見出し画像

『飛び地のジム』プロローグ

 プロローグ

 その少年は生まれつき不幸だった。
 そこには何の不思議もなかった。
 未だかつてこの世界で人々が平等だったことはないし、これからもそうなることはなかった。それは小学生にでもわかる道理であり、少年はそれを、地下鉄の引き込み線の横にある排水口の汚水溜めで、年長の少年にぐじゅぐじゅになったスニーカーの汚い足を顔に押しつけられながら知った。
 頭上では切れかかった蛍光管が青白い光を点滅させ、天井のそこここから冷たい水が滴り落ちていた。
 汚れた水が頬を伝い、少年は空腹だった。
 もう二時間になる。トンチキのルディにこの場所に追い詰められてから、かれこれ二時間だ。丸々と太った、性悪なガキのルディは、彼だけにしか知らない理由で、少年を日の敵にしていた。あるいはそもそも理由などなかったのかもしれない。ルディは固くなったガムをくちゃくちゃ嚙みながら、這いつくばる少年の周りをぐるりと回り、昔少年の兄が道端でよくやっていたように、これみよがしに唾を吐いた。
「ボーイ」とルディはいった。
 少年はボーイと呼ばれるのが大嫌いだったが、ルディはとりわけ人の嫌がるものを探し出すのが得意だった。
「お前の母ちゃんは淫売た」
 ルディはそういうと、体に似合わぬ素早さで少年の背後に回り、少年の左腕をつかむとぐいとねじ上げた。ルディの丸々とした指が少年の腕に絡みつき、だらしなく伸びた爪が少年のかさぶただらけの皮膚に食い込んだ。
「ボーイ、お前もお前の母ちゃんみたいにたれにでもやらせるんたろ」
 ルディの声が少年の耳の中でわんわんこだまして、少年は自分の頭の中で、いつかテレビで見たモンゴル産の新種の蜂――それは退化した視覚器官の代わりに超音波を絶え間なく発し障害物を発見する――が、ブンブンと唸っているように感じられた。
「何とかいえよ」ルディはそういうと、少年の腕をなおもねじ上げた。
 体全体を激痛が走り、少年は息が詰まるのを感じた。ルディのハアハアいう荒い息とチューインガムの甘い臭いが、入れ代わり立ち代わり少年を襲い、やがてそれは鈍い痛みと共に、目の前でちかちかと明滅する赤い点に変わった。
 一瞬、気が遠くなり、少年はその赤い点がゆっくりこちらに近づいてくる携帯用のライトのように見えた。誰かが来る、と少年は思った。下水道作業員がボコボコになったヘルメットに強力なライトをくくり付け、旧式のリボルバーを手にワニ狩りをする、という噂を少年は聞いたことがあった。どこかの家のペットがトイレに流され、下水道内で巨大化したのだ。ルディがそいつに食われちまえばいいのに。
 しかし、賢明にもすぐに少年は考え直した。現実には地上の明かりとこの薄暗い汚水溜めの問には、実に三〇フィートもの距離がある。おそらくこの真上には、しょぼい看板のマーフィーズ・ストアがあり、店主のステファン・マーフィが今日もまたどこかのトンマに、適当なものを売りつけようとしているのだろう。
少年は、マーフィがしょっちゅう自分の食料品店が下水溝の真上にあることをこぼしていたのを知っていた。
 ――まったく、俺が上物のキャビアを滅多に来ないアップタウンの客に勧めているときに、まさにそいつがぷんと臭ってきやがるんだ。客は腐ってるんじゃないか、という。俺はもちろん、下水のせいだというさ。本当のことだからな。しかし、困ったことに、上物のキャビアってのは、まさに腐っているようにしか見えないんだ。
 少年はキャビアというのが、どんな食べ物か知らなかった。おそらく母親だって知らないだろう。母親はマーフィからよくのこり物の食料品を貰ってきていたが、それは大抵どこかの聞いたこともない外国から輸入されたものだった。マーフィとしては、それがちょっとした罪滅ぼしのつもりだったのだろう。マーフィが母親と寝るとき、必ずといっていいほど、金額を値切るのを少年は知っていた。
 そう、少年がルディを心から憎むのは、実際にルディのいうことが事実だったからだ。母親がこの町の売春婦であり、少年はそれを片時とも忘れたことはなかった。少年の兄もおそらくそうだろう。兄のロニーは二年前に既にこの町を出ていった。多分、もう死んでいるだろう、と少年は思っていた。それは、この町を出ていったティーンエイジャーの行く末としてはもっともありそうな運命だった。
 ロニーが生きていれば、きっとルディのようなトンチキ野郎にいじめられることもなかったに違いない。それを思うと、少年の目にじわじわと涙が浮かんできた。
「泣いたってタメたぞ、ボーイ」ルディが虫けらでも見るような目つきでいった。
