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『飛び地のジム』第一部 4


 ジムはその後短期間のうちに、驚くほどボキャブラリーの量を増やしていった。
 もちろん、それにはジーナが遅れていた数年を取り戻そうと、手当たり次第に息子に本や雑誌を買い与えたこともある。
 その多くはジーナ自身の趣味を反映して、いわゆる教育的配慮からは程遠いとされるエンタテイメントや娯楽物に偏ってはいたが。
 しかし、ジムは喜んだ。ジーナとしても、前世紀のペーパーバックがこれほど面白いものとは思わなかったので、息子と競うように片っ端から読みふけった。
 そうして息子に付き合っているうちに、ジーナの心中に奇妙な副産物が生まれた。
 すなわち、ジーナはこれら二十世紀のガジェット文化に俄然興味が湧いてきたのだ。
 数年後、ジーナは前世紀のペーパーバックについての文章を寄稿しはじめた。
 ジーナの専門は主として二十世紀後半のホラーやSF、そしてそれらを原作とした映画やビデオ作品の分析だった。
 ウィリアム・ホークナーの熱心なファンとしては、趣味を実益に変えたといってもいいだろう。ジーナはこの分野の新進研究家として、執筆活動にいそしんだ。特にジーナがホークナーの遺児を生んだ女性ということが知られてくると、ホークナーの研究家としては第一人者と見なされるまでになっていた。
 寄稿家となって二年後には、それまでの秘書の仕事を辞め、執筆一本でやっていけるまでになっていた。
 シモンズ家には定期的に業界誌や書籍が送られてくるようになり、ヴォルフガングの勧めもあって、ジーナは意を決して最新鋭のコンピュータを導入した。
 ジムがレイ・カスターと出会うことになったのも、そもそもは母親の注文した一冊の本が間違って発送されたことがきっかけだった。
 その出版社は二十世紀文学の復刻版を扱う専門業者で、ジーナはそこに絶版になって久しいスティーブン・キングのホラー小説を注文していた。
 ところが、その出版社の発送係はスティーブン・キングのホラーとスティーブン・スピルバーグの自伝を間違えて発送したのだった。
 担当者はカバーのファーストネームしか確認しなかったに違いない。ジーナはキングの新作――というか新たに発掘された旧作――を読むのを楽しみにしていたのだが、そこに届いたのは、異星人と地球人の交流を描く感傷的な映画の製作現場にまつわるそこそこ感動的な――とジムは思った――エピソードだった。
 ジムはそこそこ楽しんだが、ジーナはかんかんになり、すぐに抗議の映話をかけた。
 映話に出た男は、自分たちが提供するものに夢中になるような人間はどこかおかしいに違いないという堅い信念を持っているらしく、最初、貴社の出版物のファンだとジーナが名乗ったときには、はなはだ狼狽して――-ジーナのような教養も分別もありそうな女性が前世紀のガラクタに興味を示すとはおよそ考えにくかった――危うくジーナに向かって説教をしそうになった。
 それを思いとどまらせたのは、ジーナ・シモンズの正真正銘の怒りであり、それを見て彼はきっぱりジーナを完全なイカレ女と判断した。
 彼はコホンと一つ咳払いをすると、データベースにアクセスし、受注伝票と発送伝票を照合した。明らかにこちらの間違いだった。
「どうやらうちの手違いのようですな」
「わたしは最初からそういってるじゃない」ジーナが憮然としていった。
 彼はキイボードを叩き、キングのホラーが当人の望んでもいない恐怖を運んでいった先を突き止めた。そこはバーンサイドのシモンズ家からさほど離れてはいなかった。おそらくそれも間違いの一因となったのだろう。
「あなたの注文した本はすぐ近くにありますよ。弊社といたしましては、先様に連絡をとり、手違いの本を回収し、改めてお宅に送り返すということになりますが――」
「ちょっと、新しい本を送ってくれないの?」ジーナがいった。
「あれが弊社にあるキングの最後の一冊です」彼はその事実がジーナに与える効果を楽しみながらいった。
 そのとき、二人のやりとりを苛々しながら聞いていたジムが映話に割り込んだ。
 当時、ジムは十六才。いつものことながら、母親は自分から事態をややこしくしているように思われた。
「その人の名前と住所を教えてくれない?」ジムが男に向かっていった。
「僕が代わりに取り替えに行くから」
