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ひねけんの自己紹介 その1

みなさんこんにちは! ひねけんです。

私、なんと、日本経済新聞に載ってしまいました!
(2022年12月7日 関西版夕刊『関西のミカタ』。電子版では12月7日)https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF295VW0Z21C22A1000000/

日経新聞って読むだけじゃなくて載ることもあるんですね!

今回は、取材をしていただき、記事にして頂いた内容について、
その中身をより詳しく、お話をしていきたいと思います。

この内容はYouTubeでも視聴することができます。
https://www.youtube.com/watch?v=XOxf0qHsXhE

新聞を読まれた方の中には、
「日根野健(ひねのけん)?? 誰やこれ???」と、思われた方もたくさんいらっしゃると思いますので、今日は新聞記事に書いてあることも書いてないことも含めて “ひねけん” ってどんなやつなのか?、じっくり話したいと思います。

 

日経新聞の記事は、大きく4つの部分から成ります。

まず1つ目『ひねけんて何者やねん!?』という、ひねけんの紹介部分です。日経新聞では、主に公認会計士になって以降のことが記事になっています。
そこで最初は、生い立ちから「ひねけん」の由来、挫折やアクションラーニング設立の経緯などを、お話したいと思います。(CHAPTER 1

2つ目のパートは、“ひねけん” が「株式投資をどう考えているのか!?」
について。(CHAPTER 2

3つ目は、ひねけんがYouTubeに対して「どんな風に頑張ってるのか!?」ということ。(CHAPTER 3

最後に『貯蓄から投資へ』という掛け声で、日本政府が国民の資産を倍増させようという施策を提唱していますが、それに対するひねけんの想い。(CHAPTER 4

この4つについて、今から詳しくお話しします。

 


CHAPTER❶ “ひねけん”とは何者か!?

1-1 ひねけんの由来と生い立ち

「日根野 健(ひねの けん)」。これ本名です。
“ひねけん” て言うのは、そもそも小学校3年生の時の担任、小林先生が名付け親です。小林先生、髭がすごく濃い先生で、きちんと剃ってるんですけど青くなってるんです。そして、生徒が悪いことするとヒゲジョリするんです。

髭で顔をジョリジョリ。今なら体罰として問題になりそうですけど、当時はみんなワイワイ喜んで、大人気の先生だったんです。
その小林先生が「日根野健・・・ “ひねけん” やなー」と言い、それがクラスに広がって認知されました。
この後ずっと“ひねけん”と呼ばれてます。
これが“ひねけん”の誕生秘話です(秘話でもないか・・)。

 “ひねけん”がこの世に生を受けたのは、
1979年(昭和54年)、大阪市内の森ノ宮でした。
3~4歳の時に大阪の岸和田市という、元気いっぱいの街に移り住みました。
「岸和田だんじり祭り」で有名です。

岸和田の人=乱暴
岸和田=怖い人が多い
というイメージをお持ちの方が多いですが、実際そうです。
みんな怖いです。
でも、めちゃくちゃ良い人が多いです。
怖いけど良い人って、みなさんのまわりにもいると思います。
岸和田には、そういう人がたくさんいます。

保育園、幼稚園、小学校、中学校と、この岸和田で過ごしました。
朝陽(ちょうよう)幼稚園、朝陽(ちょうよう)小学校と進み、野村中学校に入学しました。いずれも公立校です。

中学校では、剣道部に入りました。
この剣道部には、岸和田警察署から警察官が指導に来ていました。中学校の部活なのに、警察署から先生が来る。その先生が、やはり怖い。岸和田警察署で働く現役の警察官ですから迫力があります。
警察官は夜勤があるので、2日に1回ぐらいしか指導に来られません。 先生が来ない日は自分たちで自主練して、先生が来る日は厳しい稽古をしてもらいました。
夏休みは岸和田警察署に行って警察官の人たちと一緒に練習することもありました。
中学校のときの思い出は、とにかく部活に尽きます。

そんな元気いっぱいの街で育ったのですが、高校で転機が訪れます。

1-2 大阪教育大学附属高校へ

大阪教育大学附属高校という、大阪ではわりと評判の良い高校に通うことになりました。地元では「大教大附属(だいきょうだいふぞく)」と呼ばれます。
校舎が3つ、天王寺(てんのうじ)、池田、平野(ひらの) にあるのですが、その中の平野校舎に進学しました。