 風を切るゴーッという音がして、すぐ近くで地下鉄が通りすぎるのがわかった。ガタガタという振動がそれに続き、少年は両手で耳を塞いだ。
 気がつくと、ルディは少年から手を放し、苦労して自分のジーンズをずりおろしているところだった。そしてやっとのことでパンツの中から縮んだペニスを引っ張り出すと、四つんばいになった少年の鼻面に突きつけた。
「ボーイ、こいつをしゃぶるんた」
 ルディの顔は緊張からかギラギラしていて、少年の目には今にも悲鳴を上げそうに見えた。ルディは怖がっている、と少年は思った。なぜだろう?  悲鳴を上げたいのはこっちの方なのに。
 しかし、ルディが怖がっているということは、こっちにもいくらかチャンスがあるということだ。少年はじりじりと後退し、退路を確保しようとした。そして無駄だとは思いつつ、声を張り上げ、助けを呼んだ。あるいは、自分の声にルディが怖じ気づいて、この場から逃げだそうとするかもしれないとかすかな希望を抱きながら。
 と、少年の大声に驚いたルディが突進し、少年のやせ細った身体を思い切り突き飛ばした。ぐらりとよろめいた少年は、コンクリートの壁にぶち当たり、肩の辺りをしたたか打ちつけた。激痛が走り、痛みに身をよじると、ヒューという音が少年の口から漏れ出た。慌てて空気を吸い込もうとするが、入ってこない。ヒュー、ヒューという断続的な呼吸音が続き、少年は持病である喘息の発作が起きかけているのを知った。
 少年の喘息はこの町の業病のようなものだった。市の未対策地区に指定されてから、環境対策に対応しきれない零細企業が、大挙してこの町にやってきた。そして他の地区では許されない廃棄物や煤煙をせっせとまき散らしたのだ。だから町はいつも煤けていて、何人かに一人は金属音のする空咳をしていた――少年が喘息だと診断されたのは、わずか三才のときだった。
「誰か呼んで、誰か」突然の発作に驚いた少年はうずくまり、ヒューヒューという情けない音をさせながら、苦しそうにいった。
 しかし、ルディは苦しむ少年を見て、すっかりパニックを起こしていた。きっと自分が少年を殺す羽目になると思ったのだろう。ルディはチクショウといいながら、よろけるように引き込み線から抜け出すと、本線に向かう傾斜路の方角に走っていった。
 少年はうずくまったまま、呼吸が正常になるのを待った。しかし、息をするのが次第に困難になっていた。それはつまり、このまま発作が治まるのを待っても仕方がないということだ。何とか地上に出なければ。地上に出たら何とかなる。たとえ、自分がそこで倒れたとしても、誰か――多分、どこかの気のいいおばさんだろうけど――が、救急車を呼んでくれるだろう。
 少年は足元だけを見ながら、地上へと向かう傾斜路の方角に向かって、あえぎながら歩きだした。呼吸はますます苦しくなり、目の前の光景がちらちら揺れ始めた。足元の穴ぼこが不自然をほど歪み、薄ぼんやりとした中で誰かが捨てた点数つきのプルトップの鈍い光が目に留まった。すぐに体を支えているのが困難になり、少年は傾斜路の途中で座り込むと、膝を抱え、胎児のようにうずくまった。
 ちくしょう、ルディのやつ、いつか殺してやるぞ、と少年はあえぎながら思った。
いつか自分が大きくなって、そしてこの町を出ていくまで生きられたとしたら、ルディを殺し、この町を焼き払うためだけにでも戻ってこよう。
 そのためにも今ここで死ぬわけにはいかない。
そして少年は立ち上がった。自分は何とか地上にたどり着くことができるに違いない、と少年は思った。自分にはやれる。やれるさ。そう思ったとき、それを裏切るように意識がすっと遠のいた。
 意識を失う前、誰かが自分の名を呼んだように少年は思った。
 その誰かに向かって、少年は懇願した。
――僕を助けて。お願い。どうか僕を。
 そして少年は崩れるように、倒れた。
 三〇分後、病院に運ばれ――ルディの取り乱しように不審を抱いたルディの母親が賢明にも警察に連絡してくれたのだ―― 、その二日後、少年は脳の損傷により、軽度ではあったが、左半身に障害が残ることが判明した。
 まあ、ましな方だね、と少年の母親はいった。ルディの両親からとりあえず一、二年は働かずに済むだけの金はせしめることに成功したのだ。
 それから五年後に少年はこの町を出た。
 その行方は誰も知らなかった。兄のロニーのように、おそらく死んでいるのだろうと思われていた。
 一年後に少年の母親も死んだ。
 ベッドの上の客の財布からカードを盗もうとし、それを知って逆上した客にナイフでめったづきにされたのだ。

(以下、各章へ)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?