙ちきりんな教会の信徒だった子供の頃に、ボブの母親が牧師と称する油ぎった男にそうやってキスするところを見たことがあったのだ。子供の目からしても、その牧師はインチキ臭く、ボブはその男を見るといつも、近所の釣り銭をごまかすドラッグストアの店主を思い出した。家に帰って、母親に、なぜあんなペテン師にキスしたのかと尋ねたが、母親は笑ってとりあわず、ただ、そういうものなんだよ、といっただけだった。
 それ故、ボブ・ウィルソンもまた、そういうものだと思ったのだ。ウィルソンにとっては、自分の乗せたこの恐ろしい女はホークナー世界の牧師のようなものであり、その子供はその生きた証し――どこの世界に自分の娘にウィリアムと名付ける親がいるだろう――だった。
 しかし、マーサ・アルムには、エア・タクシーの片端の運転手にかしづかれ、手にキスされることは、とてもそういうものだとは思えなかった。重症の分裂病患者であったマーサをして、ボブ・ウィルソンを正真正銘の気違いだと思わせしめた。そこで彼女は慌てて娘のウィリアムを抱き抱えると、両親の別荘に向かって早足で歩きだした。
 ロバート・ウィルソンは目を堅く瞑ったまま、その後なお十分間あまりもその姿勢を保っていた。砂ぼこりが舞い、タオ・タスコ社製の義手から伸びたコードが何度も彼の膝に当たったが、彼は姿勢を崩さなかった。沈黙が彼の周りを覆っていた。
 それを破ったのは、不意に鳴りだしたけたたましいクラクションだった。ウィルソンがはっとし、びくびくしながら目を開けると、目の前に前世紀の遺物であるシヴォレーのコンバーチブルがアクセルを吹かしながら、彼が道を開けるのを待っていた。
 運転席にいるのは、白髪をぼさぼさにした老人だったが、目はその年齢にふさわしからぬ怒りと興奮でギラギラしていた。
「貴様、自分を何様だと思ってるんだ、インドの牛か」と老人はいった。そしてウィルソンがのろのろと立ち上がり、道を開けると、老人は左手の中指を立て、後輪から煙を出しながら、走り去った。
 驚いたな、とウィルソンは思った。この辺りじゃ、まだ内燃機関のクルマが走ってるんだ。
 そして辺りを見回し、あの親子がどこにも見当たらないことを知り、安堵のため息をついた。
 やれやれ、災厄は去ったのだ。
 ウィルソンがタクシーに戻り、忌ま忌ましい義手のコードをソケットにはめ込もうとコックピットにかがみこんだとき、彼は自分があの親子から料金を受け取っていないことに気づいた。メーターは二五〇〇クレジットを指しており、それは彼の丸々二日分の収入に相当した。
 何てこった、とボブ・ウィルソンは思った。一度はあの親子を探しに外へ出ようかとも考えたが、自分にそれだけの勇気はないことを知っていた。またあの恐ろしい女と対面し、料金を請求するだけの度胸はなかった。
 クソッと唸り、ウィルソンはフロント・ウインドウをじっと見つめた。要するに、これがきっかけなんだ、と彼は思った。俺がこの仕事を辞めるというきっかけがこれなんだ。そう考えると、一遍に肩の荷が下りたような気がした。帰途、ウィルソンは生まれて初めて純粋に飛行を楽しんだ。
 翌日、ロバート・ウィルソンはジョンソンズ・エアタクシー社を辞め、かねてから考えていた通り、新しいローン申込書にサインをした。今度は日本製の恒常性ロボットを買うためだった。
 タオ・タスコ社にはこりごりしていたので、ウィルソンは大嫌いな日本人の愛想笑いにも我慢できた。その代わり、彼は保証内容にはかなりこだわった。保証書の隅々まで目を通し、少しでも疑問があれば、執拗に質問をくり返したので、彼を担当した販売員は愛想笑いのネタも尽きた上、その夜、夢の中でウィルソンの顔が何度も現れ、うなされる羽目になった。
 ロバート・ウィルソンが手に入れたロボットは、ソニー製(メイドインジャパン!)の学習型恒常性ロボットだった。保証期間は五年。彼は自分の愛車に名前をつける類の人間だったので、ちゃんとそのロボットにも名前がついていた。ロバート・ウィルソン・ジュニアがそれであり、ウィルソンはジュニアと呼んだ。
 ロバート・ジュニアが初めてウィルソンの代わりにエア・タクシーのステアリングを握った日、ボブ・ウイルソンはハリーの店で仲間に自分はこの店の終身会員になる、と宣言した。つまりは毎日ここに来て飲んだくれる、ということなのだが、おそらくそのせいであろう、ウィルソンは五年後、アルコールのために命を落とすことになった。
 しかし、飲んだくれではあったが、ボブ・ウィルソンはロバート・ジュニアにとって良き主人であり、また良き父親であった。ウィルソンはマーサ・アルムの黙示録的世界観に当人が思っている以上に影響を受けていたので、絶対に関わり合いになってはいけない人間として、ジーナ・シモンズとジムの名を挙げた。
「いいかい、ジュニア」とウィルソンは事あるごとに、新米ロボットにいった。「この二人に会ったら、とにかく逃げるんだ。自分がガラクタになりたくなかったらな」
 もし、ロバート・ジュニアがこのことを忘れなかったら、あるいは彼の運命もまた違ったものになったかもしれない。しかし、彼は忘れてしまった。
 ロバート・ジュニアが他のロボットと著しく異なっていた点は、彼が忘れるということだった。ロボットは普通忘れたりはしない。彼らロボットは構造上、忘れることはできないのだ。しかし、ロバート・ジュニアは普通のロボットではなかった。
 このソニー製の恒常性ロボットは一つの欠陥を持っていた。おそらくロボットとしては最大の欠陥であろう。
 ロバート・ジュニアは感情を持っていた。そしてそのため、彼は人間が罹るだろう病をロボットの身でありながら患っていた。ロバート・ジュニアは重度の鬱病――ブルンヴァン博士であれば、即座に内因性のものだと診断を下したことだろう――であり、彼は生涯絶えざる自己破壊衝動と戦うことになる。
 そしてロバート・ウィルソンの知る限りでは、それは彼の熟知する保証書の規定には何も触れられていなかった。