高校に入って一番驚いたのが、クラスメート達の品の良さ!
私はそんなことは全く知らずに進学したのですが、「大教大附属」は、育ちの良い生徒が多いのです。
みんな元気で、言葉遣いも乱暴(乱暴だということも、高校に入ってから分かった!)な岸和田で育った私が、突然、育ちの良い生徒ばかりの高校に入学してしまった。
「こんなおとなしい人がいるんや!こんな静かな学校があるんや!」とびっくりしたことを、今でも覚えてます。
高校3年間は、文化祭や体育祭といった行事にがんばりつつ、勉強して、大学に進みました。

1-3 京都大学 教育学部で「教育とは何か?」を考える

大学は京都大学の教育学部に入りました。
私の両親は教師でした。父親は当初、特別支援学校、昔でいう養護学校の先生をしており、その後、小学校の先生になりました。母親は、小学校の先生をしていました。
共働きでほとんど家に居なかったので、おばあちゃんと一緒にいる時間が長く、とても可愛がられて育ちました。

小さい頃、「健ちゃん、いつもおばあちゃんが家にいるけど、いない時もあるから家の鍵をね、ちゃんと失くさずに持っとくんよ」と、渡してくれたのが、「キュウリくんのキーホルダー」です。
今も使ってます。40年近く使ってます。今でも家の鍵のキーホルダーとして愛用しています。
おばあちゃん子でした。

両親は共働きということもあり、私にはほとんど干渉しません。勉強しなさいと言われたこともありませんでした。ところが高校に入ると「学校や親からのプレッシャーを感じながら、必死に勉強してる」という友人が多く、違和感がありました。

友人が必死なのは分かりますが、その親も必死です。
親がうるさく言うので、いやいや勉強してる友人も多く、投げやりになっている友人もいました。
そんな中で、「教育ってなんやろう?なぜ勉強するんやろう?」という疑問が強くなっていきました。
「教育とは、なんぞや?」という疑問が大きくなり、教育学部に進みました。
社会人経験を20年以上積んだ今から思うと、法学部とか経済学部に進んでおけばよかった、と思うこともありますが、当時の私には教育学部が魅力的でした。
数学など理系科目もけっこう得意だったのですが、理系学部にもあまり興味はありませんでした。
ということで、京都大学の教育学部に進みました。

ちなみに学力的には東京大学にも行けたと思うのですが、普段あまり何も言わない母親が「東京は遠い。関西に居てほしい」と言ったので、京都大学を選びました。
おそらく東京大学に行っていたら、文部官僚になっていたのではないかと思います。今とは全く違う人生だったろうと思います。
2022年、母親が他界したのですが、私が社会人になってからも関西に住んでいたことで、生前、一緒に時間を過ごすことができました。

大学では「教育とは何か?」を学びましたが、未だにわかりません(笑)

ただ、考えてみると、いま私がアクションラーニングで毎週やっているセミナー。これって教育なんですよね。
自分で言うのはおこがましいですが、金融リテラシーを高めるための教育コンテンツを、毎週制作して、配信しています。
YouTubeに公開している動画も同じです。

私の中では「教育」してる、という感覚は無く、視聴者のみなさんと一緒に「株式投資を学ぼう!楽しく学ぼう!」という気持ちで、コンテンツを制作しています。

1-4 自閉症、ダウン症の子らと遊ぶサークル

「教育とは何か?」と思い入学した大学でしたが、在学中に一番力を入れていたのは、勉強ではなくサークル活動でした。

当時の京都大学は、授業に出ない学生がたくさんいました。
私も授業にはあまり出席せず、サークル活動に力を入れるようになりました。

1回生のときに、ボランティアサークルを立ち上げました。
自閉症やダウン症などの子ども達と、平日の放課後や土日などに、一緒に遊ぶという活動です。
平日の放課後は主に1対1で遊び、土日は子どもたち多数と学生多数で遠足に行きました。
子どもたちの年齢層は、小学生から中学生が中心でしたが、社会人もいましした。特別支援学校に通っている子らが多かったです。

