見出し画像

『飛び地のジム』第二部 10

10

 ハマーシュタインが目を覚ましたとき、医師のアーノルド・ブルンヴァン博士はちょうど回診に出ているところだった。
 ハマーシュタインはベッドの上でぼんやりと天井を見つめ、ここはどこだろう、と思った。格子で区切られた白いタイル。まるで手動式カメラで慎重にピントを合わせているように、行きつ戻りつ、ぎごちなく焦点が合ってくる。
 最初に目に入ったのは傍にいた美しい女性だった。
「きみは?」と尋ね、とっさに思い出した。ヤスコ・メイ――オルベラ通りに住む女優にして組合活動家だ。
 すると、わたしは発作を起こしたのだ。自分でも気づいてはいたが、このところ発作と発作の間隔が次第に短くなっていた。となるとわたしは仕留められたということだ。いつかはこんなことが起こるのではないかと思っていたんだ。
「思い出したみたいね。本当にびっくりしたわ」
「ここは?」
 ハマーシュタインはきょろきょろと周りを見渡した。見覚えがある。
「ブルンヴァン博士のクリニック。ドナヒューという人が運んでくれたの。今、彼はブルンヴァン博士と話してるわ」
 となると、トリフはドナヒューに連絡をとってくれたんだな、とハマーシュタインは思った。ありがたい。
「世話をかけたね。この埋め合わせは必ずする。あんたはわたしの命の恩人だからな」
「いいのよ」
「いや、よくない。あんたはわたしの命の恩人だ。あんたは世界有数の大富豪を救ったんだよ。それを忘れてもらっちゃ困る」
 ハマーシュタインはそういうと、サイドテーブルにあるクリネックスを手に取り、勢いよく鼻をかんだ。こめかみがひりひりした。
 人前で発作を起こしたことはこれまでなかった。注意に注意を重ねていたのだ。しかしこのところ、調子は下り坂だった。まるで誰かの人生のように。わたしはそろそろ引退すべきなんだ、とハマーシュタインは思った。それにしても、つい先月、発作の間隔が短くなってきたのを気にする彼に、主治医のブルンヴァン博士は全く異状がないといっていたのだが。あのヤブ医者め。
 ブルンヴァン精神病院はコロラド州サント・ドミンゴにあった。
 かつて創設者ドナルド・ブルンヴァンがこの地に自分のクリニックを作った頃、サント・ドミンゴはまだ草一つ満足に生えていないたんなる田舎町だった。現在のサント・ドミンゴも都会とはいえなかったが、クリニックが毎年もたらす莫大な金によって、少なくとも財政的には中くらいの規模とみなされるぐらいにはなっている。
 初代院長のドナルド・ブルンヴァンは、まだ精神科医がイカサマ医者と見られていた時代にこの地にやってきて、民間療法と科学医療の融合という正真正銘のイカサマで財を成した。
 ドナルドは医者の前にやり手のセールスマンであり、そして、その点ではピカ一の腕を持っていた。
 ブルンヴァンはもはや家族の手に負えなくなった精神異常者を郡内からかり集め、彼らにロボトミーを施すことで、家族の負担を軽減し、その代わりにいくばかりかの罪悪感を与えてきた。
 時代が変わり、ドナルドの孫に当たるアーノルドが院長を継いだどこかその辺りで、ブルンヴァン精神病院は飛躍的な発展を遂げる。
 アーノルド・ブルンヴァン博士は医師であると共に上院議員であり、そして祖父に劣らず商才に長けていた。政界と財界に築き上げた太いパイプは、ブルンヴァン精神病院を単なる田舎町にある姥捨山から、精神的に不安定な金持ちや芸能人が半ばお忍び的に訪れる保養所めいた施設に変えていた。
 クラーク・ハマーシュタインがここの患者となったのも、その関係だった。かねてから不眠症に悩まされていたハマーシュタインに、国連議長のポール・マイヤーがいい医者だよ、と紹介したのが、アーノルド・ブルンヴァン博士だったのだ。
「あんたは働きすぎだよ」国連議長がいった。
「ユダヤ人なら、安息日ぐらいは休まなくちゃいかん。じゃなかったら、あのトリフとかいうロボットに任せたらいい。あんたがロボットを信頼していないというのは驚きだな。この時代に。世界的な企業のトップともあろう者が」
 ハマーシュタインは口の中でもごもごといった。
「おそらくそれもわたしの強迫観念からだろう。わたしは誰も信用できないんだ。ロボットもその他の人間も」
