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『カゴ抜けの年』1-1



 
 昨夜から降り続いた雪は、翌朝にはすっかり町を覆っていた。
 降り積もった雪は、驚くほど白く、朝陽を浴びると、ダイヤモンドのようにきらきら輝いた。
 町の家々は総じてみすぼらしかったが、値の張った白粉が、つかの間、盛りを過ぎた女優の老いを隠してくれるように、真綿を思わせる新雪は、この町の秘められた歴史をひっそり覆い隠しているようだった。
「ほーい、ほーい」
 奇妙な掛け声とともに、ひとりの男がやって来た。ぼさぼさした茶色い大ウサギの毛皮を着て、小山のような巨体を左右に揺らし、白い息を吐きながら、熊のように歩いていた。
 汗ばんだ体からは、白い湯気が立っていた。はぁはぁという荒い息と、キュッキュッという雪を踏みしめる音だけが、静まり返った町に響いていた。
 男の腰には荒縄が巻かれ、そこから伸びた縄の先に一台の木橇がくくりつけられていた。
 橇の上には、かなり年季の入ったテレビ受像機が二台と、木製ラジオが一台載っていた。橇の後ろに続く長い一本道には、醜い傷のように、轍が二本ついていた。
 男は、まだ使えそうな家電や家具を探すため、白く覆われた町の中を一軒一軒訪ね歩いていた。
 家々の扉は、大抵白く凍り付いていたため、男は薄汚れた黄色のバックパックにくくりつけた斧を外して握りしめると、力任せに振るった。凍り付いた板から木っ端が飛び散り、キーンという耳障りな金属音が辺りにこだました。
 その家は通りが終わりかけたところにあった。古い木造の家は周辺の家々より幾分大きく、白いペンキは風雪のため剥げかけていた。外壁の羽目板はところどころ浮き上がり、朽ちかけた家の骨格を辛うじて覆っていた。典型的なボロ屋敷――男のようなベテランの略奪者にとって難易度は低い。
 案の定、男が五六回、斧を振るうと鍵は壊れ、その家の扉はあっけなく開いた。男は、突然の闖入者に怯えた生き残りのペットが襲い掛かってくるのを半ば予想しながら、斧を頭上に振り上げたまま、しばらくそのまま動かなかった。
 何も現れない。かといって、油断はできなかった。いつだったか、パニックに陥った六本足のネズミに自慢の耳を食いちぎられそうになったことがあったからだ。さらにもうしばらく待ってから、男は家に上がりこんだ。
 大股で台所を抜け、居間に向かうと、丸太をそのまま使った鴨居の上から凍り付いた人がぶら下がっていた。どうやらこの家の住人らしい。それとも、残像だろうか。最近この辺りでは残像はあまり見られなくなっていたが、まだ生き残りがいるのかもしれない――癪なことに。
 男は凍り付いた人物の顔を見ないように、その頭を向こう側に追いやると――残像を正面から見ると呪われるといわれていた――、力を入れすぎたのか、骨の折れるわびしい音がした。
 男は不自然に折れ曲がった腕から手慣れたように腕時計を外した。SEIKOというロゴが確認できた。こいつはついているぞ、と男は思った。行商人が興味を示すかもしれない。
 男は腰にぶら下げていた布の袋に、その腕時計を大事そうにしまい込むと、さらに部屋を物色した。
 家の住人はそこそこ金持ちだったらしい。既にあらかた略奪されてはいたが、探せばまだ売れるものが見つかりそうだった。二階はどうなっているのだろう、と男は思った。
 そのとき、階上からその音が聞こえてきた。何かが動きまわる音。誰かがいるのだろうか。
 男に緊張が走った。耳がぴんと立ち、毛むくじゃらのたくましい四肢に力が入る。体から白い湯気が立ち上り、大きく膨れ上がった体にアドレナリンがみなぎった。
 男は足を忍ばせて階段を上ると、斧を構えたまま、かつて寝室だった部屋に踏み込んだ。
 
 町に人が住まなくなって、もう六、七年になる。
 男にまだ名前があった頃から、男はその名では呼ばれず、雑品屋と呼ばれていた。あるいは、人によっては、その風貌から単に「大ウサギ」と。
 雑品屋はこの町の廃品業者であり、歴史家であり、そして番人だった。