自分の子ども時代を振り返ると、午後3時頃、学校から家に帰って、「〇〇君と遊びに行ってきまーす」と言って遊びに行ってました。
しかし、障がいがある子は、なかなかそうはいかない。
自宅でお母さんと二人きりになる時間が多く、お互いに煮詰まってしまいます。

そんなエネルギーの有り余った子どもたちと、放課後2~3時間ぐらい近所の公園に行って一緒に遊んだり、土日にみんなで遠足に行きます。
子どもたちは楽しい時間を過ごせるし、その間、ご両親はリフレッシュできます。

私が子どものとき、父親が働いていた特別支援学校を見学させてもらったことがあります。
その時に感じた、障がいを持つ人に対する恐怖心のようなものや、好奇心、そしてその子たちのために一生懸命働いている父親の姿が心の中に強く残っていて、大学時代のボランティア活動につながったのだと思います。

とても有意義なサークル活動だったと思いますが、私を含め、それに参加している大学生たちは、「社会貢献になるから」といった意識は全くなく、ただ「子どもと遊ぶのが楽しいから」という気持ちだったと思います。

ESG投資、社会的責任投資といった言葉がもてはやされます。
しかし、私がサークル活動で経験したことに基づいて思うのは、「人は生まれながらに助け合う本能を持っている」ということです。
その行いが、他人に賞賛されるから、金銭につながるから、ボランティアのような活動をするわけではなく、人は本能的に助け合うものだと思います。

そもそも、ボランティア活動をしたことがある方なら分かると思うのですが、「ボランティアする側が、ボランティアを受ける側を、一方的に助けている」のではなく、「ボランティアする側も、ボランティアを受ける側から、なにか言葉にすることの難しい恩恵のようなものを受けている」ものです。

その最たる例が子育てです。
親は、子に対して、一方的に、なんら見返りを求めずに、愛情を注ぎ、様々なお世話をします。では、親が子どもから何も受け取ってないかというと、そんなことは全然ありませんよね。言葉にすることは難しいけれど、大切な幸せな何かを受け取っていると思います。

仕事も株式投資も同じだと思います。
仕事においては、売主が買主に一方的にサービスを提供しているようで、実はそうではない。
株式投資においては、投資家が企業に対して一方的に資金を提供しているようで、実はそうではない。

上場企業を含め、企業が環境や人に優しい行動をするのは、人間の本質に根差した当然の行為であると思っています。
しかし、現実には、世知辛い社会になっていて、人間が有するそのような助け合いの本能を信じていない人もたくさんいます。また、人を助ける素晴らしい企業がたくさんあることを知らない人もたくさんいます。

私は、動画制作を通して、そのような素晴らしいことが、社会のあちこちで日々起こっているということを多くの人に伝えたいと思っています。

1-5 挫折

その後、大学卒業が近くなって公認会計士を目指していくわけです。
もちろん株式の事など全く知らないこの頃に、なぜ公認会計士を目指したかと云いますと、公認会計士に限らず何かの専門家になりたかったんですね。
僕は小さい頃から余り協調性がなかった子どもだったみたいで、例えば幼稚園の時に、みんなでお遊戯してる時間でも教室の隅っこで座っていて、みんなが「ゾウさんだよとかキリンさんだよ」って真似をしてる時に「僕はゾウさんじゃないから出来ない」っていうような子どもだったんです。
可愛くないですね。

で、やっぱり自分でピンでやっていけるような専門職がいいじゃあないかと思った。ならば弁護士か公認会計士だろうと思ったんですね。でも弁護士はなんか 争いごとに囲まれた仕事じゃないですか。それ嫌だったんですよね。

争いごとより平和がいいやと思った。協調性ないけど平和は好き、っていう教室の隅で平和を祈ってるっていう、そういうキャラクターだったんですね。
公認会計士ってビジネスの現場に行ったりして、クリエイティブな部分もある、と思ったんですね。祖父と叔父が公認会計士だった影響もあるかもしれません。それで公認会計士を目指して勉強を始めました。

そして、2003年に監査法人トーマツに入所します。

1998年に大学に入学して2002年に卒業してるので、監査法人に就職するのは、本来であれば2002年のはずなんですが1年ブランクがある。なぜか?