 とりわけあんたがな、とハマーシュタインは心の中でつぶやいた。
 ブルンヴァン博士の診断によると、ハマーシュタインは軽い抑鬱性神経症ということだった。その割にはとても軽いなどとはいえない気分だったが。
「軽い睡眠薬を処方しておきましょう」ブルンヴァン博士はいった。
「よく眠れるように。神経的なザラザラがとれるように」
 ザラザラか、とハマーシュタインは思った。
 結局、そのザラザラがとれるようにと、ハマーシュタインは半年もの間、ブルンヴァン博士の処方箋を実践してきたのだ。
 その挙げ句がこうだ。ハマーシュタインは苦々しい気持ちでいっぱいだった。
「今日はなん日なのだろう?」
 一体、どれだけの間、自分が意識を失っていたかわからないことがいまいましかった。トリフがうまくやってくれているといいのだが。
「大変ね」とヤスコがいった。
「え、何がだい?」とハマーシュタイン。
「その肩に世界有数の企業が乗っかってる人間の気持ちってどういうものかしらって、考えていたのよ。想像できないわ」
 ハマーシュタインは珍しいものでも見るように、ヤスコを見つめた。
「わたしくらいトップに上りつめていると、わたし自身が直接手を下すなんてことはあまりないんだ。企業のトップなんてものは閑職さ。もちろん、昔は違ったがね。わたしが一番最初にこの商売に手を染めたときは――」
 そういって、ハマーシュタインは口を閉じた。何かがおかしかった。自分がこの仕事を始めた当初――そのときのことが全く思い出せない。
「わたしがこの仕事を始めたときは――」
 大声を上げながら必死で記憶の底を探ってみるが、そこは深い霧がかかったように、おぼろにかすんでいた。手を伸ばしてつかもうとしても端から逃げていく。そんな得体の知れない何者かを追っているみたいだ。
「どうかしたの?」
 すぐ横でヤスコが尋ねる。
 ハマーシュタインは突然、自分がパニックに陥っていることに気づいた。
 こめかみがズキンズキンと脈を打ちはじめ、口の中が乾いてくる。膝ががくがくして、吐き気がしてきた。ちくしょう、わたしはまだ完全に回復してないんだ。
「ねえ、大丈夫なの?」ハマーシュタインの様子に気づいたのか、ヤスコが心配そうに尋ねた。
「具合が悪そうだわ。動いちゃいけなかったのよ。すぐにブルンヴァン博士を呼ぶわ」
 ヤスコが病室を出ていく気配を感じ、ハマーシュタインは叫んだ。
「待ってくれ」
 ブルンヴァン博士はやめてくれ。あの男じゃなく、もっとちゃんとした医者を呼んでくれ。彼はそういいたかった。
 しかし、ヤスコは既に病室を出ていた。
 ハマーシュタインは自分が独りぼっちにされたと感じた。そしていつか自分がこの状況と非常に似通った場面に遭遇していると思った。ずいぶん小さいときに。多分、大脳皮質の最も古い部分に隠されている何かがそう教えているのだろう。
 すーっと意識が引いていくのがわかり、目の前がレンズの絞りが小さくなっていくように、急激に視界が狭まってきた。

 そこは暗かった。通風孔があるのだろう、絶えず風が吹いている感じだ。すぐ近くでポタンポタンと水滴がしたたる音がする。
 彼は歩いていた。
 スニーカーはぐっしょり濡れ、足を踏み出すごとに靴の中に汚水がじわじわしみだしてくる。明かりはなく、彼は一足歩くごとに、ぐじゅぐじゅになったスニーカーの底でレールの感触を確かめながら、先を進んだ。
 自分がなぜこの場所を歩いているのか、彼にはわからなかった。
 どこかに向かっていることだけは確かだった。それを自分が知っているのも。
 そう、ここは地下鉄の構内だ。鈍い光を放つ蛍光管がブーンという耳障りな音を響かせながら頭上にぼんやり輝いていた。
 自分は死ぬのだろうか、と彼は思った。
 チベットの死者の書にあるように、やがて様々な光がわたしを恐れさせるに違いない。それと同時にわたしにとって心地よいと感ずる光も。だが、そっちを選んじゃいけないんだ。そうさ、知っているぞ。自分の業を考えれば、わたしが今度生まれてくるなら、最悪の子宮に違いない。きっと貧民窟で生まれ、オギャーと生まれた途端に、汚らしいぼろ布にくるまれ、即座に売り飛ばされるに違いない。もしも、買い手がついたとしてだが。