 町の最後の住人が死んだとき――それは太った中年女で、雑品屋の遠縁に当たった――彼はその遺骸をきれいにたいらげることで、哀悼の意を表するしかなかった。骨一本、皮一枚残さずに食べつくすことによって、その女は雑品屋の体の一部として、地獄行きを免れ、これからもこの世界にとどまることができるのだ。それはこの町に住む最後の人間となった雑品屋の精一杯の手向けだった。
 そしてその後、この町に人が定住することはなかった。やってくるのは、廃墟群が延々と続く日本海側の工業地帯を巡りながら、生き残った人を訪ね歩く感傷的な旅人や、季節ごとにやってくる、調査団という名の政府の隊商だけだった。
 調査団には民間の商人も交じっていて、いい品物があると交換してくれた。
 そこで、雑品屋は日がな一日町を歩きながら、定期的に物々交換できるめぼしいものを探すことにした。
 時にそんなさなか、割れた羽目板の隙間から、こと切れた死体が見えていたこともあった。まだ幼い子どもが布団にくるまったまま、凍り付いていたこともある。しかし、彼がそれに心動かされることはなかった。
 そもそも雑品屋は自分以外生きている子どもを見たことがなかった――もちろん、残像ではあったが。彼はそんなとき、呪いを恐れて目をそらすかつぶるかしていたから、目の端にちらりと捉えるぐらいだった。それでも、子どもが昇天した後の残像を見たという事実に雑品屋はおののいた。
 雑品屋はどこかで、子どものうちに昇天する者はあまり多くないと聞いていた。論理的には子どもだろうが、老人だろうが、昇天に年齢は関係ない――過去世と今世の行いがそれを決定するからだ。
 だが、幼くして昇天し、残像のみをこの世に残す子どもがいるという事実に、雑品屋の心は騒いだ。どんな過去世がその子どもを昇天させたのだろう、今生はまだ徳を積むほどには生きていないというのに。
 雑品屋がカルマを介したこの世界のシステムに思いをめぐらすと、いつも決まって胃がきゅっと縮むのを感じた。彼は普段ひとりでいることに慣れていたが、しかし、自分以外のすべての人間が昇天し、この世界にたった一人で残されるという悪夢は別だった。その可能性を考えると、彼は恐怖で身がすくんだ。
 そんなとき、雑品屋はどれほど荷物や収奪品を抱えていようが、木橇をその場に置いたまま、一目散に町外れの自分の住みかに逃げ帰った。
 そして、旧式のストーブにガンガン薪をくべ、室内を暑すぎるくらい暖めた後、焼酎を入れたボコボコのアルミカップを手に、木製ラジオの前に座った。
 電池は貴重だったから、雑品屋がラジオのスイッチを入れるのは、週に二回と決めていた。それと、このときのように、急に不安に襲われたときだ。
 太い指でチューニングのダイヤルを回しながら、雑品屋はいつものように局を探した。上空にある衛星は24時間放送していることになっていたが、それが事実ではないことを雑品屋は知っていた。
 そりゃ、天狗も眠る必要はあるさ、と気のいい雑品屋は鷹揚に思った。上空にある有人衛星が大きいものではないことを、雑品屋は調査団にいるコックの須山から聞いて知っていた。一人乗りの人工衛星なら、搭乗員の天狗ももちろん、ひとりに違いない。
 ブーンという空電めいた音がひとしきり続いた後、雑品屋は何とかこの日このエリアに割り当てられた周波数にたどり着いた。
「かつて天蓋は――」と衛星を通して天狗が語りかけた。低くくぐもった声はかすれて聞き取りにくく、雑品屋は今日の天狗はハズレだ、と舌打ちをしながら思った。
「――この世界をくまなく覆っていました。人々を天から隔て、真実からわたしたちを遠ざけていました。みなさんは知っていますか? この忌々しいシールドのことを」
 天狗はそういって、地上にいる生き残りの信徒たちに問いかけた。
「知ってるぞ。伴天連帯だ」と雑品屋は得意になって、つぶやいた。
「そう、伴天連帯です」とラジオの中の天狗は続けた。まるで雑品屋の声を聞いたかのように。
「伴天連帯はわたしたちを天から分断し、この地上にわたしたちを閉じ込めるために、悪魔たちが設置しました。わたしたちはそれゆえ、今もこうして鎖で地獄につながれているのです」
 それが369の教えだった。雑品屋は焼酎の入ったアルミカップをストーブの上に置くと、上空の人工衛星から頼りない声で語りかける天狗の次のことばを待った。
