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『飛び地のジム』第一部 6



 その日、ジーナ・シモンズは市内まで足を延ばし、ダウンタウンにある図書館に行った。
 エルドン・テイラーの手掛かりを探すためだった。
 ポートランドの中央図書館はジョージア様式の優美な造りの三階建で、他の州によく見られる訪れる者を威嚇するような厳めしい建物とは明らかに違っていた。
 にもかかわらず、中にいるロボットの司書は決してフレンドリーとはいえなかった。役立たずで気が利かなく、ジーナは結局――さんざん言い争った挙げ句、自分で探すと言い張った。
 しかしジーナは今、それを後悔しはじめていた。
 天井高くまで書架が並ぶ地下二階は、この図書館の中でも最も取っつきにくく、最も暗く、そして妙にかび臭かった。ジーナはふと礼拝堂を思い出した。
 旧式の検索機が三台、隅に置いてある。この図書館ではいまだに情報が完全にデータ化されていないのだ。ロボット司書の話では、今現在も書架が置かれている図書館は、全米でもこのポートランド中央図書館を含め、せいぜい二、三か所だけだという――まさに旧時代の遺物だ。
 閲覧の手順は既にロボットに聞いていた。
 まず調べたい事項を打ち込み、該当事項のコードを探す。コードは全米図書館協会のデータベースの共有コードだ。ここの図書館から送られたコードは瞬時にワシントンDCの中央図書館に送られ、そこでポートランド図書館の所蔵目録が検索される。該当のものが探し出されると、再びそれを大陸の反対側に送り返す。その間、ざっとコンマ1秒ほどだ。
 しかし、そこから先が長かった。その大半は、旧式の検索機が、アナログからデジタルへ、デジタルからアナログへと、何十回となく繰り返すシグナル変換に費やされる時間だった――ロートルのスパイが最新の暗号を解こうとしているようなものだった。
 これこそ旧時代の遺物だわ、と、うんともすんともいわない検索磯をにらみつけてジーナは思った。眠ってるんじゃないかしら。
 ジーナが探していたのは、十六年前に政府が携わっていた宇宙関連事業の記録だった。
 発端は十五年前に発行された二十世紀映画人協会の協会史誌だった。それ自体は何の変哲もない代物だったが、ジーナはそこに興味深いものを見つけた。
 ホークナーは協会の熱心な会員で、その協会史誌の編集委員だった。それは三分冊の分厚い本で、それぞれ中には挟み込みの小冊子が入っていた。この手の類によくある、委員の近況を伝えるものであり、ジーナはその一冊にホークナーの姿を見つけた。いつに変わらぬ尊大な態度のホークナーはそこで、現在、撮影中の映画について語っていた。
 しかしジーナは知っていた。ホークナーのいう、この製作中の映画は今の今まで世間に公開されたことはないのだ――お蔵入りになった未公開作品中にも記載がなかった。しかもホークナーはこの映画のスポンサーが政府関係者であると暗にほのめかしていた。ホークナーの性格からして、彼はそれを隠しておけなかったに違いない。
 ようやく長い眠りから覚めて、検索機が書架の番号を知らせてきた。それをくすんだモニターで確認して、ジーナは書架の列に足を踏み入れた。
 何列も何列も際限なく続く書架の迷路をジーナは進んだ。それは文字通りの百科全書の森であり、ようやく目的の書架にたどり着いたとき、ジーナは自分がカフカの小説の主人公になったような気がした。
 書架に手が届かず、ジーナはプラスチック製のステップに足を載せ、手を伸ばしたが、ひどく骨が折れるのを感じた。こういうことをするのには年を取りすぎてしまったのではないか、と思った。それにもう少し痩せる努力をしなきゃ。
 通路の向こう側に若い女が立っているのが見えた。ブルーのジャージーに、細身のパンツがよく似合っていた。目が合うと、にこりと笑いかけてきた。
 そう、わたしにもああいうときがあったんだわ、とジーナは思った。あの娘ほどきれいでも痩せてもいなかったけれど。