公認会計士認定試験に・・・・・・・「不合格」。
試験に落ちた。

トントン拍子で来た人生の中で、最大の挫折です。

この時すごく迷って「もう1年勉強続けるのか、それとも・・・」と。

だってこの不合格が判明した時、大学を卒業して半年経ってます。友人たちは社会人になり活躍し始めているなか、試験浪人するというのは心理的なハードルが高かったです。
もう1年勉強を続けるかどうか、すごく迷いました。

けれどもその時に、私の友人の松原(彼は、今もアクションラーニングにアドバイスくれたりして、私の活動を応援してくれている)に相談したんです。

「松原、俺、もう公認会計士の試験諦めようか迷ってんねんけど、どう思う?」って。
そしたら「もう1年がんばったらいい」と、即答され「わかった。お前がそういうなら俺、がんばる」って即決めです。
この松原って、めちゃくちゃ頭が良いのですが、超冷酷なんです。
その彼がもう一年頑張れと励ましてくれた。言い方きついけど実は優しい。
で、「じゃあがんばるわ」ていうことで、もう1年勉強することにしました。
この時はさすがに勉強しましたね。毎日朝8時から夜9時まで京都の専門学校TACで勉強してました。
その時は思いもしませんでしたが、ここで一緒に勉強した仲間が、社会に出ても貴重な友人として付き合いが続いています。

翌年の公認会計士試験に合格し、監査法人トーマツ(以下、「トーマツ」)に入ることができました。
この時は嬉しかったです。めちゃくちゃ喜びました。

当時は、強烈な就職氷河期でして、公認会計士試験に受かったのに就職先がないかもしれない、という時代でした。
トーマツで、私を採用してくれたのが、いま当社の取締役でもある公認会計士の新井さんです。新井さんが面接官で、「日根野、来い!」って言ってくれたんです。

他にも多くの方々に助けていただきました。
みなさんに感謝しながらトーマツで働き始めました。

トーマツでの仕事は、主に上場企業の監査。それ以外にも、非上場会社の監査。その他、学校法人や社会福祉法人、公益法人(当時は社団法人・財団法人)など、いろいろな性格の団体の監査を経験させていただきました。

1-6 資本市場の中心と辺縁

上場企業監査の醍醐味ってまさにそうなんですけども、適時開示資料を出す前にその内容をチェックして、「うわすごい決算や!これ出たらえらいことになるぞ」みたいな決算書を見ながら監査していくわけですね。
それでその決算が発表されることによって株価が上がったり下がったりとか反応して、まさに資本市場の ど真ん中にいるわけですね。お金のうねりを感じる訳です。

「今度新株発行します」とか、「社債発行します」とかで、商品がドカーンと売れて、もの凄いお金が入ってくるとか、株式市場のうねりを感じる、そんな場所にいたんですね。

で、そんな時にふと思ったんです。

お金のうねりの中で働いている今、「あれ!、大学の時にサークルで自閉症の子とかダウン症の子とかと遊んでいたあの時と、 めっちゃ違う世界に来てもうたな俺!」と思ったんですね。全然違うところなんですよね。

こう資本市場の中心と、どちらかというとそういった障害などがあると、なかなか働きづらい、お給料がなかなか沢山もらえないといった資本主義の周辺の方にいる子たち。

ものすごい温度差があって「この差ってなんなんやろう」って思ったのが、この監査法人時代です。

それで気が付いたんです。株式投資って、実は資本市場のうねり中心の部分と、周辺の方にいる、たとえばちょっと働きづらい人たち、中心部分に行きづらい人たち、世の中でなかなか厳しい目に遭ってる人たちとを繋ぐ架け橋なのかなって。
当時はこういう言葉はなかったけれども、今でいえば正にESG投資ですよね。

でね、そういった資本市場の中心と周辺をつなぐ機能がある企業に「俺たち投資するぜ」と思う投資家がいっぱい出てくれば、実は世の中変わっていくんではないかと思ったんです。

僕が大学時代の時に遊んでいたダウン症とか自閉症の子どもたちも、こういった風に投資に係わることによって、資本市場の端に弾かれてたのが、少しでも真ん中の方に行ける、社会に参加しやすくなるんじゃないか?ていうことに気づいたんです。