 両側から頬を切り裂くような強い風が通り抜けた。
 彼はぎゅっと身を縮ませた。途端に足もとがおぼつかなくなり、彼は二、三歩たたらをふんだ。肩の辺りに食い込むような鋭い痛みを感じた。
 不意にまばゆい光が彼の顔を照らし、網膜を焼く鈍い痛みに彼は顔を歪めた。
 いよいよ来たな、と彼は思った。わたしの勇気が試されるときが。さあ、来い。わたしは正しい子宮を選んでやるぞ。
 しかし、その明かりはヘルメットに取り付けられたライトの光だった。
「テイラー、傾いているぞ。しっかり持て」
 四角い顔の真面目そうな男が、こちらを振り向いて顔をしかめた。
「ああ」と彼はいって、咳き込んだ。
 べたつくような空気が肺を刺激する。下水が醗酵しているようなものすごい悪臭が辺りに漂っていた。
 彼は自分が何か細長いものを担いでいるのに気がついた。プラスチック製でつるつるしていて、しかもひどく重い。
「あんたがそんなに体が弱いとは知らなかったな」前にいた男が不満そうにいった。
 男はその物体の前半分を担いでいた。後の半分が自分だった。我々はチームなんだ、と彼は思った。二人でひと組の荷物運搬人だ。
「昔、小児喘息だったんだ」と彼は愚痴っぽく弁解した。
「気管支が弱いんだ。特に空気の悪いところが苦手なんだ」
 それに暗いところも、と彼は思った。
 男は何もいわず、ただ、不満そうに鼻を鳴らしただけだった。
 訂正、と彼は思った。我々は確かにチームだが、あまり仲がいいとはいえない。
 二人は暗闇の中を黙って歩きつづけた。パシャンパシャンと水たまりを踏みつける音が地下鉄構内にこだまする。
 不意に彼は自分がどこに行こうとしているのかを思い出した。
 カタコンベだ。カタコンベ――地下埋葬所。台本には確かそうあったはずだ。
 ニューヨーク地下鉄は南北に広がっている。もちろん、昔の話だ。今では地下鉄は廃止され、このように見捨てられた廃墟と化している。ここにいるのは、進化の階段からはじき飛ばされたミュータントの鼠や腹をすかせたゴキブリどもだ。それに、そう、我々もそうだ。
 いつからか我々は悪鬼トロールのように、地下に巣喰うちっぽけでけむくじゃらな動物に成り下がったんだな、と彼は思った。
 さまざまな猥雑な言葉がスプレーで一面に書きなぐられている薄暗い構内を二人は黙々と進んだ。
「テイラー」と前の男がいった。
「この仕事が終わったら、おれば引退するぞ」
「引退? 引退してどうする」
「モンタナに行くのさ」
「モンタナ?」彼はオウムのようにくり返した。
「魚釣りをして暮らすんだよ。おれは漁師になるんだ。ちくしょう、こんなことには耐えられん。おれは理想家じゃないが、これはあまりにひどすぎる。これは最低の仕事だぞ。そうは思わないか」
 そういいながら、四角い顔が訝しげに彼を見つめた。
 え?  何だろう、と彼は思った。彼はここでいうべき台詞が思い出せをかった。
「ああ」と答えて、男の表情をうかがう。やはり、違うようだ。
 男の顔が戸惑いから鈍い怒りに変わりつつあった。
「そう思う。いや、違ったかな」
 そのとき、まばゆい光が目の前で破裂し、一瞬、彼は何が何だかわからなくなった。まぶしさにたじろぎ、彼は無様によろめいた。肩に載せたケースがずり落ちて、ドスンという音と共に下に落ちた。
「カット!」ビル・ホークナーの胴間声が地下鉄構内に響いた。
「テイラー、なっちゃいないぞ」
 ホークナーは気難しそうな顔をして、彼を見つめた。
「なぜ、本番前までに台詞を入れとかない。なぜ、そんな簡単なこともできないんだ」
 彼は耳を伏せた子犬のようにうなだれた。従順の姿勢。屈伏のポーズ。
 しかし、それはポーズなどではなかった。ホークナーのいう通りに演技できない自分を彼は心の底から恥じていた。
 ウィリアム・ホークナーは古い知り合いだった。
 まだ彼が少年の頃からホークナーは彼のヒーローだった。
 ホークナーに最初に会ったのは、もちろん、映画館でだった。湿ったマリファナの匂いと煙が立ちこめたホールで、自家製のポップコーンを頬張りながら、彼はホークナーの作品を初めて観たのだった。