 ジム・シモンズがバスティーボに着いたときには、既に日が暮れかかっていた。
 さめたクリーム色のバスの傍では、一体のヒューマノイド型ロボットがホースを手に持ち、水を流しながら、バスの車体を洗っていた。
 到着が遅れたのは、荷物の受け取りに思ったよりも時間がかかったからだった。ロッカーにあった荷物は、一つを除いて――それはデジタルロック式のピルケースだった――、みんな開けられていた。ロッカー係の男が気をきかせたらしい。
「当局のお達しでね。ちょっとでも怪しいと思う者にはそうしてもいいことになっているんだよ」
 男はそういうと、机の上の州知事発行の許可証を顎で示した。
 ジムのどこが怪しく見えるか、については何もいわなかった。いわなくてもわかるだろうと思っているようだった。ジムは携帯用の防臭スプレーが一本消えているのに気づいたが、何もいわなかった。これ以上、無駄な時間をかけたくなかった。予定の便に乗る時刻はとうに過ぎていた。
 車体から激しく流れ落ちる水はきらきらと不思議な光を放ちながら、バスティーボの横にある側溝に流れていった。
 辺りに飛び散っている飛沫の輝きからすると、おそらく、その水には雨降虫の残滓か何かを洗い流したものが混じっているのだろう。グレイハウンドバスのルートにはかつての爆心地に近いルートもあったはずだ。放射能を洗い流す必要があるに違いない。
 ジムはザックを下ろすと、発券売り場を探し、きょろきょろと辺りを見渡した。
 ロボットはバケツを置き、空を見上げ、ため息をついたかと思うと、ジムの方にぶらぶらと歩いてきた。
「出発は一時間後ですよ」ロボットはうんざりした声でいった。
「乗車券を買いたいんだけど」ジムはいった。「確か、前はこの辺りに発券場があったはずだけど――」
「五年も前になくなっていますよ。近所の悪ガキがいたずら半分に壊したんです。乗車券なら私が売りますよ。どこまでですか?」
「コロラド州のサント・ドミンゴ。確かルートにあったと思うんだけど」
「今はありませんね。ただ近くは通ります。六マイルほど離れてますがね、歩けない距離じゃないでしょう。先月からルートが変わっているんです。マクガイア博士が最近あの辺りを支配下におさめたんで」
「なるほど。きみは?」
「ロバート・ジュニア。このバスの運転手です」
 ロボットが手を差し出し、ジムは握手をした。そしてロボットに握手を求められたのは初めてだな、と思った。それは予想以上にひんやりとして、瞬間、ジムは自分が身震いするのを感じた。と、それに気づいたのか、そのロボットもまた同じように身をこわばらせた。かすかにチタンの放つ金属臭がするのをジムは感じた。
「出発は一時間後です」ロバート・ジュニアはくり返した。
「乗って待ってていいかい?」
「規則では――」とロバート・ジュニアはいいかけ、その瞬間、どうでもよくなった。
「いいでしょう。どうせ、もう乗ってるんだし」
 見上げると、既に先客が二人いるのがわかった。
 座席の中ほどに座っていたのは、白髪混じりの短い髪を刈り込んだ腹の出た中年男だった。
 そのすぐ後ろにはショートヘアの若い女が乗っていた。どちらも退屈そうにこちらを見ていた。
 ジムはザックを担いでステップを上った。
「あいつ、おかしいだろう?」いきなり、男が歩み寄ってきて、いった。
「マイケル・ヘッジズた。組立式クローゼットの販売をやっている」
「ジム・シモンズです」
 車内が暑くもないのに、ヘッジズは盛んに汗をかいていた。まるで汗腺が故障しているみたいな物凄い汗だった。ジムはヘッジズの手を握り、その湿った感触に内心顔をしかめた。
 ヘッジズが顎をしゃくって、いった。
「あいつはシェイクスピアを引用する」
「え?」
「シェイクスピアを引用するんだよ。詩人かぶれのロボットだ」
「シェイクスピアじゃなくて、エミリー・ティキンソンよ」
 不意にヘッジズの後方から声が上がった。もう一人の乗客だ。
「我が国の有名な詩人よ」そしてジムに向かって、いった。
「ベッキー・ジャービス」
「やあ、ベッキー」
 そして娘の服装に気づいて、嫌な予感がした。
 ブルーのジャージー――知性の色だ。

(次の章を読む)

(前の章を読み返す)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?