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映画『さらば我が愛/覇王別姫』と現代日本について

 中国映画『さらば我が愛/覇王別姫』を映画館で見ました。少し古い作品ですが、テーマは現在でもぜんぜん有効なものでした。この映画は、1993年に公開された中国の歴史ドラマ映画で、京劇役者の程蝶衣と段小楼という主人公二人の壮絶な愛と友情を描いています。蝶衣は女性役、小楼は男性役の俳優として一緒に舞台に立つ仲間として育つのですが、稽古は厳しく、折檻も日常的に行われ、段小楼に事あるごとに助けられるうちに程蝶衣は同性愛的な感情を抱くようになります。物語は彼らの愛の成長と破綻、そして中国の政治的な変革や社会的な転換と交錯しながら進んでいくのですが、特に、弟子の小四との関係は後半部の蝶衣の運命を左右します。日中戦争が激化し、北京が日本軍の占領下となる中で、師匠が急死し一座は解散となりますが、小四だけ行き場所がなくなったため、蝶衣は彼を弟子に取ります。しかし、彼に蝶衣はかつての自分の姿を重ね、師匠に言われたままの折檻を課します。やがて、共産主義思想に順応した小四に文化大革命を背景に蝶衣は陥れられ、自分の京劇における哲学までも否定され、さらに大衆に囲まれ自己批判を強要されるシーンは強権的な芝居の作り方への否定も含んでいると感じました。そして、それにもかかわらず、順風満帆だったはずの小四も最終的に毛沢東主義者に取り囲まれるシーンには、新しい時代における芝居のあり方への疑問も提起されていると感じました。

 映画を見て複雑な気持ちになりました。いろいろなことが頭をめぐり、以前書いた↓の記事のようなことをまた、考え始めました。https://note.com/hinemosuhorosuke/n/n6ef08d4dce1c  つまり、何がポジティブなのか分からなくなってきた時代に突入しているのではないかという疑問です。例えば、スポーツの試合があって、勝つためには体罰も辞さない、という考え方は、現代日本では許されないものとなっていると思います。そしてその結果、土壇場で無理せず、勝ちのみに固執しない、「貧弱な」日本人が増えたというのは、ある視点では正しいのかもしれません。かといって、体罰のあった時代に戻ることは許されません。現代日本では、「諦める」ことも「ポジティブ」に捉えることが可能です。試合には勝つことができないが、スポーツを純粋に楽しむことができる可能性が広がっていくかもしれません。また、そもそもの「勝ち」の基準が揺らいできて、適切なルール設定とは何かに目が向き始めています。障害のある方と同じルールでスポーツを楽しむにはどうしたらいいか、という疑問やルール設計は、そのよい実例であると思われます。
 一方で、日本の様々な分野での競争力は衰える一方になっています。一時代前は日本の高度経済成長を担った科学技術力は、少子化の進行も相まって、見る影を失っています。特許取得数や経済規模で考えると急成長している中国に、ますます水をあけられています。この観点で言うと、日本の変化は「ポジティブ」とは言えないかもしれません。暴力や強権的な政治で日本全体を進歩に向けるほうが、利益の向上にはつながるかもしれません。それは芸術の分野にも適用可能で、日本文化の国際的な競争力を高める可能性もあるでしょう。つまり、現代日本では「ポジティブ」「勝ち」「進歩」とは何かが分からなくなっているとも言えます。例えば、多様性を尊重したいが、その尊重における「成功」は何なのかが分からないという場合を考えると、目標を立てられず、計画は迷走してしまうと思います。そんな時代に突入しているのではないかと思います。
 現代は、デジタルトランスフォーメーションにおける人材が求められているようです。急速にAIやビッグデータの活用技術が発展し、第4次産業革命ともいえるような時代に取り残されないための人材が求められています。中国だと「国のために」という規範がまだ国民に浸透(強制?)させられていて、そのような時代でも明確な目標を立てテクノロジーを駆使することができ、国の発展に直結しているのではないでしょうか。それを日本においてどのように考えるかが、これからの時代の日本国民に託されていると感じました。

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