「あっ!これは監査法人で働いている場合違うぞ!」と、思ったわけですね。

「俺には、もっとやらなあかんことあるのと違うんか? いやある!」

障害持った子どもたちの顔が浮かんできたんですよ。
こういった思いで始めたのが、株式会社アクションラーニング。そうこの会社なんです。

監査法人時代にもう一つびっくりしたのが、同僚の公認会計士とかの話を聞くと、公認会計士なのに決算書を見ずに株式投資してるんですよね。
もちろん監査対象の企業とか、自分が担当ではなくても同じ監査法人のクライアント企業には投資できません。
しかし他の監査法人が監査してる企業などは、インサイダー情報もないので投資できるわけです。
しかしですよ、投資する時に、ほぼチャートだけ見てやってる公認会計士が本当に大勢いたんですよ。
「何で決算書読まないの?専門家違うの」って思ったですね。
会計監査のプロでさえも、決算書を見ずにチャート見て売買してるだから、恐らく一般の人なんて決算書読まないで投資している人が多いだろうと思いました。

決してチャート主体の投資を否定している訳ではありませんが、「企業の中身をもっとよく見て株式投資をやろうよ、そうすれば上がる下がるだけではなくて、もっと沢山の醍醐味が味わえますよ」と、伝えたかったんです。

例えば障がい者の雇用とか福祉関係に力を入れてる企業に焦点を当てて投資をする。そんな投資を世の中に広めていけば、そんな投資もいいんじゃないの、っていうことを発信していけば、ちょっとは僕もお役に立てることがあるんじゃないかなあと思ったんです。

特別支援学校で働いてた父親の顔が、小学校の先生やってた母親の顔が、大学の時のボランティアで出会った子どもたちの顔が、パッパッと、走馬燈のように浮かび上がり「アクションラーニングでやれることがある!」と思って始めたんです。
それから今まで 15年間ずっとこの気持ちは変わらずやってます。

私のYouTubeを見ていただいてもおわかりと思いますが、「株式投資で儲けようぜ」とか「投資はチャートだぜ」じゃなくて、「この企業って実際どんなビジネスしてるの?」とか「この企業ってどんな風に世の中の役に立ってるの?」など、そういった動画をいっぱい作っています。

その背景には、こういう私の歴史があります。ということを私、日経新聞の記者さんにひたすら語り続けました。もちろん紙面の関係があって全部は書かれていないので、今お話しているわけです。

この思いは、私が将来どんなに浮いても沈んでも、決して変わらない真実です。

1-7 アクションラーニングの15年

ここからは、この15年間に私がやってきたこと、アクションラーニングでやってきたことを話します。

アクションラーニングは2007年に始めたんですけれど、もちろん紆余曲折ありました。
始めるにあたって監査法人を辞めたんですけれども、スタートしたばかりの会社で稼げるはずもない。
しかしながら、嬉しいことに監査法人時代にお付き合いのあった方々が、「じゃあ日根野、うちの仕事手伝えよ!」って応援してくれたんです。
監査の仕事自体は、私がもと籍を置いていた監査法人トーマツが当然やってるんですが、それ以外の「こういうことがあるからコンサルやってよ」とか「講演しに来てよ」というように色々な仕事をくださったんです。
また、独立した先輩が監査の仕事を回してくれました。

そんな感じで、公認会計士としての仕事を、案外たくさん頂きました。
実はその仕事が結構面白くて、色々な経験をしました。

基本「来る仕事は拒まず」のポリシーでお請けしてました。
その中でたとえば不正の調査、「実はね、従業員が会社のお金を横領してるっぽいんですよね。調べてもらえませんか」みたいな。そんな仕事、なかなかやれないでしょう。
あるいは自治体、京都府とか 滋賀県とか京都市とか、そういった自治体を監査する仕事があるんですね。
包括外部監査と言うのですが、こういった自治体の監査をする仕事もやらせていただきました。今でこそ話題になっている自治体のDX。自治体のシステムが抱えている問題については、この包括外部監査で実際に監査しているので、ニュースなどの報道を見ても、わりとピンときます。1つの自治体の中でも、部署が違えば違う業者に発注して同じようなシステムを開発・運用している、ということがあります。そういったことも公認会計士の立場で見てきました。
また、入札や指定管理者の仕組みなどについても、包括外部監査を通して学びました。結局、包括外部監査については、約10年、やらせていただきました。
普通の人だと滅多に入り込めないような自治体の仕組、会計、実際の施設等を見せていただいて、なるほど世の中ってこんな風になってるのか、ていうのを実体験として見てきました。