 それは一種の侵略物で主人公は火星のチタン鉱山の所有者にして鉱山技師。映画では人嫌いの世捨て人として描かれている。彼は鉱山の近くに設置した廃プラスチック製の小屋で生活をしている。なぜ隠遁者のような生活をしているかということは最後まで明かされないが、バーボンもどきの合成酒とエミリー・ディキンソンの詩集だけをよすがに暮らしている不機嫌で孤独な男ということだけはわかる。
 ある日、男は自分の鉱山でポータブル掘削機を使っている最中、偶然、地中から不思議な物体を掘り当てる。それは長さ二メートル、幅一メートルほどの四角いケースで、かなり古いものだった。多分、絶滅した火星の先住民族が残した化石か何かだろう。そう考えた男はその物体を小屋に持って帰り、何とかこじ開けようと試みる。
 一方、その頃、地球では不可解を現象が次々と起こりはじめていた。世界各国で生まれた赤ん坊は肌の色は違っても、皆同じ顔をしていた。死に瀕した老人はことごとく息を吹き返し、世界の人口は急速に飽和状態へと向かっていった。
 鉱山技師はその古いケースをこじ開けることができなかった。それは未知の物質でできているらしく、どんなドリルも歯が立たず、切断用レーザーも役には立たなかった。
 後にわかるが、その奇妙を物体は地球から何光年を隔てた、ある惑星からやってきた生物の生命維持装置だった。装置は地中にある間、中の者を仮死状態におくが、何らかの物理的作用が加えられると、中にいる者の意識を活性化させるべく活動を開始するようプログラムされていた。
 そしてその鉱山技師はそのプログラムを作動させたのだった。
 そこで映画は終わる。何の前触れもなく。唐突に。

 当時、十七才だった彼はこの映画を真剣に受け止めた。そしてある日、彼はぷいと家を出ると、ホークナーを尋ねた。
 ホークナーはその頃、ジョージア州アトランタのある宗教コミューンの芸術家専用アパートで暮らしていた。ニューハリウッドを目指しながらも、ニューハリウッドを軽蔑する振りをしていた。
 少年の彼がホークナーの元を訪ねたとき、ホークナーはちょうど次回作の構想を練っているところだった。壁全体にところ構わず貼りつけられた絵コンテ。そして自分の処女作についての好意的な批評の切り抜き。そして未編集のフィルムの入った空き缶。ホークナーは雑多なものに囲まれ、既に巨匠気取りでいた。
 少年はホークナーに、自分がいつか映画を撮りたいこと、振るに足るテーマを探していること、を包み隠さず話した。
「映画なんて、クソだよ」とホークナーはいった。
 彼は自分が聞き違えたかと思った。
「映画は娯楽にすぎない」とホークナーは続けた。
「きみはおれの作品を単に娯楽作品と思っているかもしれないが、それは違うぞ。あそこには真実が描かれているんだ。真実だ。あの作品には閾(しきい)下に伝わるようメッセージが込められているんだ。たとえば、主人公が使っていたあのドリルだ。あのドリルが岩を砕く音。それはいつも一定のリズムで“目覚めよ、目覚めよ”と観客に訴えているのさ」
 彼は目を丸くした。と同時に、部屋にマリファナの匂いがこもっていることをぼんやり意識した。
「おれは自分の成すべきことをやっているのさ」とホークナーはいった。
「おれは自分の作品でそれをやっているんだ。みんながこの真実を知らなくちゃいけないのさ。だからおれは映画というおれにとっちゃ、クツみたいな媒体を通して、それを伝えてるんだ。わかるか?」
 そしてホークナーは自分より五つと年の離れていない田舎者の少年に向かって、指を突きつけた。
「きみも成すべきことを成すんだな」とホークナーはいった。
「おれは好きでもない、このジャンルであくせく働いている。やがておれは成功するだろう。だが、おれにとっては個人的な成功なんて意味ないんだ。きみは――」
「テ、テイラーです。エルドン・テイラー」少年はどもりながら答えた。彼はホークナーに圧倒されていた。
「テイラー」とホークナーはいった。
「得意な分野はあるか。その、映画で成功したいという取るに足らない想像力の他に」
「生物学かな」と少年は考えながらいった。確かテストで一番得点がよかったのは、生物学だったはずだ。
「いい学問だ」ホークナーはつぶやいた。
「また真実を語るには絶好の分野でもある。テイラー、きみも――」
