日本語と英語が交互に現れる詩。について(20200212)
最近の取り組みについて書きます。日本語と英語が交互に現れる詩を作ったらどんな効果が出るのだろうと思って、作ってみております。まだ、英語のレベルも高くないため、違和感はあるかもしれません。欲を言えば、ネイティブの方とか、英語話せる人とかにコメントもらいたいです。もちろんそれ以外の人の意見も嬉しいです。
以下の2つが書いてみた日本語と英語の詩です。
・―うみべ ふゆ winter fool―
・―Curiously Bright Light 奇妙に暗い車内―
きっかけとしては、作品の同一性(の常識)のようなものを崩したいと考えたことから始まります。例えば、「シェイクスピアの翻訳の、日本独自の解釈による演出」は、「原語版の、英語圏の人の演出」と「同じ」作品の演出と言えるのか、というような疑問が発端です。特に、シェイクスピアの作品は韻文で構成されていて、日本語に置き換える際にその意味と音のイメージを両方とも正確に変換するのはかなり困難なことです。また、言語が同じであっても、人それぞれ、作品の解釈等によって「同じ」作品でも大きく意味が変わるという場面はたくさんあるかと思います。
それでも、「同じものを同じように楽しむために」、作品の質を高めたり、翻訳・字幕などの情報保証を行ったりする、というのが一般的な考え方かと思います。翻訳・字幕ならば「元のセリフの意味が正確に伝わるように」考慮することだったり、演劇でどの席から見ても同じ表情が見えるように演出し、不公平のないようにしたりすることなどです。しかし、このような、同一性を確保する・同一性に配慮する考え方によって、誰が見ても同じように見えるようにする演出はむしろ、視野を狭めてしまい、作品の魅力を損なう可能性があるのではないかと考えました。
そこで、すべてを理解して楽しむ、ということをそもそも不可能にする工夫を用いて、「人によって同じものを違うものとして捉える」ことを前提として始まる演出もあってよいのではないかと思いました。もちろん、緊急性のあるメッセージやニュースなどでの翻訳でしたら、正確に伝わるように「同じ」イメージ・行動を呼び起こすように変換することが必要ですが、娯楽の場合、翻訳されたものは別物と割り切って、違いを楽しむくらいの気持ちでもよいのではないかと思います。冒頭に載せた詩で言うと、1行ごとに分からない、もしくは、慣れていない言語(英語)が挟まって、一つの作品を構成している作品であれば、常に「他の人間(英語圏の方)は違う感じ方をしそうだ」ということを意識しながら作品を眺めることになるかと思います。どちらの言語も理解できる方であっても、「では、理解できない人はどう感じるのだろう」と意識せざるを得ないのではないかと考えました。もし、このように同一性が信用できない状態でも作品を楽しむことができるのであれば、言語や文化の違いはコミュニケーションに関して大した問題じゃなくなるかもしれません。「あなたと私は違う考え方をして、違う文化で生きている、でも、近くにいて楽しむことができた」という事実を積み上げていければ、「多様性の尊重」という言葉を少し具体化できるのではないかもと思います。
ただ、「意味がすぐに分からない」と思うと敬遠したり、退屈に感じたりすることが課題かもしれません。やはり、簡単な日本語で描かれる娯楽の方が日本では多くの人に広く広まりやすいとは思います。個人的には日本の娯楽の世界はもう少し広い視野を持った人が増えるといいと思っておりますが、そのような観点から作られた作品は広まりづらいという難点がある気がします。どう感じますか?
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