 男はいきなり画面に子供が現れて面食らった。一瞬、タチの悪いハッカーの割り込みかと思ったが、ジーナが続けてこういうのを聞いて、ますます混乱した。
「息子なの。彼も楽しみにしているのよ。キングのファンなの」
 男は今はっきりアメリカ文化を頼廃させているのは自分だと思った。自分と自分のこの罪深い会社が全米の婦女子を毒しているのた。
「いいじゃない」ジムはさらに男に向かっていった。
「僕が取り替えてくるよ。そうすれば、あなたの方だって、手間が省けるし、こちらにとっても都合がいいしね。スピルバーグの本を頼んだ人だってきっとそうだよ」
「しかし――」それは規則違反だ、といおうとして、次の瞬間、どうでもよくなった。今さら規則も何もあったもんじゃな.い。アメリカ人の道徳的堕落という現実が彼を打ちのめしていた。そしてそれを招いているのは、他ならぬ自分なのだ。彼は相手の名前と住所を教えた。早くこの映話を切りたかった。自分の罪深さを逐一指摘されるような羽目になった、この映話を。
「ミスター・レイモンド・カスター、バーンサイド1277だね。わかった」ジムはその名前と住所をノートに打ち込んだ。すぐに画面が切り替わり、所在地の地図が浮かび上がる。思ったより近い。
「本当にそれでいいのね?」ジーナが男にいった。
「多分、問題はないでしょう」と男はいった。そして何が問題はない、だと、心の中で自分を罵った。
「きっとカスターさんもこの本を待っているよ」ジムはいった。
 ああ、そうだろうよ、と思いながら、男は映話を切った。そしていつになったら、自分はこの嘆かわしい現状に慣れるのだろうかと思った。自分は社会改良家にでもなるべきではないか。ああいった罪深い親子を何とか正道に戻す努力をすべきではないのか。
 男は一日の終わりにいつも考えはじめることをまたもや考えはじめていた。その後一杯やるとすぐに忘れてしまうのだが――しかし、そのときはまだ午前中だった。

 バーンサイド1277は旧市街の中でもとりわけ荒廃した地区にあった。
 同じバーンサイドに住みながらも、ジムはこの辺りに一度も足を延ばしたことがなかった。そこはシモンズ家のあるこざっぱりした住宅地区とは異なり、すべてのものが忍び寄る混沌と荒廃の影に覆われていた。
 移動広告の残骸が歩道の植え込みに散乱し、朽ちかけた空きビルからは――不法入居者が食事の支度をしているのであろう――白い煙のようなものが立ちのぼっていた。
 ジムはすぐにたった一人でここに来たことを後悔し始めていた。ここはバーンサイドとはいっても、ジムが慣れ親しんだような場所ではなかった。この土地には、一歩踏み出したが最後、二度と帰っては来られなくなるような、そんな危うさが感じられた。
 レイモンド(レイ)・カスターの家は、バーンサイドの東端にある空きビル群の谷間に忘れられた古びたトレイラー・ハウスだった。映画や写真などでは何度かお目に掛かったことはあるが、本物を見たのは初めてだった。おそらく戦前のものに違いない。今は亡きクライスラー社の浮き出し文字が、塗装のはげ落ちたトレイラーの後部に申し訳なさそうにくっついていた。
 日は既に暮れかかっており、ハウスの窓からはあたたかそうな明かりが漏れていた。ふと耳を澄ますと、どこからか古い感傷的な音楽が流れてくる。
 まるで場違いな“峠のわが家”だ、とジムは思った。
 トレイラー・ハウスの周りには、御用済みになって久しい戦前のクルマたちが、捨て置かれたままになっていて、それは周囲の荒廃からこのちっぽけなトレイラー・ハウスをひっそり守っているように見えた。
 ジムは本の入った紙袋を抱えながら、ふとこのまま帰ってしまおうかと思った。考えれば考えるほど、自分がこの世界の不躾な闖入者のように思えてならなかった。本はあらためて郵送にして送ればいい。そもそも映話であらかじめ話を決めておくべきだろう。いきなり行くなんて、全くどうかしてる。
 もちろん、ジムがここに一人で来る気になったのは、スピルバーグの自伝を注文する人物への気安さがあったからだった。共感といってもいいかもしれない。読書人の多くがそうであるように、ジムもまた読書という忘れられた習慣に対して個人的な思い入れがあった。
 そのままぐずぐず四、五分も迷っていただろうか、不意にトレイラー・ハウスのドアが開き、黒人の男が顔をだした。
「何なら、明かりをつけてやろうか」とその男はいった。