さらに、ある監査法人のパートナーを数年間でやらせていただいたこともあって、これも大変有益な勉強になりました。
また監査のサイナー(サインや署名をする人)も経験しました。

こういったいろんな経験を積んだりしながら、そしてその経験をアクションラーニングにおいてYouTube動画や公演・セミナーの内容にフィードバックしながらやってきたんです。
私の講演を聞いた方はご存知かと思いますが、私の話って、結構現場で見てきた感ある話がちょこちょこあると思うんすけど、これは公認会計士の仕事の経験から来ているのです。

また税理士事務所もやっていて、税務顧問として大阪の中小企業の社長さんとの親しいお付き合いもあります。
夜、大阪の社長さんと食事しながら「やっぱ金儲けやなー、日根野さん」なんて言われて、「そうですかー」と会話しながら、「色々な人がいて、今の資本主義社会があるんやなあ」と実感しながら仕事してるわけです。

アクションラーニングの方は、京都や大阪で会場セミナーをやったり、会員に「ニュースレター」や「企業分析レポート」を冊子にして毎月郵送するような活動をして、細々ながら会員を獲得していきました。

で、こんなことをあれこれ色々やりながら2013年に転機が訪れます。

1-8 アベノミクスという転機

アベノミクスです。株が爆上がりした時です。
この頃に、SBI証券や楽天証券からセミナーの講師の依頼を頂戴しました。
「日根野っていうなんか面白い男がいるからこの人に講師させるといいよ」っていう口コミというか、紹介があったようです。

すごい回数やりました。
SBI証券では、主にリアルな店舗でやらせていただきました。
楽天証券では、ひたすらオンラインセミナーを毎月行ってました。
今の二子玉川本社に移る前の時からです。
ここで少しずつですがセミナーに慣れて、また世の中の日根野やアクションラーニングの認知が広まり、アクションラーニング会員も増えて行きました。

そんな中で2019年に、ついに「本を書いてくれ」というお話が来ました。
YouTubeとかオンラインのセミナーを見ましたという事で、本書きませんかという話となりました。
これが2019年に出版した初めての著書(共著)ですね。
これ結構嬉しかったです。親に渡しました。「本を書いたわ」って言ってちょっと照れながら。「おかん嬉しいんかな」とか思いながら。

この後2020年、あのコロナの蔓延があるわけですけれど、ちょうどその年の1月頃から YouTubeで 本格的に動画の配信を始めたのです。

YouTubeは以前からも活用してたんですけども、当初はクローズド(会員のみの限定公開)で使ってました。
セミナーは原則ライブストリーミングなのですが、それに参加出来なかった会員さんに向けて、2014年4月からアーカイブをYouTubeにアップしてました。

そして、2020年からは一般の方々に向けた、株式投資に関するYouTube動画を配信するようになったんです。

そこで、先述の松原に「YouTubeで真剣に勝負しようと思っとるけど、どない思う?」と尋ねたら、松原からは「日根野、チャンネル登録者10万人を目指してください。と言うか、10万人できないならアクションラーニングなんてやめちまってください!」みたいなこと言われたんですね。

その当時、ひねけんチャンネル(その当時は「アクションチャンネル」という名称でした)の登録者は、わずか2,000人。
それなのに、めっちゃくちゃクールな感じで「10万人!」と言われて、「わかりました。10万人目指します」と宣言したんです。
ということで、ここから「10万人を目指すプロジェクト」が始まったわけです。
あともう少し。今、9.1万人(2022年12月時点)なので、あと少しで10万人達成できるわけですね。

ただ10万人達成するまでは、松原に会う度に「まだですか?日根野さん。10万人はまだですか?」って詰められるわけです。
今までの約3年間、「どうやって10万人達成するんですか?今のやり方がよくないんじゃないですか?」とか詰められ続けてました。その度に「すいません頑張ります」と。

そして今9.1万人に至ってるわけです。

そんな中で2022年12月7日、日本経済新聞になぜかデビューしてしまう。
読むはずの日経新聞に掲載されるということが起こったんです。

ここまでがCAPTER❶、「”ひねけん”とは何者か?」でした。


ひねけんの自己紹介 その2

CHAPTER❷ “ひねけん”は株式投資をどう考えているのか
に続く。


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