 若い女はジーナと同じように、書架の間を歩いていた。研究者にしては若すぎるように思えた。おそらく学生なのだろう。
 ジーナは一冊の本を棚から取り出した。そして書架の隙間から閲覧台を引き出すと、そこにその本を置き、ページを繰った。しばらくそれに没顕した。
 残念ながら、そこでわかったことはこれまでの推測の域を越えるものではなかった。
 とにかくホークナーは政府の依頼で、一本の短編映画を撮ったらしかった。内容も出演者についても何もわからない。おそらく、故意にわからなくしたのだろう。
 エルドン・テイラーにまつわる一切がひどくおぼろげでねじけて見えた。
 ただ、ジーナはテイラーはただの無名の俳優ではないということだけは確信があった。テイラーは連邦政府の関係者なのかもしれない、とジーナは思った。そしてありえないことのように思えるが、もしかするとホークナーも。
「ごめんなさい」という声で我に返り、ジーナはふと顔を上げた。
 目の前に先ほどの娘が立っていた。ほっそりとした身体に、かしこそうなハシバミ色の瞳。さっき遠目で見たよりも娘はずっと若そうに見えた。
「検索機がおかしいみたいなんです」娘はいった。
「なかなかデータを送ってこなくて」
 自分に娘がいたらこんな風かしら、と一瞬、ジーナは思った。
「遅いんですよ」とジーナはいった。
「この場所では時間が凍結されているの。でももう少ししたら、出てきますよ」
「ここはどうも落ちつかなくて」娘が不安そうな顔でいった。
「慣れないところだからでしょう」とジーナはいった。
 そしてこの娘は、どうして司書ロボットを連れていないのだろう、と思った。

 ジムはポートランドの中央図書館で母親に会うことができなかった。
 司書だというロボットに尋ねると、ジーナ・シモンズは既に退館している、といった。若いご婦人と一緒に。
「若いご婦人?」
 そんな人物に心当たりはなかった。ジーナの知っている若い婦人は出版関係のエージェントに限られていたし、それならば当然ジムも知っているはずだった。
 ここはポートランドであり、ジーナと関係がある出版エージェントはニューヨークにあった。
 この土地に不案内なその女性エージェントは、いつもジムに、ある種のつむじ風――いきなりやってきて、大騒ぎをし、いつの間にか去っていくつむじ風――を思い起こさせた。
 アリス・スプリンクルという名のその若いご婦人を、二人はショッキングピンク・ハリケーンと呼んでいた。彼女は一見して出版関係の人間というより、ロックミュージシャンのグルーピーを思わせた。ジーナはその点がお気に入りだったが、どこへ行くにもピンク色の服を着てくるのにジムは閉口した。それに、アリスと話すと、ジムは自分が朴訥で何も知らない田舎の童貞にでもなったような気がした。しかし、それだけに彼女がどこかに出現すると、必ずその痕跡を残さずにはいられなかった。
「その若いご婦人はピンク色の服を着てたかい?」ジムは尋ねた。
「いいえ」とロボットはいった。
「確か、ブルーでした。知性を感じさせる色ですね」
 もちろん、それなら彼女であるはずがない。
 ジムは急いで図書館を出ると、あたふたとホンダに戻った。
 しかし、彼の愛車はどこにもなかった。その代わり、自走式の警告メーターが駐車違反の黄色いランプをブンブンと点滅させながら、ジムの帰りを待っていた。彼のホンダは既にどこかに運ばれていた。
「ちくしょう」
 ジムは慌てて映話を探しに走った。
「そうだな、三日に一度はあんたみたいな人が来るよ」ガススタンドの従業員――にしてどうやらオーナーらしい――は、映話を貸してくれ、といったジムを見て、物憂げにいった。
 ポートランド市内にあるそのガススタンドはひどく殺伐としていた。ポートランドにあるというより、ポーランドの場末にあるといった方がよさそうな味気なさだった。