 そのとき、ドアにノックの音が聞こえた。
「ビル、わたしのポットを勝手に持ってかないで。ラリるんなら、自分のポットでラリってよ」
「今、客が来てるんだぞ」ホークナーは叫んだ。
「どんな客よ。どうせおっぱいの大きい下品な娘よね。知ってるわ」
「真実を語る女優だ」とホークナーは少年に説明した。
「おれの映画に出ている。ほんの端役だがね。だが、端役でも真実を語っているということに変わりがないんだ。人にはそれぞれ役割ってものがあるんだ。もちろん、テイラー、きみにもだ」
 ホークナーの部屋を出るとき、少年はその真実を語る女優の姿をちらっと見たが、彼女自身、胸の大きい女性だったのに驚いた――少年はその女優を見ても、あの映画のどこに出ているのか全然わからなかった。おそらく、ホークナーのいうように、ほんの端役なのだろう。
 そして少年は生物学の勉強の傍ら、ホークナーの作品を見つづけた。ホークナーが体よく自分を厄介払いした――さらに将来、自分のライバルになるかもしれない人間を舌先三寸で丸め込んだ、という考えは全くといっていいほど、彼の頭に浮かぶことはなかった。ホークナーが出世階段をどんどん駆け上がっていくのを見ながら、少年は自分の果たすべき役割について考えつづけた。
 そして十数年を経て、ついに彼はやり遂げた。自分の役割を発見し、なし遂げたのである――歴史上初となる、一切の核兵器を無効化する画期的な生物を作り上げたのだ。
 雨降虫と呼ばれる疑似生物の創造主。それが彼、エルドン・テイラー――体が弱く、小さな映画好きの少年の最終的な姿だった。

「テイラー」とホークナーはいった。
 彼は卑屈な上目遣いでホークナーを見上げた。ビル・ホークナーは彼が少年の頃とちっとも変わっていなかった。少なくとも、彼には全く変わっていないように見えた。神々しく、パワーに溢れたB級映画の巨星。ホークナーは今だに健在だ。
 そしていろいろあったが、今、自分は帰ってきたんだ、と彼は思った。映画の世界に。憧れの世界に。師であるホークナーの元に。きっとわたしは勇気をもって正しい子宮を選んだのに違いない。
「次回作の打合せをしよう」ホークナーがいった。
 彼の心の中に喜びがこみ上げてくる。我々はチームだ。仲間なんだ。
 彼は子どものように大きくうなずいた。

 ヤスコ・メイはブルンヴァン博士のオフィスに走った。
 ヤスコは走っているうちに、この病院は不自然なほど人間が少ないのに気がついた。
 まるでどこかの研究室のよう、とヤスコは思った。
 ブルンヴァン精神病院の廊下には色とりどりのラインが引いてあり、それぞれ図示されたラインに沿っていけば、目的の場所に行けるようになっている(おそらく訪問者のために)。
 しかし、ヤスコにはこのラインのことごとくが意味あるものとは思えなかった。第一、これを見て、誰かがどこかに行くなんてことがありえるだろうか。
 ヤスコは以前、友人が入院した精神病院に見舞いに行ったことがある。
 そのとき、ヤスコはちょっとしたショックを感じたものだ。
 ジョージ・A・ロメロの映画を思い出したのだ。ゾンビ映画を。
 そこは開放病棟だったが、強い鎮静薬を打たれた患者たちは、まるで何か捕まえるものがあるかのように、ある者は両手を前に突き出し、ある者はただ床を見つめながら、ただあてどもなく歩いていた。
 ヤスコはそのとき、友人の入っている個室を目指していたのだが、彼らの傍を横切るとき、一斉に全員の目が自分に注がれるのを感じた。
 ヤスコほそのとき、はっきり怖いと思った。
 その病院は少なくとも清潔だった。しかし、ヤスコはその見た目の清潔さと相反するうす汚さ(おそらく人間性を無視され続けてきた末に獲得した性質)をその患者たちに――悪いと思いながらも――感じたものだった。
 しかし、ここにはそれすらない。感情を喚起するものが、ここには一切なかった。まるでこの病院はロボットを看護しているように見える、とヤスコは思った。
「廊下を走らないでください」看護用ロボットが一台、ヤスコの前に立ちふさがった。
「ブルンヴァン博士はどこ? ブルンヴァン博士を呼んでちょうだい」
「ナース・コールはどうしたんです? 博士は現在、休憩中です。休憩中には呼び出せないようになっています」