「わたしたちは――」と天狗は続けた。「カルマによってこの世界にしばりつけられていますが、しかし徳を積むことによって、そこから脱出することが可能になります」
 天狗はそういって、ひと呼吸おいた。
「そう、昇天することで伴天連帯を越え、天と同一化するのです」
 ローファイ・ミュージックが流れた。この天狗の好みなのだろう。古い東京スタイルだ。
「カルマ落としの時間です」と天狗がおごそかに宣言した。「みなさん、自分のDPを手に祈りましょう」
 雑品屋はストーブの上からアルミカップをつまみ上げ、グリーン色をしたひし形の錠剤を二粒手のひらに乗せると、焼酎とともに流し込んだ。たちまち、胃の辺りが熱くなった。
「寄付はいつでも受け付けています。お近くにあるDPコードを読み取れば、緊急用の中古衛星を購入する費用の一部に充てることができます」
 天狗が気の乗らないセールストークをもごもご言うのを聞きながら、雑品屋は壁の作り戸棚の上に置いてある焼酎ボトルを睨みつけた。DPは明らかに減っている。この調子だと、あと二週間は持たないだろう。これはまずい。非常にまずい。
「次回は三日後です」と天狗が最後まで言い終わるのを待たずに、雑品屋はラジオを切った。
 しんとした部屋の中に、薪が爆ぜる音だけが響く。
 雑品屋は椅子に座りなおすと、懐から手帳を取り出し、鉛筆をなめながら苦労して書いた一年間のスケジュールを見直した。
 調査団が次に来るのはひと月後。どう考えても間に合わない。DPなしで二週間過ごせるだろうか。DPなしで二週間――無理だ。それは雑品屋の想像をはるかに越えていた。
 さあ、どうする、大ウサギ。調査団に宝物を売る前に、DPを手に入れるには闇屋の世話にならなければならない。この近くにいる闇屋は、隣のS市の地下街にいる。
 雑品屋はアルミカップにまた少し焼酎を注ぐと、ぐいっとあおいで目をつぶった。目の裏でさきほど町で見た光景が蘇った。
 
 貴船隆雄は放送――「説教」が正式の言い方だったが、貴船はいつも「放送」だと言い直した――が終わると、マイクのスイッチを切り、狭い船内で可能なだけ足を伸ばした。
 お気に入りのローファイ・ミュージックが流れる中、眼下には消灯下にある日本列島の姿が見えた。昔は煌々とした明かりが列島を彩っていたというが、にわかには信じられなかった。
 旧型の有人衛星、「鞍馬」は軌道上でシップにピックアップされることになっていたが、それは貴船が地上に降りたち、壊れた結婚生活に戻ることを意味した。
「報告はどうした、鞍馬」突然、スピーカーから上司の大天狗、筑波剛信の声が響いた。貴船と同期にして、成績優秀な筑波は、大天狗になってもう一年だ。
「任務、無事完了」貴船は渋々答えた。
「報連相だろう、貴船」と筑波はいやみったらしく言うと、とどめを刺すように付け加えた。
「佳奈美さんから養育費が滞っていると訴えが上がっている」
「くそ」と貴船はダッシュボードを叩いた。
「あの女は散々おれから搾り取っていながら、まだこんなことをする」
「話し合えよ、大人なら」と筑波は言った。
「話し合ったさ」と貴船は力のない声で言い返した。「だが、彼女は全く折れないんだ。おれの経済力のなさをあげつらうだけだ。くそ、この末端の天狗のギャラがいくらか十分知っているくせに」
「転職すればいい」筑波がこともなげに言った。
「転職?」と貴船が素っ頓狂な声を上げた。「今さら天狗を辞めてどこに行けるっていうんだ?」
 筑波はしばらく考えて、こう答えた。「うん、まあ、確かにないな」
 沈黙が続いた。ローファイ・ミュージックのゆるさが間を持たせてくれる。
 貴船は眼下の暗い日本列島を見、そしてきらきら光る上空のオーロラもどきを見つめた。伴天連帯――それはかつてヴァン・アレン帯と呼ばれていたはずだ。
 そう、おれたちは天からこれほど近い場所で、なんの生産性もない会話をしている。これこそが自分たちが昇天と縁もゆかりもない確かな証拠ではないか。
「シベリアの話は聞いているか」唐突に筑波がいった。
「シベリア? 永久凍土の調査か」
「例の発掘作業で進展があったそうだ。ちょっとしたものが見つかったと聞いている」
「へえ」と貴船は気のない返事をした。
