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ヒナタのポテンシャル#2 生い立ち

放送作家になると決めて早3か月、先月名刺を作りもう手元に届いたので、もう「放送作家」と名乗ってもいいでしょうか?笑 本業はあまり名刺を渡す機会がなく、バリエーションもなく会社から画一的な物を持たされるので、2枚目の名刺かなり奇をてらってやりました。みなさま、ぜひ名刺交換させてください。(どこかでこの名刺作成に至るまでの話もします~。)

ちなみに世界のGoogleの名刺はカラーバリエーションがあるらしいです。1人で同じデザインの違う色を何色か持ってるんだって!

前置きはさておき、今日はわたしの生い立ちについて書いていきたいと思います。

生い立ち

0歳:旭川市で記録的猛暑日に産声を上げる。でも名前はユキ。

2-5歳:北海道のド田舎で育つ。どれくらい田舎かと言うと、コンビニはないし、スーパーもコンビニくらいの「商店」って感じの大きさのが1つ。米とか野菜は農家から直接買っていた。だから、買い物の時はトマトを買うために○○農園へ、新米の予約する為に○○農家へと車を走らせ親はなかなかな苦労だったと思う。笑 私はMr.ビーンとモーニング娘。が好きなおてんばな保育園児だった。母の爆笑珍連絡帳については今後マガジンとして投稿予定ですのでお楽しみに。

6歳:引っ越しと同時に、芸術教育と言われるシュタイナー教育の幼稚園にぶち込まれる。それまでは2歳から保育園で若い先生と一緒に朝はモー娘歌ってたり、昼はギャーーーっと泥まみれで走ったりしてたから慣れずに1年間終わった。笑 シュタイナー教育ってかなり不思議な教育法だと思う。みんな小人が見えるっぽかったし。私には見えなかったけどね。園にはヤギ・ウサギ・ヒツジ・ニワトリ・馬(ポニー)なんかがいてミツロウ粘土とか機織りとかハープとかで遊ぶの。給食のパンも天然酵母、おやつは煮干しと昆布みたいな幼稚園だった。あんまり幼稚園が好きじゃなかったからか、私めっちゃ動物に苦手意識があって今も好きではない。だって、ある時ヒツジの毛刈る儀式みたいなのが始まってヒツジの毛を刈る衝撃と言ったら・・・恐怖に近かった。笑 なんか血とか出てるし、ヒツジ。でもってその毛をつむいで、幼稚園児に機織りさせるんだからすごいよね。

シュタイナー教育って多分ホントは素晴らしい教育法だけど私は保育園時代に人格形成においてもう既に出来上がっていたものが多くて、突然すぎたから合わなかっただけだと思う。

小学校:低学年は私の我が強すぎて嫌われてたけどあいにく、「私悪くないし~」と、屈託な?精神を持ち合わせていたので多分浮いてたと思う。笑 クラスのコミュニティに合わないから他のコミュニティを!ってことで母が見つけてきたミュージカルに挑戦!4歳から40歳くらいまでいて、とっても楽しかったけど小学生ながら毎日疲れてた。週2~3で夜までレッスンあったからね。ちなみに初舞台は、クロツグミ(鳥)の役でした。高学年になるとさすがに小学校にも馴染めて、しゃしゃり出て生徒会(副会長)とかやっちゃってるし、小5では国内留学プログラムみたいなので高知県に3週間くらい行ってたし、応援団長やりたすぎて男の子との声出し勝負みたいなので喉つぶした上、結局なれなくて悔しすぎて泣くと言う挑戦的で激しさがこの当時からあった模様。

中学校:バドミントン部で部自体は強くて全道大会に出ちゃうくらいのレベルでトップの子たちはスポーツ推薦で高校を決めていっていた。私は中の下くらいの立ち位置だった。笑 もちろん中学校でもしゃしゃり出て生徒会をやっていた。ただ、会長ではなく副会長と少し話のインパクトが薄れるのだが・・・。2008年、洞爺湖サミットに沸いていた北海道ではそれ以降何かと「○○サミット」っとつけて色んなイベントをやっていた。そんな中もれなくそのサミットフィーバーに教育委員会が目を付け、「市内中学生サミット」ここで市内15か所くらいの中学会長・副会長が集まり週1回、色々話すのだが会議がまあ長い。やる事もそんなに決まっていないボヤっとした会議にしびれを切らした私は何を思ったか「ええーと、結局何がしたいんですかね?私たち生徒が自由やりたいことを提案して調整は先生や教育委員会の皆様に任せればいいんですよね?とりあえず会議テーブルを辞めませんか?」と全然関係も脈絡のないタイミングでぶち込み凍り付かせたのがハイライト。生徒会担当の私たちの先生は「よくぞ言いました!」って帰りの車のなかで言ってくれたけど流石にヤバい奴すぎる。その次の週からは椅子しか用意されてなかった(笑)

高校:中学でやり切った感があったので高校ではやってみたかったバレーボール部に入部。初心者も同学年に何人もいたが、私は下手すぎて指の骨折ったり、足首を骨折したりして実際にちゃんとやったのって1年くらいだと思う・・・(笑)あと、高校時の留学について、シティプログラムで1か月間アメリカオレゴン州に留学した話はまた書きます。ただ、ひたすらに騒いで部活して遊びほうけていたにも関わらず、受験前に道外に出るなら私立は辞めてと言われていたので、死ぬ気で勉強した。文系なのに恩師(小学からここまで先生が大嫌いだったけど、高校1・2年の担任の先生は理解があり唯一恩師と呼べる人。生物担当。)のおかげか生物が主たる得点源、英語は留学1か月くらいじゃ伸びず6~7割くらいでまぁ絶望的、国語は壊滅的、社会・数学は元々好きでまぁまぁ点が取れるという謎な国際関係学志望の高校生だった。

大学:4年制国公立大学だったが、第一志望には落ちて、後期入試で入っているので、最初マジで嫌だったしここを第一志望で入ってキャピキャピしてる人をなんか良く思えなかった。で、他の大学へ編入も本気で考えたが、留学は絶対したかったので留学の事を考えると、制度は充実していたのでこの大学に留まろうと思い編入はしなかった。大学ではサークルはいくつかやっていたしバイトは常に2つくらい掛け持ちしてたけど授業には真面目に出ていたので早々に単位を取り終え余裕で卒業した。ただ、大学時代でちゃんと今も互いに連絡をとり、価値観が近いなと思える「大学の友達」と言える子が1人しかいない。バイトやインカレサークルでは居たが、同じ大学の友達は多分1人

以上長々と私の生い立ちを書きましたが、私が放送作家として、活躍するようになったら、この内容がまんまウキペディアに載ると思います。皆さん、5年後にウキペディアでまた同じ内容を見つけて読んでやって下さいね。笑

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