「そんな」
 そのとき、開いているドアがあった。
 ヤスコは室名を見て、その病室が重要患者とみなされている者が収容されている部屋だと知った。
 ヤスコは自分でもわからないまま、吸い込まれるように病室に足を踏み入れた。ロボットが慌てて後を追ったが、ヤスコはロボットの鼻先でぴしゃりとドアを閉めると、すぐに振り返ってロックした。ロボットがわめく声が外で聞こえた。
 ひとりの黒人の男が眠っていた。いや、そうだろうか。その男は目をしっかり見開いて、こちらを見ているように見えた。しかし、その目は何も見ていなかった。何かを見ているようで、実際には何も見ていない。
 あのときと同じだ。いや、あれよりずっとひどい、とヤスコは思った。
 その黒人は人並外れて大柄のようにヤスコには思えた。手足の長いバスケットボールの選手のような体型。短く刈り込まれた髪。きらきら光る黒い瞳。このような状態になる前は、おそらく陽気な人柄たったのだろう。
 ヤスコは男の顔の前で、軽く手をかざしてみた。何の反応もない。男の瞳は何ものをも捉えていなかった。ただ、呼吸のみが規則正しくくり返され、ヤスコは手に男の生温かい呼気が手に触れるのを感じた。
 これは死よりも悪い、とヤスコは思った。
 もし、この黒人が遺体でここに置かれていても、自分はそれほどショックを受けなかったに違いない。ここにあるものは、おそらく人間性の剥奪と呼ばれるものだ。
 ヤスコは黒人の節くれだった手を見つめた。職人の手だわ、とヤスコは思った。労働者の手。もしかしたら、この男は旋盤工だったのかもしれない。旋盤作業の際に、手から弾けた部品の一つが脳を傷つけたのかもしれない。脳の一番外側の部分に小さな金属の破片が残っているのかも。
 そのとき、ヤスコはベッドの横にネーム入りのタグがぶら下がっているのに気づいた。
 ――レイ・カスター。認識コード1298。
 不意に背後で声がした。
「何をしてるんです?」
 はっと振り向くと、そこにブルンヴァン博士がいた。いつのまにかドアの鍵を開けていたらしい。おそらく暗唱番号を覚えていたのだろう。
「ここで何をしてるんです。ここはあなたがいるところじゃないでしょう」
「ドアが開いてたもので」ヤスコは弁解した。
「ちょっと覗いてみただけよ。あの黒人の人は何を見ているのかしら」
「その人は何も見ていませんよ。彼は脳に損傷があるんです。知覚ルートが遮断されているんですよ」
 ブルンヴァン博士は苛々しているように見えた。
「ハマーシュタインさんのことでいらしたんでしょう」
「また発作を起こしたの。先生を呼びに行くところだったのよ」
「ちくしょう」とブルンヴァンはいった。
「あの患者は事故に遭ったの?」
「いえ、ここはね。いわば独房なんですよ。ここは連邦刑務所から委託された犯罪者病棟です。終身刑により、あの男は永久に自分の中に閉じ込められたんです。現実の独房に入れるよりずっと安上りにね」
「火星から?」
「そう、彼は連邦刑務所から送られて来たんです」
「何をしたの?」
「詐欺ですよ。タチの悪い詐欺です。イザール人を騙したのです」
「聞いたことがあるわ」
「ああ、そうでしょう。当時はちょっとしたニュースになったものです。この男が仕出かしたことで、イザール政府と地球が緊張関係になったのです。全く信じられないことですな」
「あなたがやったの?」
「え?」
「この人をこんな状態にしたのは、あなたなの?」
「仕事ですからね」
「最低の人間ね」
 驚いたことに、ブルンヴァン博士はその言葉に傷ついたように見えた。
「いいですか、犯罪者は罰しなければなりません。いずれにしても、誰かが、くそ、あなたのいう最低の仕事をしなきゃいけないんです」
「行きましょう」ヤスコはいった。ひどく冷淡に。まるで気の利かないボーイをあしらうかのように。
「ハマーシュタインさんが待ってるわ」
 ヤスコはそういうと、出口に向かった。息が詰まりそうだった。
「あなたはわたしを軽蔑してるんでしょうな」ブルンヴァン博士はヤスコの後を追いかけながら、卑屈そうにいった。