 壁に貼ってあるポスターは十何年も前のものだった。そこにいるのは、往年のセクシー女優べリンダ・ローズであり、黄ばんで端がめくれた彼女はそのガススタンドの煤けた室内を見下ろしながら、心底引退したがっているように見えた。
 その男は黄色く濁った目でジムの顔をじっと見つめると、いった。
「ここらでエアカーを駐めるのは、よほどのアホだけだぜ」
 ジムは心中で罵りながらカードを入れると、バーンサイドをコールした。
 瞬時に回線がつながり、ジーナの歪んだ映像が飛び出してくる。
「母さん、聞こえるかい?」ジムは叫んだ。
 しかし、モニターにはいやらしい横縞が入り、受信状態の悪い無線機か、昔の壊れたラジオのように音声が途切れた。
「一体、どうなっているんだ」とジムは叫んだ。
「雨降虫だ」男がつまらなそうに答えた。
「現在、南下中なんだ。あいつらのせいで電波障害エリアに入ったのさ。ケーブル・ニュースによれば、五時間ほど前から南下を開始したらしい」
「くそっ」モニターを叩いて、ジムは叫んだ。
「母さん、聞こえるかい?  とにかくよく聞いて。今からその家を出るんだ。何も持たずに、何も触らずに」
 ジーナの姿は上下左右に歪みながら、絶えず点いたり消えたりをくり返していた。
 それはどこか遠い知らない国にいる人間のようだった。あたかも霊媒師があの世から呼び寄せたような、ぼんやりした現実感のない映像だった。そしてそのあまりの空虚さにジムは胸を衝かれる思いがした。
「何をいってるのか、わからないわ」ジーナがいった。
 しかしそれはジムの耳には届かなかった。バーンサイドからそのガススタンドへと向かう何百マイルかの行程のどこかで、そのちぎれた声は永遠に行き先を忘れてしまったかのようだった。
 もしかすると、そこには単なる空間的な距離、電子的な距離以上のものがあったのかもしれない。それは二十四年という時を経て、新たに発見された親子の隔たりを象徴する距離だったのかもしれない。
 ジムは悲痛なうめき声を上げた。
 男は訝しそうな目でジムを見ると、ジムの手にした映話機を見つめた。警察を呼ぼうかどうか迷っていたに違いない。
 ジムは映話を切ると、タクシーを探しにガススタンドを出た。
「あんた、クルマを取りにいかなくていいのかい?」後ろから男が呼びかけた。
 ジムは首を振った。
「じゃあ、勝手にしな」
 もちろん、勝手にするつもりだった。
 ジムは一ブロックを全速力で走った後、一人の客を乗せようとしているエアタクシーを見つけた。ステップに片足をかけていた男を引きずり下ろし、憮然としたロボット運転手に、行き先を告げる。
 急上昇するタクシーの動きに背をシートに押しつけられながら、おそらく自分は間に合わないだろう、とジムは思った。不意にカスターの顔が思い浮かぶ。黒檀のように真っ黒で、大きく、頼りになったカスター。そのカスターがどうなったかを思い浮かべてみるがいい。
 画面の中の母親は――たとえ雨隆虫の妨害があったにせよ――驚くほど小さく、はかなげに見えた。

 その娘はケイト・ホロウェイと名乗った。
 ウィルフォード女子大学の学生で、研究のため、ポートランドにいるのだという。
「何の研究なの?」ジーナは尋ねた。
「遺伝子工学です」とケイトは答えた。
「へえ」
 そういって、ジーナはたちまちその娘に興味を失った。
 元々ジーナには、自分の興味を持てるもの以外を極端に軽視する傾向があった。それが悪い癖だということは自分でも感じていたが、自分には関係がないことがわかると、途端に興味が薄れてしまうのだ。
 それに目下、彼女にはテイラーの謎を解くという大仕事があった。
 早くこの娘がわたしを解放してくれないだろうか、とジーナは思った。そうすれば、わたしはこの旧式のコンピュータを騙すことができるのに。
 ジーナ・シモンズはバッグの中に薄っぺらな特殊ボードを忍ばせていた。それは端末とポートランド図書館のコンピュータに割り込むことのできる一種のトラップ回路で、これを検索機の中にセットすれば、直接自宅の端末から政府の資料局にアクセスすることができるのだ。