「そこじゃ暗いだろう。それとも神のご加護で切り抜けるつもりかい」
 そういわれて、ジムは自分が聖書売りと間違えられているのに気づいた。確かに今の様子じゃ気の弱い聖書売りに見られても仕方がないな、とジムは思った。
「カスターさん?」とジムは尋ねた。
「そうだけど、生憎買ったばかりなんだ。欽定訳でね。ハロルド・スタークのイラスト入りだ。ほら、キリストが昔の銀行員みたいな恰好してるやつだ」
「そうじゃないんです」カスターの視線がどこに向かっているのかに気づいて、ジムは慌てていった。
「これは聖書じゃなくて、あなたが注文した本ですよ。スピルバーグの自伝。間違えられてきたでしょう」
「ははあ」とカスターはいった。
「いつのまにかへんてこな小説に変わっていたやつだな。おれはもう少しでスピルバーグが実はジョニー・スミスという予知能力者だと思い込むところだったよ」
「それ、ぼくのなんです。というか、ぼくの母が注文したものなんです。出版社が間違えてあなたのところに送ってしまって」
「それでわざわざ届けに来てくれたのかい」とカスターはいった。
「そりゃすまなかったな。まあ、中に入ってくれよ。コーヒーくらい御馳走しよう。ジムといったっけ?」
「ジム・シモンズです」
「カスターだ。レイモンド・カスター。レイと呼んでくれ」
 トレイラー・ハウスの中は雑然としていたが、使い込んだ上質の家具のように居心地がよさそうだった。
 カスターは自分は独り者だといった。結婚を考えた女もいたことはいたが、彼が日本製のエアカー――スポーツタイプだが、こけおどしだな、ありゃ――を空送しにオクラホマまで飛んでいたときに、歯医者の卵と駆け落ちしたのだ、と語った。
 カスターはバーンサイドにあるキャリオ・カー・セールスという中古エアカーの展示場を任されていた。いわゆる雇われマネージャーというやつさ、とカスターはいった。
「ああ、それで」とジムはいった。
 外にある前世紀の遺物の山を指して、ジムはいった。
 カスターがニヤッと笑って、うなずいた。
「そう、おれは偉大なる二十世紀のガラクタ収集家なのさ」
 おそらくその点でもジムと気があったのだろう。シモンズ家もまた、前世紀文化の庇護者たることを自認していたからである。
 二カ月後、夏休みに入ったジムがアルバイトとして、カスターのキャリオ・カー・セールスに通うことになったのも、あるいはその親近感の故かもしれなかった。もっとも仕事自体は中古車のワックスがけという地味な仕事ではあったが。
 しかも、このワックス自体がまた厄介なものだった。とにかくその保持力というか定着力たるや、水で溶いた小麦粉並みだった。一週間と持たないのた。もっとも、それは製造元があらかじめワックスなんてせいぜい一週間持ちゃいいという考えでいたからなのだが。
「まあ、そりゃ、何にでも有効期限てもんはあるからな」カスターが分別くさい顔でいった。
「あのな、中古車専門のワックスについて、どこかのバカが入念なリサーチとやらをやったのさ。その結果、中古エアカーには七日間という数字をはじき出したんだ」
「でもなんで七日間なの」
「いいか」とカスターはジムにいった。
「中古エアカーの回転サイクルが七日間なのさ。七日間置いておけば、大概のものは捌けるのが前提だ。だから、そのワックスも七日間持ちゃいい。七日で捌けないクルマを抱えているところは、物によほどの難があるか、それともセールスマンの腕がとんでもなく悪いってことになる」
 キャリオ・カー・セールスの回転率は少なく見積もっても七日間などではなかった。ざっと一カ月以上野ざらしになっているものはざらで、大概のものは十日間以上も客の手に触れられることはなかった。
 ジムがその点を婉曲に指摘すると、カスターは首を振ってから、真面目な顔でこういった。
「そりゃ、ここにはセールスマンがいないからだ」
 ジムが不思議な顔をすると、
「おい、おれはマネージャーだぞ。ケチな客のご機嫌などとっていられるか」
 というわけで、ジムは押し黙ったが、同じクルマに何度もワックスをかけるのは、何とも気が滅入る仕事だった。おまけにそのワックスの商品名は――ふざけたことに――“エターナル(永遠の)”といった。典型的なアメリカン・ユーモアなのかもしれないが、現実に永遠を何度も塗りなおす作業をやっている者にとっては、ちっともおかしくなんかなかった。
 ジムは思った。だけど、マネージャーの仕事って何なのさ?