 ヤスコは何もいわなかった。ただ黙って振り返ると、ブルンヴァン博士の顔をじっと見つめた。何もいわなくても、顔の皺ひとつ動かし、ほんのわずか眉をひそめるだけで、彼女は十分に人を非難することができた――効果的に人を傷つけることができた。
 ブルンヴァン博士は一瞬、恥じ入ったように顔を伏せた。顔から火の出るような罪の意識を感じながら。ブルンヴァン博士は知らなかったが、ヤスコ・メイはもちろん、女優だった。

「前世だよ」とハマーシュタインはいった。
 ブルンヴァン博士に鎮静薬を打たれながら、ハマーシュタインはがなりたてた。
「わたしは前世を見ていたんだ。新しい子宮に入る前の世界をかいま見たんだ。チベットの死者の書は正しい。わたしは正しい子宮を選んだんだ。嫌な煙った赤い光に怯えることはなかった。そのせいで今、わたしはここにいるんだ」
 譫妄性分裂病、と勝手な診断を下しながら、ブルンヴァン博士はハマーシュタインの脈博を測り、血圧を調べ、脳波をチェックした。特に異状はなかった。少なくとも記憶を取り戻しつつあるということ以外は。
 ブルンヴァン博士は手慣れた動きで、患者を扱いながら、目の端でスツールに腰掛けているヤスコを盗み見た。
 ちくしょう、あの女はわたしを見ている、とブルンヴァン博士は思った。ハマーシュタインに何かしやしないかと思って、わたしを見張ってるんだ。
「あるいはそれはあなたの来世かもしれませんな」ブルンヴァン博士はハマーシュタインをベッドに寝かしつけながら、鷹揚にいった。
「もしかすると、あなたにはサイオニックな才能がおありなのかもしれない。この人生が終わった後、ハマーシュタインさん、あなたはひとりの俳優として新たな人生を送られるのかもしれない」
「それについて、考えてみたことはなかったな」ハマーシュタインはのろのろといった。「もちろん、そういう可能性もある。しかし、どうだろう、博士。サイオニックな才能というのは、先天的な――」
 ブルンヴァン博士は目を細めて、ハマーシュタインを見つめた。早くも鎮静薬が効いてきつつあるようだ。
 突然、ハマーシュタインはベッドの上に起き上がると、ブルンヴァン博士を指さし、叫んだ。
「――あんた、かつらだろう!」
 ブルンヴァン博士は飛び上がりそうになった。
「まさか。これは自毛ですよ。ハマーシュタインさん、あなたは疲れているんです。過度な労働によるストレスが精神のバランスを失わせたのです」
 そしてヤスコに向かって、
「軽い脳震盪ですよ。おそらくあなたの部屋で倒れた際に、頭を強く打ったんですな。脳波には異状はありませんから、二、三日静養すれば元気になるでしょう。何かあったら、すぐ連絡してください」
 ブルンヴァン博士は努めて明るくそういうと、ヤスコの視線を避けるように、こそこそと病室を出た。
 不自然なほど明るい廊下に出て、後ろ手にドアを閉めると、ブルンヴァン博士は壁にもたれ、深いため息をついた。脇の下が汗でべっとり濡れている。
 彼は思い出している、とブルンヴァン博士は思った。それが意味していることが恐ろしかった。あの手術は確かに成功していた。しかし、次第にハマーシュタインの記憶が蘇りつつあるのも事実だった。てんかんの発作めいたものは、二つの意識のせめぎあいのために起こったに違いない。
 ハマーシュタインは徐々に思い出している、ともう一度、ブルンヴアン博士は思った。ああ、神様。一体、わたしたちはどうなるんでしょう。
 そして気を取り直すと、ポール・マイヤーに連絡を取らなきゃならない、と思った。国連議長にこの仕事を押しつけるのだ。何といっても、わたしは一介の医者にすぎない。それにこれは元々マイヤーが計画したことだ。
 ブルンヴァン博士は自室に戻ると、キャビネットからワイルドターキーのボトルを取り出して、デスクの上に置いた。
 子どもだましの玩具だ、とブルンヴァン博士は思った。しかし、誰だってストレスを感じているときには、ちょっとした気休めが必要というものだろう。
 特にあんなことがあった後じゃな、とブルンヴァン博士はため息をついた。全く、今日はとんだ厄日だ。しかし、ハマーシュタインのあの寝言で、あの女は何か勘づいただろうか。わたしがかつらだということ以外に。
 ブルンヴァン博士はワイルドターキーのボトルを両手で握ると、力を込めて上部をねじった。パカッという問の抜けた音と共に、中の緊急映諸装置が飛び出してくる。
