プロデュースとは時代を基軸に代わりのきかない創造をすること
プロデュース、プロデューサーというのは、抽象的な概念だ。Googleでプロデューサーと調べると、
と出てくるけど、恐らくこれだけではない。世の中には、ビジネスロデューサー、ブランドプロデューサー、音楽プロデューサー..ありとあらゆるプロデューサーが溢れている。
不思議なことに、私は社会にでてから「プロデュース」「プロデューサー」という役割とずっとつながってきた。
意識しないでも息をするようにできることを”得意なこと”といえるらしいけれど、私はなんとなくプロデュースという仕事が得意だなという自覚がある。
なぜか名乗っていないのに(所属するコミュニティの中では)プロデューサーと呼んでもらえることも多くて、それはとてもうれしい。
(10年以上前に日経MJに掲載してもらったときの↓)
昔は宝塚のトップスターになることが夢だったけれど、今の夢は「日本を代表するプロデューサーになる」こと(あといつか宝塚のプロデュースをしたいという裏目標)だ。
13年プロデュースをやってきてマジでいろいろありつつも、わたしは基本的に就労意欲が枯渇したことはなく、仕事が楽しくてしょうがない。
そればかりか、思いがけず今年に入ってコロナニートをやる時間ができてしまい、今改めてプロデュースの仕事を突き詰めたいという思いが沸々と湧いてきている。今は、手元になにもないに等しいから、笑われるような話なのだけれど。
プロデューサーってなんなのかずっと説明できずにきた
13年もやってきた仕事なのに、プロデューサーってなんなの?経営者やマーケターやディレクターとの違いは?やまざきさんはなんの仕事をしているのですか?と聞かれると、もごついてしまう。
それがどうしてかと考えてみたら、プロデューサーという抽象的な概念を具体化するのは、周りが思っているよりも難しいからなのかもしれない。
抽象的なことを具体的に表現するのは、その概念が曖昧であるほど、分解するのは本一冊書かなければいけないほど大変だったりすると思う。(例えば「人生100年時代」の概念をメジャーなものにした著書"LIFE SHIFT"も、400ページもある本だ)
たとえば私は一貫して13年間プロデュースの仕事をベースにしてきた意識があるのだけれど、肩書はプロデューサー、編集長、マネージャー、事業部長、社長、マーケターなど多岐にわたっていて、その時その時で役割も変化してきた。
政治する人を政治家と呼ぶように、プロデュースする人がプロデューサーなだけで、肩書は官房長官とか政調会長とかいろいろあることに似ているのかもしれない。
そもそも私はどうして"プロデュース"を仕事にするようになったか
実際、私がプロデューサーとして最初の一歩を歩むきっかけをくれたサイバーエージェントの藤田社長も、2011年に社内向けに「プロデューサーの定義」という小冊子を書いていて、文字数は2万字に及んでいた。
私の手元にもうその冊子はないのだけれど、たしかプロデューサーは成果に責任を持つ人で、ディレクターは品質に責任を持つ人だ、的なことが書かれていたと思う(違ったらごめんなさい。)
今まで立ち上げから関わった事業は(ちゃんと数えてないけど)20弱あって、箸にも棒にもかからない所謂失敗に分類されるのが15個くらい、認知度も含めてメジャーレベルでヒットしたのがアメーバピグ、それ以外のミドルレベルだと3.4個あり、打率としては3割くらいで、後半になるほど打率があがってきているので(まだまだまだまだ、という前提で)プロデュース能力としてはまったく才能がないというわけではなさそうだなと思っている2020年。
創造性と代替不可能性がプロデューサーの価値
そんな私があえてプロデューサーとはなにかをひとことで表すなら
正しく未来を描き、それを現実に生み出せる人
だと思う。
青山学院大学の山下勝教授が著書"プロデューサーシップ"の中で示したプロデューサーの価値は”イルリプレイサビリティ=代替不可能性”にある。
プロデューサーその人は何度も結果を残せる”再現性”を有すことが必須ながら、その人をコピーすることはできないこと自体が価値ということだ。逆にいうと、何人も同じ役割の人がいればいいフェーズにきたなら、その事業に既にプロデューサーはいらない。
「やまざきさんがもう一人ほしい」と言われて、私が属人的な仕事をする弊害に歯痒い思いをしたことが幾度となくあるけれど、ある意味これは正しいことだともいえる(もちろん拡張性をもった体制作りもやる)。なぜなら、プロデューサーが生み出す価値それ自体が、創造性、新規性、非既視性をもっていなければならないからだ。
経営やクリエイティブワークと限りなく近いがニュアンスが異なるのは、プロデュース業にはそれ以外に定義された業務はなく、むしろ代替不可能な結果を生み出すことそれ自体が仕事だからだと思う。
そして、代替不可能性と持ちながらアーティストと違うのは、表現の基軸が自己にあるかと、時代にあるかの違いだと思う。
プロデュース思考=創造思考をもった人と定義できるが、その創造は”未来の創造”にある。時代にうけいれられ、変化をアウトプットできてこそプロデュースなのだ。
”With AI””Withコロナ”時代にこそプロデュース力が必要なんじゃないか
山口周さんの話題書"ニュータイプの時代"でニュータイプの人材はこう定義されている。
問題を探す/構想する/意味を与える/遊びを盛り込む/自らの道徳観に従う/組織間を越境する/とりあえず試す/与え、共有する/学習能力に頼る
また、安宅和人さんの”シン・ニホン”の中でも、この自体に必要な人材要件に言及している。
大切なのは、目に見えない特別な価値を生み出せるかどうかだ。素晴らしい世界を描き、領域を超えたものをつなぎデザインする力が、これまで以上に重要な時代を僕らは生きている。この観点からも、習ったことをきっちりやる"マシン"的な人では新しい価値を生み出しようがないということがわかるだろう。 第一章 データ×AIが人類を再び解き放つー時代の全体感と変化の本質
日本の未来を予測した本たちは、未来型の人材がどうあるべきかの提言にあふれているし、教育改革は脱ステレオタイプ型で、自ら考え生み出す力をもった人材を作ろうとしている。
With AI、With コロナ、ニューノーマルの時代だからこそ、代替不可能性をもったプロデュースという仕事が求められている、と強く感じる。
プロデュースという仕事に改めて没頭するとともに、新時代のプロデュース論をnoteでいろいろ探っていきたい。
このnoteは誰かいているかというと、他でもない私のために書いているのだけれど、新時代になにか価値を生み出したいという漠然とした情熱をもった人に、その感情を言語化するお手伝いができるといいなと、思います(最後だけ敬語)。
あと、最近自分の会社をリニューアルしました。
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