 最初、ジムはそれが不思議でならなかった。確かにレイ・カスターは信頼にたる人物ではあったが、まがりなりにも一つの店を任せるのに人徳だけで済むものとは思えなかった。
 そのうち、ジムにもカスターの本当の仕事が薄々わかってきた。もっとも、その頃にはここで行われていることの多くがわかってきていたのだが。
 レイ・カスターは要するに、キャリオ・カー・セールスの整備工兼何でも屋だった。それは昔の自動車修理工とは異なり、それほど汚れる仕事ではなかったし、汗だくになってTシャツを真っ黒に濡らす力仕事でもなかった。それどころか、合法的な仕事ですらなかった。
 最初に気づいたのは、展示車の数に比して、出入りするエアカーの数が圧倒的に多いことだった。しかも展示車の多くが型落ちで回転があまり見られなかったのに、頻繁に出入りする整備車両の多くは割と新しめの高価格車で、どんなに遅くとも入庫してから三日以内にどこかに送られていた。カスター自身は一時預かりと称していたが、ジムはそこに歯切れの悪さを感じ取っていた。
 ある日、ジムは預かり車両の一つのワックスがけを任された。それはトヨタのコンバーチブルで、前日に入庫してきたものだった。一見、新車同然に見えたが、塗装はひどくさめていた。いや、くたびれているとさえいえた。経年変化による色あせだ、とジムは思った。つまり、このクルマは見た目よりずっと古いということになる。しかし、距離メーターを見ると、ほとんど飛んでないことになっていた。
「おいおい説明しようとは思ってたんだ」
ジムがそのことをいうと、カスターはすぐに白状した。
「業者の間じゃ公然の秘密ってやつだがな。つまり、ここはキャリオ・カー・セールスの闇工場ってことさ。周辺の営業所から程度のいいのを集めて、ここでメーターを戻し、新車や新古車として化粧しなおすってわけよ」つまり、展示車の多くは営業所を装うためのダミーということだ。
「そりゃ、そうだろ? 一体、何でおれが食ってると思ったんだ?」
 それが不思議だった、とジムはいった。
「会社はおれのことを買っているのさ。自分でいうのも何だが、腕がいいからな」
 確かに、その点ではカスターの腕は一流なのだろう。
 カスターが自慢そうにいった。「おれはプロフェッショナルなのさ」
 カスターの整備工場に入ることが許されたのは、それから一週間後のことだった。
 整備工場には修理中のエアカーが二台、透明なケースの中に浮いていた。それは遠心力を利用して疑似的な無重力状態をつくる高価な装置で、カスター自慢のものだった。その隣にパーテーションで仕切られたブースがあった。
 天井からは多種多様の基盤がつり下げられ、色鮮やかなコネクターが作業台の下で絡まりあい、あたかも危険な毒蛇のように見えた。足元にはチップの破片が転がっている。
 ブースの中央には手作りの量子コンピュータが一台。それは中華製の筐体を利用したいかがわしい機器のようで、プラスチックケースのあちこちに開けられた四角いスリットの中に剥き出しのままのボードが無造作に差し込まれていた。
 宙に浮かぶ二台のエアカーがなければ、ここはまるでモグリのジャンク屋か、いつまでたっても卒業できない機械工学部のイカレた学生の部屋のように見えた。カスターがいうには、たかだかメーターを巻き戻すのにも、今ではそれくらいの用意がいるということだった。
「昔は――といっても戦後すぐの話だがな、メーターはメーターで独立していて、CPUを介したプログラムの制御を受けなかったんだが、今はみんな中央制御だから、こちらとしても多少の工学的知識が必要になるのさ」
 しかし、それは実際のメーター戻しの技術とはあまり関係はないのだ、といった。カスターによれば、メーターを制御している旧式のプログラムを欺くためには、CPUと計器の連絡を断たなければならない。つまり、旧式のプログラムを騙されなければならないわけで、そのためにこれらの機器が必要になるということだった。
「まあ、他にも理由はいろいろあるんだがな」といった。
 カスターは昔、同業者でメーターをちょろまかそうとして、誤ってプラスチック爆弾の起爆スイッチを入れてしまった男の話をした。