 ジーナは自分が他人からどのように見られるかということを知っていた。害のない太った中年の婦人だ。時にはその上に“親切な”とか“風変わりな”とかいう形容詞がつくこともあるが。
 もちろん、それらはジーナの実像とはかけ離れたものだったが、彼女自身はそれを楽しんでいる節があった。善良な中年の婦人が他人に見咎められずにどれだけのことをやってのけられるかを知れば、大抵の人は驚くに違いない。
 しかし、ケイト・ホロウェイはなかなかジーナの傍を離れようとしなかった。
「ミズ・シモンズ」もじもじしながら、ケイトはいった。
「あなたは何か信仰をお持ちですの。お子さんをお持ちですの。ご家族に問題を抱えてはいませんか。もし生きるのに困難を感じているのであれば――」
 ケイトがバッグから取り出したのは、極彩色のパンフレットだった。
 非常に凝った作りの小冊子で、けばけばしい多色刷りがいやが上にも人目を引いた。その紙は一種の黙示録的世界を描いていた。沸き立つ海からは巨大なクジラが浮かび上がり、その上には様々な奇怪な武器を手にした堕天使たちが踊っていた。クジラはもちろんイザール人を意味していた。これはあのイザール人との遭遇を世界の終わりと捉える、終末論信仰の一派の布教用パンフレットに違いない。
 この娘はわたしを勧誘しようとしてるんだわ、とジーナは思った。
 ジーナはケイトの気を悪くしないように、そのパンフレットを受け取ると、にこやかに微笑んだ。ジーナ自身が元は教会の一員だったから、彼らが布教活動でどのような目に遇っているかはわかっていた――冷たい視線、痛罵、時には淫らな好奇心。
 もちろん、そのパンフレットには様々なたわ言が書かれているに違いない。噴飯ものの神学的議論、社会批判、新しい家族制度の提案、そして琴座のベガへの攻撃計画の詳細。彼らは今の地球人の科学力では、琴座のベガへの攻撃はおろか、目的地まで行けもしないということが果してわかっているのだろうか、とジーナは思った。
 ケイト・ホロウェイがいそいそという感じで、
「それからこれは無料のアクセラレータですわ。お手持ちのパソコンやタブレットのスロットに入れるだけで、アクセススピードを約三倍にまで上げられます。もし、そのパンフレットに興味をお持ちになったら、うちの教会にアクセスなさってください」
 ケイトはバッグから一枚のスレートを取り出すと、書見台の上に置いた。
 ジーナはいよいよ観念した。
 とにかくこの娘は最後までやるつもりなのだ。勧誘用のマニュアル通りに。もちろん、それが彼らのやり口だということをジーナはわかっていた。そして何よりそれを受け取らなかったら、この娘はここから出ていかないということも。
「わかったわ」
 ジーナは領くと、書見台からそのスレートを取り上げた。
 それはひんやりとした平たいケースだった。硬質プラスチック製で、表側の取っかかりのないすべすべした感触はよくできた武器を思わせた。ひっくり返してみると、裏側には滑り止めのマジックテープがついていた。そしてもちろん、その上には教会のアクセスコードが記されている。
「あの、これは後でちゃんと読んでおくから、一人にしてもらえないかしら。調べ物があるのよ」
「そうですわね。すみません。あなたと話せて本当によかったですわ」
「わたしもよ」
 ジーナはそういうと、目の前の資料に目を落とした。去ってくれ、という無言の合図だった。
 ケイト・ホロウェイはしばらく書架の間をうろうろしていたが、そのうちそそくさと階段の方に向かっていった。
 ケイトが階上に消えるのを完全に確認してから、ジーナは作業に取りかかった。

 ジーナ・シモンズは図書館を出ると、大きく深呼吸した。
 かび臭い空気とケイト・ホロウェイから逃れられて、ほっとした。
 エアタクシーを止めようと一ブロックほど上空を見ながら歩いてみたが、生憎、空車は見つからなかった。考え直し、バスで帰ることにした。
