『飛び地のジム』エピローグ
ない方がいい(かもしれない)エピローグ
ヴォルフガングはその日、一冊の分厚い封筒を受け取った。
それはハトロン紙に包まれたタイプ原稿の束で、老舗の芸能エージェントの代表としては、いささか手に余る代物だった。
ヴォルフガングは最初それを見て、困ったな、と思った。
確かにうちで抱えているタレントには作家もいる。書いている時間よりもスランプの方がずっと長いノイローゼ気味のSF作家だったが、それは彼が今は亡き知り合いのエージェントからぜひにと頼まれ、引き継いだものだった――そのエージェントは彼の親友で、肺癌だった。
こういうものは専門の文芸エージェントに任せるべきじゃないかな、とヴォルフガングは思った。送り返すにしても、気の利いたアドバイスの一つや二つは必要だろうに。
ヴォルフガングはその原稿の束を持ってみて――十分に重かった――、それからふと思いついて、表面を撫でてみた――紙質はざらざらとした粗末なもので、どこのドラッグストアでも手に入るものだった。
そして諦めると、椅子に深く腰掛け、その一枚目に目を通した――読みだしたら、止まらなくなった。
ヴォルフガングは読み終えると、引出しを開け、特製の煙草(もちろん、違法品だ)を一本、口にくわえた。火をつけて一服、深く肺に届くまで吸い込み――癌にするならどうぞご自由に――、煙を口の中で心地よく転がしてから吐き出した。
いいじゃないか、とヴォルフガングは思った。
今の時代にはいささかナイーブすぎる気もしたが、しかしこの作者は十分真剣だぞ、とヴォルフガングは思った。
ヴォルフガングの見るところ、今の世の中に欠けているのは、その真剣さだった。
ヴォルフガングは決して現代の文学状況に詳しいわけではなかったが、今世の中で何が好まれているかは知っていた――パロディとらちもない知識やガジェットの寄せ集め。オリジナリティなんてものをはなっから無視している文体。
確かに今の時代にはそぐわないかもしれない。しかし、ここには粗削りな文体と破綻しがちなプロットを補って余りある真剣さとストーリーの面白さがあった。
そしてふと、映画学校に通うジムが将来書くであろうシナリオの原作に推薦してもいいな、と思った。
ハトロン紙に殴り書かれた作者の名前はロバート・ジュニアとあった。姓は何だろう、とヴォルフガングは思った。
そのとき、彼はふと部屋の中にブーンという奇妙な音がするのに気づいた。それはヴォルフガングがここにオフィスを構えてから、絶えて久しく聞いたことのなかった虫の羽音だった。
ほどなくヴォルフガングはオフィスの中に一匹の蜂が紛れ込んでいるのを発見した。おそらくデスクの上の飾られた真っ赤な蘭の花に誘われて来たのだろう。それは造花でプラスチック製だったが、そこには芳しい香料がたっぷりふりかけられていた。その匂いに誘われてきたのだろう。
ヴォルフガングはひと目見るなり、その蜂がミュータントであることを知った。異常に膨らんだ下腹部とちぢれた剛毛は狂った遺伝子の証拠だった――ただ、ヴォルフガングが知らなかったのは、その蜂が二重の意味でミュータントだったということだった。
マクガイア博士のカーステレオから間一髪で抜け出た導師は、何度目かの転生を重ねるうちに、一匹の蜂に生まれ変わっていた。
マクガイア博士の死から始まった導師の流浪の旅は、同時に彼をどんどん卑小で取るに足らない生き物に変えていった。それはヴードゥの魔術をしても、どうにもならない避けられぬ運命のようだった。やがてわたしは触手で岩影をこそこそはい回る嫌らしい単細胞生物になっていくに違いない、と導師は思った。
まあ、それもいいさ、と導師はミュータント蜂の中で思った。そこではもはや痛みも悲しみも憎しみも感じないのだから。
しかし、その始源へとさかのぼる旅の途中で、導師は自分が大きな罠に掛かったのを知った――導師はパニックに陥っていた。ちょっといい匂いがしたので、飛び込んでみると、そこは出口のない密室で、どこにも逃げ道はなかった。しかも(信じられないことに)蜜すらない!
もうおしまいだ、と導師は思った。既に彼には次の新しいものに転生するだけの余力はなかった――導師の思惑にも関わらず、実のところ、一匹の蜂で終わるのが彼の定められた運命だったのだ。
しかし、ヴォルフガングはロバート・ジュニアの書いたその物語に感心していたところだったので、その蜂を逃してやるのにやぶさかでなかった。
ロバート・ジュニアの物語は一体のロボットについての話だったが、その冒頭にはアメリカの一九世紀の詩人、エミリー・ディキンソンの詩が引用されていた。
ただ一枚のクローバーの葉が
空から落ちてきた蜂を
救ってやった
それは私のよく知っている蜂
上の空と下の空
そのつらなるところ
周囲から寄せる大波が
蜂を掃き落としてしまったのだ
だがものうげに震える葉は
無責任そのもの
ふいと一吹きの風が取って代ると
まるはな蜂はもういなかった
草原の中で洩れ聞いた
この痛ましい出来事は
「悲しみ」の放浪さえも
蜜蜂から取り去ってはくれなかった
ヴォルフガングは窓を開けると、すぐに閉まらないように片手で窓を押さえた。
一陣の風が室内に吹き込み、デスクの上の原稿を飛ばした。ばらばらと顔にかかる白髪まじりの髪に目をぱちぱちさせながら、ヴォルフガングは絶望のとりこになって室内を飛び回っている蜂を探した。
蜂はデスクランプの傘を風車に見立て、無駄な攻撃をくり返しているところだった。
「さあ、行け、行くんだ」とヴォルフガングは窓を押さえたまま、その蜂に向かって叫んだ――馬鹿だな、そっちじゃない、こっちだぞ、と心の中で舌打ちしながら。
蜂はなおも狂ったようにぶんぶんデスクの上を飛び回っていたが、やがて窓から入ってくる新鮮な風に気づいたのか、二、三度ヴォルフガングの近くまで近づいてくると、大きな弧を描き、吸い込まれるように窓の外に飛び出していった。
蜂が飛び去るのをしばらく見送った後、ヴォルフガングは窓を閉めた。そして、床に落ちた原稿を拾い集め、一つに重ねると自分のデスクの上に置いた。
さてどうしたものか、と彼は思った。
原稿を包んでいたハトロン紙に書かれていたのは作者の名前だけだった。そこには住所すらなかった。
なぜ住所がないんだ、と思った。
ヴォルフガングはロバート・ジュニアというその奇妙に角張ったサインをじっと見つめて、この人物と連絡を取るには、一体、どうすればいいのだろう、と思った。
(「飛び地のジム(完全版)」完)
文中に引用されている詩は全て、
国文社刊『エミリ・ディキンソン詩集 自然と愛と孤独と』(中島完訳)
より採りました。
(前の章を読み返す)
(物語の最初から読む)
(付録)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?