「そいつは、簡単な仕事だと思ってたのさ。ものはニッサンのリムジンでそいつが元の持ち主から引き取ってきたばかりだった。多分、その特ち主のことをもう少し調べておくべきだったんだ。そいつが知らなかったのは、そのリムジンには盗難防止用のプラスチック爆弾が仕掛けられていたことだった」
 その男が自分の間違いに気づいたときには、既に彼の身体は温めた缶詰から吹き出したトマトソースのように空中に飛散していたらしい。
 ジムが驚いたのは、盗難防止のためであれ何であれ、殺傷能力のある――人を簡単に殺すことのできるもの――を計器盤の裏に仕掛けて平然としている人間が現実に存在する、ということだった。そのオーナーは自分のエアカーを盗もうする者なら誰であれ、死んでも構わないと思ったのだろうか。
 警察の調べに、その元オーナーはそのプラスチック爆弾は安全装置のつもりだといったそうだ、とカスターは語った。
 ジムはいろいろ考えながら、カスターの工場を出た。
 その日が夏休み最後の一日だった。つまり、これからしばらくはここに来ることはないということだ。二週間後には厄介な試験が控えている。
 ジムは自分の仕事の成果を見ようと、展示場をぐるっと見渡した。
 キャリオ・カー・セールスの展示場の何列かは、今やその他の列と明らかに区別できると思った。“永遠”を塗りたくられ、磨き上げられたその列は、ジムにはまるで安物の玩具を並べたように見えた。実体のない、虚ろな存在のように見えた。“永遠”という仰々しいレッテルが貼られたことで、あたかもそこから内実が奪われたようだった。
 それでもジムは一つ仕事をやり終えた者のみが甘受できる、ある種の達成感を持って、少なくとも十分にきれいではある、と自分に言い聞かせた。

 試験が終わってひと月ほど経った頃、ジムは偶然、市内でカスターに再会した。
 その日、ジムは母親に頼まれていた映画関係の本を書店に取りにいった帰りで、歩道脇のベンチで酩酊状態のようにぐたっとしている顔見知りの男を見つけたのだ。
 そのときのカスターはまるで強盗に身ぐるみ剥がされた上、あちこちを小突き回されたようなひどい恰好だった。
 ジムは驚愕して、息を呑んだ。
「大丈夫?」
 一見してカスターはひどく痛めつけられていた。目の上が切れて腫れ上がり、瞳は焦点が合っていないようだ。ジムの顔を見るのにも苦労しているみたいだった。
「やあ、ジム」カスターは弱々しい笑みを浮かべた。
「調子はどうだ」
「元気さ。でもあんたほどじゃないよ」
 ジムはカスターの横に腰かけた。
「聞いていいのかどうかわからないけど、――どうしたの?」
 カスターは腰の辺りを片手で押さえ、呻きながらいった。
「まあ、どじったってこったな」
 州警察から戻ってくる途中、四、五人の男にからまれ、袋叩きにされたというのだ。
「じゃあ、すぐに連絡しなきや」
「おいおい、よしてくれ」
 カスターはそういうと、身体を曲げて、苦しそうに咳をした。
「何でだよ。こんなひどい目に遭わされて」
「やったやつなら知ってる。おれを密告した連中だ」
「密告?」
 カスターはにやりと笑って、いった。
「いわゆる不正行為がばれたのさ」
 ジムはカスターに肩を貸したまま、手を挙げてエアタクシーを止めた。昆虫をかたどったユーモラスなスタイルのクルマが二人の前に停車した。
「バーンサイドまで」コックピットのロボットに向かって、ジムがいった。
 ロボットは二人を見て、露骨に嫌そうな顔をした。
「面倒なことには関わり合いになりたくないんです」
「面倒なことなんてありゃしないよ」ジムがにらみつけるようにいった。
「それに、乗車拒否は新しいロボット三原則の補足条項に反してるぞ。もし断ったら――」
 ロボットは渋々ドアを開けた。
 ジムはカスターをタクシーの中に押し込むと、すぐにカスターのトレイラー・ハウスの座標を伝えた。
 と、カスターがポケットの中に手を入れて、情けない声を上げる。
「ちくしょう、あいつら、おれのカードを根こそぎ持っていきやがった」
 ロボットが顔色を変えた。
「前金でお願いします」