 たまに散歩してみるのも悪くないだろう、とジーナは思った。この春の芳しい空気を無味無臭の圧搾空気と取り替えるのは、あまりに勿体なかった。
 一つ先のバス停までのんびり歩くと、ちょうどバスは右の角から曲がってくるところだった。ポートランド市が市バスを廃止しないのはいいことだ、とジーナは思った。とにかく昔のものとは違って、今のバスはむやみに空気を汚したりはしないのだから。
 バスの窓は開いていた。きっとこの春の空気を感じて、ロボットの運転手が気を利かせたのだろう。窓から気持ちのいい風が入ってきた。
 不意に目の端にブルーのジャージー姿を捉えた。先ほど図書館の中で会ったケイト・ホロウェイに違いない。可哀相な子、とジーナは思った。あの娘はきっと現実が見えてないんだわ。あんなにきれいなハシバミ色の瞳をしているのに、そこに映っているのは、歪んだ現実世界――魑魅魍魎のごとき悪しき政治家どもと泣き叫ぶ人々、そして悪魔の化身たる異世界のクジラの群れ――なのだろう。
 もしかすると、彼女は軽度の強迫神経症をわずらっているのかもしれない、とジーナは思った。息子のジムのように。
 もっとも、昨今では誰もが神経症の二つ三つはかかったことがある。自分だってそうだった、とジーナは思った。当時、彼女はまだ修道院学校の養成課程に在籍中の身だったが、大したことにはならなかった。一日中何度も手を洗ったり、食事の際必ず皿の中に小さな虫がいるかどうか確かめる必要はあったけれど。
 やれやれ。ジーナは窓の外から人々の行き交う姿を認めて、ため息をついた。この世界は一見、何事もないかのように見えるが、裏では実に様々な問題を抱えている――それでも世界が十分美しいのはなぜだろう、とジーナは思った。
 そして思いはやがてエルドン・テイラーの正体へと向かった。気を取り直して、膝の上で図書館で調べたメモを開いた。
 図書館でわかったことはあまり多くはなかった。しかし、あのボードがあれば、もう少し掘り下げることができるだろう。ジーナはボードを買い求めた闇屋で、ボードと一緒に政府の資料局のアクセスコードも手に入れていた。ふっかけられたのは知っていたが、もちろん、誰にも訴えることはできなかった。
 そのとき、バスの車内のモニターで、空港のトイレでホロウェイという名の若い女性が殺されているのが発見されたというニュースが流れていたが、ジーナは資料に没頭していたので、全く気がつかなかった。死後六時間が経っている、とモニターはいっていた。
 腕につけたGPS内蔵の端末が自宅の座標に到達したのを確認し、ピピピピと不愉快な音を立てた。
 はっとして顔を上げ、慌ててロボットに声をかける。
「ここで降りるわ」
 バーンサイドの自宅はこのバス停から一区画も離れていない。
 ジーナ・シモンズは家に入る前、ふと誰かに見られているのではないか、という気がしたが、すぐに忘れてしまった。

 ポートランド中央図書館に据えつけたボードは素晴らしい効果を発揮した。
 わざわざ闇屋で買っただけのことはあろうというものだ。
 ジーナは今では、エルドン・テイラーが政府の関係者であることをほほ確信するに至っていた。
 政府のシミュグラム映像部。少なくともテイラーが所属していた部署はそうなっていた。シミュグラムというのが何のことかわからなかったが、おそらくシミュレーション・プログラムかシミュレーション・ホログラフの造語なのだろう。推測するに、政府は隠密裏に何かのシミュレーション計画を行っていたのだ――それが何かは見当もつかなかったが。
 ただ、彼はいわゆる要人というのではなかったらしい。正規の職員ですらない。なぜなら、テイラーの名前の上にはMAという略式コードが使われていたからだ。
 これは火星を意味する認識コードだということをジーナは知っていた。火星には連邦刑務所がある。それと悪い噂も。
 それは連邦刑務所にまつわるものだった。囚人たちを人体実験に使っているという忌まわしい噂。そこにはあの強制収容所めいた暗い秘密が感じられる。ナチスやSS、囚人惑星、B級映画のネタの宝庫。