「気にならないのか」筑波がとがめるように言い放った。「それがお前の問題じゃないのか。あんたは何にも関心がない。自分にも奥さんにも」
 それはおれが発達障害だからかもしれない、と貴船は思った。だから、佳奈美はおれと寝るのをやめ、筑波、あんたと寝ることに決めたのだろう。
「見つかったのは方舟だ」と筑波はいった。「そう、聞いている」
「まさか」
 貴船は北極圏で天狗たちが融けだした永久凍土を調査していることを聞いていた。先史時代の痕跡を探すというのが表向きの理由だったが、実は残存する化石燃料の試掘をしているという噂だった――天狗としては、昇天の可能性を自ら捨て去るような所業だ。
「どうだろう。おれをそこの作業班に推薦できないだろうか。その、あんたの力で」貴船はそういって、筑波のまじめそうな顔を思い浮かべた。おそらく、筑波はぽかんとした顔をしているに違いない。まるで偶然に自分の知り合いの残像でも見たかのように。
 再び沈黙が続いた。
 貴船は筑波が頭の中でさまざまな可能性を探っているのを感じた。自分が部下になって、筑波がやりにくさを感じているのは間違いなかった。それは元同僚かつ現在は自分の部下である天狗の妻と寝ているという理由だけでないだろう――元々、気が合わないのだ。佳奈美と同様に。
「合流地点まであと8分」筑波が冷静な声で告げる。
「了解」貴船はそういうと、放送用の設備を片づけ始めた。
 ローファイ・ミュージックのけだるい音楽を背景に、貴船は手だけをせっせと動かしながら思いをめぐらせた。
 はたして筑波はシベリアの作業班に自分を推薦してくれるだろうか。作業班はエリート集団ではないと聞いている。科学者たちは皆肉体労働を嫌う。だから、やつらの手足となって働く末端の天狗たちが必要なんだろう――自分のように、日がな一日、地上のぼんくらどもに、決して訪れることのない昇天の日の重要性を説くという無為な仕事をしている天狗のような存在が。
 そして眼下を見下ろし、ふと貴船は思った。もし、下界の住人が自分たちが欺かれているということを知ったらどうなるのだろう。彼らが昇天できないのは、彼らの努力が足りないのではなく、あらかじめプログラムされているからだということを。
 考えるまでもない、と貴船は断じた。それは破滅を意味する。下の連中だけじゃない、自分たちもだ。古代の叡智に基づく官僚組織である天狗連もついに地上に引きずり下ろされ、やがて大海の荒波の中で浮き沈みするような取るに足らない藻屑と化すだろう。
「あと5分」スピーカーから筑波の声が聞こえた。「シベリアの件は考えておくよ」
 前方遥か遠くにシップの光が明滅するのを目の端に捉えながら、貴船は最終段階の準備を急いだ。音楽を切ると静寂が訪れ、自分が本当に独りぼっちなのだという気がした。
 軌道上には多くのデブリが散らばっている。遺棄された衛星や調査用の有人カプセルの類だ。何世紀も前のものもあるという。なかには曰く付きのものもあった。残像がいまだに搭乗員として乗っているとか、残像ではなく、乗っているのは幽霊だとか。
 だが、それももう終わりだ、と貴船は思った。
 おれはここから離れてシベリアで見つかったという方舟を調べよう。もちろん、眉唾じゃないとしたらだが。そして、筑波、あんたはおれの知らないところで思う存分あの女と乳繰り合えばいい。
 シップの明滅する光をぼんやり見つめながら、貴船は不意に自分が以前これと全く同じ状況に遭遇していることに気づいた。だが、いつ? 何年か前、それよりもっと前? いやことによると前世かも。くそ、集中力が続かない。
 貴船が記憶の淵で溺れそうになっているとき、どこかで自分の名前を呼ぶ声がした。
「おい、どうした? 貴船」
 鞍馬はいつの間にかシップの中に収容されていた。ハッチはどうやって開けたのだろう。
「顔色が悪いぞ」
 目の前にいる大天狗、筑波の手を借りて、貴船は「鞍馬」から自分の身体を引き出した。そして筑波の心配そうな表情を見上げながら、再び強い既視感を感じていた。
 ――そう、これは初めてなんかじゃない。貴船は確信した。おれは何度も何度もこの場面を体験しているんだ。

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