「わかったよ、ぼくが持ってるから大丈夫」
 ジムがそういうと、ロボットは訝しむような視線をこちらに送ってきた。
「現金は使えませんよ」
「政府カードだよ」といって、ジムがカードを差し出すと、ロボットはすぐに料金スロットに押し込んだ。たちまち該当金額が引き落とされる。
「すまんな」
「いいんだ」
 トレイラー・ハウスに到着すると、カスターは呻きながら、タクシーを降りた。
 博物館の骨格標本になった気がする、とカスターはいった。
「やっぱり病院へ行くべきだよ」
「いや、あいつらはプロだから、どこを痛めつければいいかよくわかってるんだ。この程度なら、二、三日休んでいれば、大丈夫だ」
 カスターの話によると、一昨日、カスターの営業所が摘発を受けたのだという。
「おとり捜査を気取ってやがったんだ。引き取りに行ったクルマのオーナーが調査員だったのさ。完全な罠だよ」
 それは二週間ほど前のことだった。
 カスターはポートランド北部の町でいささかくたびれたボルボを引き取った。オーナーは地元のスーパーマーケットの経営者で、日本車の出物があったので、そちらに乗り換えたいということだった。
 そのボルボは、カスターの見るところ、多少塗装に衰えは見られるものの、程度としてはかなり上等の部類だった。実際、これは他の営業所に流さずに済みそうだった。自分のところで展示するだけで、かなりの価格で売れるだろう。
 カスターはそう思って、そのボルボを引き取り、早速手を入れた。塗装を剥がし、色を塗りなおし、メーターを巻き戻した。程度の割にはかなり飛んでいたのだ。
 ところが、つい先日、そのオーナーがクルマを買い戻したいといってきたのだ。もう売れてしまったとカスターはいったが、その男は今展示されているのを見てきたばかりだ、といった。
「すぐ傍で映話してるんだよ。あんたの店が目の前に見えるんだ」
 カスターは嫌な予感を覚えながら、ブラインドの隙間から外を窺った。
 二人の男が歩道に立ってこちらを見ていた。ポータブルスレートを手にこちらにあごをしゃくっている男は確かにあのスーパーマーケットの経営者だった。そしてもう一人の男にもカスターは見覚えがあった。一ブロック先で肉屋を経営している男だった。カスターも何度か足を運んだことがある。不自然なほど太っていて、たえず神経質そうに辺りを見回している男だ。
「すぐにピンと来たよ」とカスターはいった。
「連中は大抵、二人一組で行動するんだ。一人が踏み込んで、一人が見張るわけだ」
「連中って?」
「地域風紀コミュニティの調査員さ」
 噂には聞いていた。地域風紀コミュニティは反動的な民間の警察組織で、いわば自警団といってよかった。彼らはもっぱら地域社会の倫理的ガードマンを自認していたが、その実態は戦時中の密告屋といってよがった。母親のジーナもよく、タチが悪い、といっていたものだった。
 きっとあの肉屋が密告したのだろう、とカスターはいった。二人は支部が違ったとしても、同じ風紀コミュニティの人間だ。会合か何かで知り合い、共謀してこの計画を練ったに違いない。
 カスターは事務所を出ると、二人のところへゆっくりと歩み寄った。膝ががくがくし、脇下で冷たい汗が流れるのを感じた。
「やあ、こんなところで何をしてるんだい?」カスターは内心の怯えを外に出さないように、細心の注意を払っていった。
「18万6400マイル引かれている」
 赤ら顔の肉屋が、せいいっぱい威厳を作った声で、そういった。
「なんの話だね、一体」
「飛行距離さ」元のオーナーが嬉しそうにいった。
「わたしがあんたにこれを渡したときは、確か29万7620マイルだったはずだ。だが、今見てみると、11万1220マイルしかないぞ」
 そういうと、その元オーナーはニヤリと笑って、一枚の紙切れをカスターに手渡した。
 ポートランド警察への出頭要請書だった。
 翌日、カスターは渋々警察本部に向かったが、向こうの方ではとうにカスターのデータを手配済みだった。何から何まで用意周到だったな、とカスターはいった。