 そして不意にレイ・カスターのことを思い出した。とにかくこれをジムにいうことはできないわ、とジーナは思った。
 火星は遠い。そこで何が行われていようとわたしたちには直接それを知ることはできないのだ。少なくとも政府や国連を通さない限り。
 ホークナーのあの未公開作品が見られれば、とジーナは思った。そうすれば、疑問のあらかたは氷解するに違いない。それとも、実はもう見てしまっているのかも。自分だけではなく、世界中の人々が。
 そんなことがありえるだろうか、とジーナは自問した。イザール人との遭遇の映像が全くの作り物だなんてことが。
 そのとき、ジーナはまた不思議な感覚に襲われた。誰かが自分を見ているというはっきりとした意識。監視されているという不気味な感じが背筋を這うようにゆっくりと意識の表面に上ってきた。
 ジーナは馬鹿馬鹿しいと思いながらも、室内を見渡した。
 窓が開いていた。さっき自分で開けたのだ。心地よい春風に揺れる薄いグリーンのカーテンは自分で選んだものだった。ジーナはそれを見て、自分でも趣味のよい色を選んだものだと思った。
 そのとき、不意に映話がけたたましいコール音を響かせた。びくっとしたジーナは慌てて立ち上がり、サイドテーブルを引き倒した。
 舌打ちして、回線を開く。息子のジムだった。
 映像はひどく状態が悪く、音声はただのハウリングにすぎなかった。ジムが何かを叫んでいたが、全く聞こえなかった。
「何をいってるのか、わからないわ」とジーナは画面に向かっていった。
 するといきなり、ブチっという音と共に回線が切れた。
 おそらく雨降虫の影響なのだろう、とジーナは思った。このところ、やたら雨降虫の動きが活発になったように思われるのは気のせいだろうか。
 それにしても何の用だろう、とジーナは思った。画面のジムはひどく慌てているように見えた。もっとも、あのように画面がぶれていれば、誰もが慌てているように見えるだろうが。
 まあ、用があるなら、またかけてくるだろう。
 ふと目をやると、サイドテーブルを倒したときに、上に置いたバッグの口が開いて、中身のあらかたが派手にぶちまけられていた。
「まったく、もう」
 ジーナはそういうと、腰を屈めて、落ちたものを拾いはじめた。
 口紅、ファンデーションなどの化粧品の類、カード端末、カード入れ、駐車チケットの半券、領収書やその他の取るに足らない紙切れ、そしてあの娘に押しつけられた派手なパンフレット。
 ジーナはそのパンフレットを拾い上げると、何げなく開いてみた。
 これは怒りの神ね、と表紙の裏をめくって、ジーナは思った。この擬人化された神は多分、父性神に違いない。ユダヤの神の系譜。新約の神とは異なり、信仰を持たない者、契約に背いた者を厳しく断罪する神。そしてこの神はどことなくホークナーに似ている、と思った。
 そのとき、目の端に平たいケースが目に留まった。あの娘は何といってたかしら。確かアクセス・スピードを三倍に上げるスレートとか何とか。もちろん、その言葉を鵜呑みにはできない。おそらくこれには教会への優先コードがついているに違いない――後でロックを外せば済むことだけど。
 つまるところ、これは迷える子羊たちを通常の三倍の速度で天国に送り込むスレートつてことね、とジーナは思った。
 ジーナはつかつかと窓まで歩いていくと、ぴしゃっと窓を閉めて――外をのぞいてみたが、誰もいなかった――、いつも気になっていた、もたついたカーテンの端を引っ張って丁寧に伸ばした。
 そしてその薄っぺらなプラスチック板を拾い上げると、目の前のスロットに慎重に押し込んだ。

                                                (第一部 了)

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