ハンザキ 第1話
雨上がりの鴨川には、誰もいなかった。サンダルを履いた僕の裸足を、伸びすぎた雑草が濡らした。
深夜一時、蛙の声が耳障りな川辺で立ち尽くす。大抵の遠距離恋愛が続かないのは、知っていた。でも僕と彼女の関係が「大抵のもの」だと、僕は知らなかった。どうやら彼女は随分と前から知っていたようで、狼狽える僕と対照的に電話越しの声は軽やかにすら聞こえた。
東京から京都、新幹線で二時間の距離は三年分の思い出を、たった二ヶ月で灰にした。大した苦労もしたことのない大学一年生にとって、こんな「よくある話」は十分過ぎる絶望で、真っ黒な川がいつもよりどろどろに見えた。
さっき買った煙草を取り出す。未成年だとか体に悪いとか、どうでもよかった。そこそこ真面目に生きてきた凡人は、チープなやさぐれ方しか知らない。
どっちに火をつけるのかも分からず、あてずっぽうに灯した一〇〇円ライターは、どうやら正解を引き当てた。こわごわ吸って、吐く。拍子抜けするくらい軽い煙は、しけった川辺に重たく広がる。
その煙の先、黒い水の中に、誰かが立っていた。川の真ん中、デルタの先端から少し下流に位置する場所に、人が立っていた。昼間こそ川遊びをする子供はよく見かけるが、こんな夜中、まして大人が立っている。不気味だった。
その人影がこちらに近づいてくる。じゃぶじゃぶと音を立て、黒い水を歩く。しかし恐怖と危機感は、僕の足を動かすに至らなかった。なんでもよかった。僕の知らない絶望の紛らわし方を、僕は探していた。
「一本くれないか?」
少し低い、ハスキーな女の声。川沿いの石段を踏むその身体は当然びしょ濡れで、長くうねった髪の毛からは水が滴っていた。長身の体には茶色の花柄のワンピースがピタリと張り付いており、体つきがハッキリと浮き出ていた。あまりじろじろ見ないようにと目を伏せる。
その人はびちゃびちゃと僕に近づくと、手から火のついた煙草を奪い取る。髪をかき上げて露わになった鎖骨と、煙草を持つ細い手首が、別れた彼女に、少し似ていた。一息吸い込んで、その人は言う。
「随分軽いの吸ってるのね」
「あ、ああ。さっき買ったばかりで」
「キミ、大学一回生?」
「え、あ、はい」
「だよね、吸い慣れた顔じゃない。何をしてるんだい、こんな時間に」
こっちの台詞だ。そう言いたかったが、もともと人見知り気味な僕は、不可解すぎる状況に言葉が出てこない。
「まあいいか、色々あるよね、ヒトだもの」
川の方に向き直り、煙草を吹かすその人からは土と水の香りがした。
「この1本、もらっちゃっていいの?」
「あ、はい」
何から聞くべきか。
「久しぶりに吸ったけど、最近はこんな軽い
のも売ってるのね」
「そうですね」
お若く見えますがおいくつですか。違うか。
「梅雨は増水するから川が濁るんだよね」
そんな川で何してたんですか。聞けないな。
「失礼。もう一本もらって......」
「お名前は」
「ん?」
「すみません遮って。お名前、なんていうんですか」
振り返る黒髪から、水滴が飛ぶ。顔に飛んできたので、少し目を細める。輝く大きな黒い目に、僕の中の何かが吸い込まれていく。
ぼんやりした視界の先で、その人は笑っていた。
「半崎よ」
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