 カスターは会社の指示でやったということを包み隠さず話したが、一も二もなく一蹴された。同じように呼ばれていたキャリオ・カー・セールスの地区担当が真っ向から否定していたからだ。
「そんなことはありません。この男のいうことはでたらめですよ」
 そしてカスターと自分のどちらを信じるのかというように、顎を突き出した。どちらが正しいかはこの顔を見るだけで判断できるでしょうとでもいわんかのように。
 残念ながら軍配はカスターの方には上がらなかった。地区担当は地元の出で、高校のときには負けなしのバスケットチームの一員だった。人気選手だったのた。
 それにカスター自身の経歴も災いした。カスターが初犯ではなかったからだ。
「もっともお巡りの連中は、最初から会社を追い詰める気なんかなかったのさ。あいつらはおれをここから追っ払いたいだけなんだ。風紀コミュニティなんかに目をつけられるような人間は置いときたくないのさ。面倒を起こされちゃかなわんというわけだな」
 結局、ポートランド警察は全ての責任はカスターにある、と判断した。
「じゃあ、会社は全てをあんたのせいにしてしらばっくれたままなの」
「まあ、トカゲの尻尾きりみたいなもんだ。会社なんかそんなものだ」
 それに、といって、カスターは顔をしかめた。
「もし、おれがこの地区をおとなしく出ていくのなら、お巡りの方じゃ逮捕しないというのさ。つまり、面倒を起こさないうちに出ていったら、お咎めなしということだ」
 これは風紀コミュニティの方の差し金だろう、とカスターはいった。
「あいつらは持ちつ持たれつの関係なのさ。風紀コミュニティは議会にかなりの影響力を持っているからな。警察のお偉方はそれを気にしてるんだろう」
「で、どうするの?」ジムは心配そうに聞いた。
「まあ、行くしかないだろうな。今度パクられたら、三、四年は出てこれないんだ」
 ジムはソファに座って、ベッドに寝ころがっているカスターを見つめた。色褪せたソファからは詰め物が飛び出していて、ジムはそれをそっと中に押し込んで、いった。
「マスコミを動かして、キャンペーンを張るってのは」
「ほう、キャンペーンね」とぼけた顔でカスターがいった。
「で、そのキャンペーンてのは誰に向けてだい?」
「キャリオ・カー・セールス」
「無理だな。第一、証拠がない」
「じゃあ、地域風紀コミュニティは?」
「おいおい、前科者が良識の民の偽善を暴こうってのか。よせやい。それに、連中はおれに忠告してくれた」
「忠告?」
「おれを袋叩きにしてくれたやつらがご丁寧にもいってくれたよ。おれがこのまま居すわる気なら、今度はどんなことになっても知らないんだとさ」
「脅迫じゃないか」ジムが憤然としていった。
「それって、結構気の効いた言い方だよな」とカスターがいった。
 カスターがバーンサイドを出ていく日、ジムはカスターを見送りにいった。
 その日はポートランドの夏にしてはいつになく晴れていて、カスターは庭先にある防火栓から水を出し、手を洗っていた。勢いよく流れだした水がコンクリートを濡らし、ジムは一瞬、その水を浴びたくなった。じっとしていても、じわりと汗が流れだすような、変に蒸し暑い日だった。
 カスターはジムの姿を認めると、妙なことをいった。
「用を足してたんだ。この日のために溜め込んでたんだ。いや、結構な量だったぜ」
 そしてレンチで防火栓の栓をねじると、片手で日差しを遮り、トレイラー・ハウスを牽引する巨大なトラックを見上げた。
「大したもんだ。おれはこういうクルマが好きだな。こいつには力みたいなやつが溢れている。力だ。見ろよ、あの突き出たボンネットは実際、どこかの間の抜けたマッチョの筋肉みたいじゃないか」
 そしてジムを見ると、
「世話になったな」といった。
「また会えるよね」
「そりゃ、会えないことなんてないさ。住所は教えたろ」
 カスターから貰った住所は、東海岸の聞いたこともない町のものだった。そこでカスターはしばらく清掃関係の仕事をしてみるつもりだ、といった。
「従弟がいるのさ」とカスターはいった。
 トレイラー・ハウスは流しの運送屋に頼んで――ハイウェイのサービスエリアで間抜けのマッチョに声かけたんだ、ほら、このトラックの運転手さ――、自分はエアカーでひと足先に引っ越し先に向かうという。