 これがホットライン用の回線だった。国連議長のオフィスの直通回線だ。優先コードなしで、スイスにあるマイヤーのオフィスに瞬時につながる。多少、ばかばかしい気持ちになるのさえ我慢できれば、まあ、使える装置だ。
 ブルンヴァン博士がワイルドターキーに話しかけると、瞬時にデスクの上のモニターが活性化された。
 秘書だった。ブルネットの整形美人だが、もちろん、マイヤーの愛人に違いない。
「ブルンヴァン博士だ。議長はいるかね?」
「ああ、博士。一歩遅かったですわ。議長は今少し前にここを出たところです」
「いないって?」
「ええ」
 もちろん、いるはずだ。ブルンヴァン博士はポール・マイヤーの日課を知っていた。あの俗物のマイヤーはいつもこの時間、教則本を前に、バイオリンの練習をしている。
「いいから出してくれ。これは緊急だ」
 秘書は困った顔をすると、「少々、お待ちください」といった。
 ほどなくして、うんざりした顔でポール・マイヤーが現れた。
「博士。わたしはこれでも忙しいんだぞ。いちいちあんたの愚痴を聞いている暇はないんだ。税制面で連邦政府に口利きしてやったことをあんたも忘れたわけじゃあるまい」
「ろくに弾けもしないバイオリンに無駄な時間を費やすことがかね」
「いいか、博士」マイヤーが気色ばんだ。
「国連議長、今、わたしの病院にハマーシュタインがいる。発作を起こしたんだ。わたしは前にもあんたにいったはずだ。危険だって。彼は思い出しているんだ」
 ポール・マイヤーは一瞬、押し黙った。頭の中で素早く自分の利益になることを計算しているに違いない、と博士は思った。こすっからいユダヤ人め。
「何か意味のあることをいったのかね」マイヤーが眉を上げていった。
「前世を思い出したそうだ。チベットの死者の書の注釈付きで」
「前世だって?」
「撮影所のことを思い出したらしい。多分、テイラーの記憶が一時的に蘇っているんだ。今のところ、混乱したものでしかないと思うが。フラッシュバックみたいなもんだろう」
「フラッシュバック?」
「クスリ漬けの患者が見る夢だよ。それとも、もしかすると、一時的ではなく、完全に記憶を回復しつつあるのかもしれない」
 きっとそうだ、とブルンヴァンは思った。
「それは確かなのかね。あんたがやったあのクスリはどうしたんだ? あれは記憶の蘇りを阻害する働きがあるんじゃなかったのか?」
「ただの睡眠薬だよ。彼は眠れないといってたんだぞ」
 国連議長は呆れたという風に首を振ると、
「あの男が眠れないといったので、睡眠薬を処方していたって? やれやれ、あんた、どうかしてるな。我々の足もとが危なくなっているときに、あんたは一体、何をやってるんだ?」
「わたしは医者だぞ」
 ポール・マイヤーが笑った。
「覚えておくよ」
 ブルンヴァン博士は屈辱で頬が熱くなるのを感じた。
「今後、きみの病院は国連の管理下に置かれる。ハマーシュタインの処置は我々の方でやる。今からだぞ、博士」
「しかし、彼はわたしの患者だ」
「もう、違う」
 国連議長はそういうと、映話を切った。
 空白になったモニターを見つめながら、あのポール・マイヤーは完全なキジルシだ、とブルンヴァンは思った。
 とにかく国連が空挺隊もどきをここに送り込むまで、それほど時間がないはずだ。
 わたしがそれまでにやれることといったら、ハマーシュタインを隔離しておくことぐらいしかない。いや、本当にそうだろうか。ハマーシュタインが消されたら、わたしの役目はそこで終わるのでは?
 くそ、かまうもんか、とブルンヴァン博士は思った。どのみち、ハマーシュタインが完全に記憶を取り戻したら、我々は終わりだ。わたしのキャリアも何も一切が無だ。
 しかし、絶対にひとりで破滅したりはしないぞ、とブルンヴァン博士は心に誓った。あのいけすかないポール・マイヤーを必ず道連れにしてやる。
 ブルンヴァン博士は目の前に置かれたワイルドターキーのボトルを見つめた。
 全く一杯飲みたい気分だった。

(次の章を読む)

(前の章を読み返す)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?