 カスターはトラックの隣にちんまりと置いてあるエアカーの丸みのあるボンネットを手でポンポンと叩いて、こいつは帳簿をごまかして手に入れたんだ、といった。
 車種はニッサン・サニー。ファミリー向けの小型エアカーで燃費がいい。
「おれとしちゃ、この手の乗り物は嫌いなんだがね。荷物が着く前にこちらとしても色々準備がいるもんでな」
 トラックが出発するのを二人で見送ってから、カスターはエアカーで飛び立った。
 ジムはトラックが出発する際、マッチョの運転手が運転席から唾を吐くのを見た。二十代前半の若者で、にきびが多く、確かにカスターがいうように少し間が抜けて見えた。
 カスターを見送り、自宅に戻る途中、ジムは一人の男が通りに飛び出し、両手を振り回して大声でわめいているのを見かけた。
 多分、その男がカスターのいった赤ら顔の肉屋なのだろう。風紀コミュニティの忠実なる密告者は傍から見ても、ひどく神経質そうに見えた。
 しかし、肉屋が自分の店先を指さし、泣きそうな声でこういうのを聞いて、ジムは久方ぶりに心の底から笑った。ことさら神経質な人間じゃなくても、これは到底我慢できないに違いない。
 肉屋はいった。
「ちくしょう、誰だ、こんなところにクソしやがったのは」

 カスターがバーンサイド地区を出てから三十分後、ポートランド郊外に白いものが散らつき始めた――真夏のこととて、もちろん、雪ではなかった。その日、太平洋岸で大量に発生した雨降虫が折からの季節風に流された結果だった。
 雨降虫は今世紀になって初めて存在が確認された奇妙な疑似生物だった。
 最初に発見されたのは、ミシガン湖に近い、ある核実験場跡でのことだった。一人の科学者が放射能の測定作業中に奇妙な現象を発見した。一定値を保っていた計測域の中でただ一か所だけ著しい放射能の減少が見られたのだ。不思議に思ったその科学者が調べてみると、ガス状の集合体が計測範囲を覆っていた。そしてその周辺だけ放射能の著しい減少が見られたのだ。
 このニュースは驚きとともに、世間に迎えられた。しかも、そのときにはもう一つの奇妙な事実が判明していた。その不可思議をガス状生物――-後に結晶状の細胞を持っているところから、生物よりも鉱物に近い疑似生物とされた――-は、どうやら放射能を摂取して成長しているらしいのだ。
 気の早いエコロジストたちはこれは地球の自浄作用によるものではないか、という説を立てた。また気鋭の科学者たちは極小のブラックホールではないか、と語った。
 いずれにしても、その不思議な疑似生物は人間には害を及ぼさなかった。ただ、あっという間に世界中に広がり、数キロにも及ぶ長大な群れを作り、集団で移動した。
 この疑似生物に“雨降虫”といういささか文学的名前がついたのは、その名の通り、雨降虫が移動した後には、必ず雨が降ることに由来していた。
 雨降虫が都市部にまで移動してくることはきわめて稀だったので、そのニュースがバーンサイド周辺に流れると、人々はこぞって外に出、その珍しい光景を眺めた。
 雨降虫を見ると幸運が訪れるというジンクスは、核実験場跡というマイナスイメージの払拭に懸命だった、ミシガン湖周辺の住民の誰かが言いだしたもので、それはもっぱら観光客向けの宣伝に使われていた。
 ジムは観光地のPRに興味はなかったが、そのジンクスだけは信じたい気分だった。
 カスターを乗せたエアカーは今頃、雨降虫の群れの中を突っ切っているはずだ、とジムは思った。
 州を越え、町を越え、山や川を越え、ひとりの黒人の男を新天地に運ぶために。
 多分、その土地では、カスターはいくつあっても足りないくらい、多くの幸運を必要とするに違いない。
 上空を目に見えるくらいのスピードでゆっくり移動する、無数の霧のような不可思議な生物を見上げながら、ジムは小さく、気をつけて、といった。
 ほどなく空がゴロゴロと鳴りだし、ぽつんぽつんと小さな雨粒が落ちてきた。

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