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熊代 亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を読んで連想したこと

この記事は、何においてもアマチュアな浅学者が自分の日常生活に照らしてぼんやり連想しただけのものであって、論理的な問題提起ではないことを、先におことわりします。

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』についての理解

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』の問題意識は、以下のようなものだとわたしは理解している。

「一億総活躍社会」≒全人口の通念・習慣がブルジョア的でハイクオリティになった現代日本社会において、以前であれば社会に溶け込んでいた一部の人々が秩序から「はみ出し」(ているように見え)、生きづらさを感じている。
秩序立った社会は、そのような人々がそのようなままであることを許容しない。秩序だったハイクオリティな社会は、彼らを半ば強制的に、しかし善意を以て「漂白」し、多くの人からは正しいと思われている現代日本社会の「アドレス」のどこかに「再配置」する。

正しいどころか当然のあり方だと思われている現代日本社会において、そこで求められている清潔さや秩序、コミュニケーション能力を身につけていれば、人々は社会に疑問をおぼえることすらなく快適に日常生活を送ることができる。
反対に、何らかの理由で清潔さ・秩序・コミュニケーション能力等を欠く人々は日常生活を送るうえで不自由を感じ、そのままの状態でいることができない。

つまり現代日本社会では、自由に生活を営むためには清潔で静かである必要があり、その条件に合格しなければこの社会に「相応しい」一員として均一化される必要がある、という「制限付きの自由」だけが認められている。

誰もが多様性を称賛する一方で、全人口が自由を享受できる理想的な社会であるとは言えない。

東京生れ東京育ちの健康なZ世代であるわたしでさえも、「健康的で清潔で、道徳的で秩序ある社会」に生きづらさを覚えている

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』では、現代日本社会の不自由さについて、著者の熊代先生が「昭和時代の片田舎」で生まれ育ったからこそ見えるという文脈で述べられている箇所がいくつかある。

しかし現実に、生まれた瞬間から東京の秩序に洗われて健康に育ったわたしでさえ、日常生活で疎外感や劣等感を覚えずにはいられないことがある。

同書で挙げられている違和感とずれた、あるいはあまりに些細なものもあるかもしれないが、同書を読んでいて想起された日常生活におけるちょっとした不自由さを以下に書いていく。

死にたさ、生きづらさの表現を追放する社会

死にたいという言葉を希死念慮とみなして心療内科や精神科の受診に繋げるのは、たしかに自殺率を下げることに役立っているだろう。
しかし「死にたい」というぼやきが医療用語の「希死念慮」と捉えられるようになったことで、安易に「死にたい」と言えなくなったことは間違いない。

個人が運営する完全匿名のSNSで「死にたい」と投稿しようとすれば、「NGワードが含まれています」という警告が表示され、投稿することができない。
Pinterestでは、自分の好きな映画「17歳のカルテ」に関する画像をピンしていただけでホットラインに案内される。

SNSでさえそうなのだから、中高時代の先生や大学のカウンセラーに「死にたい」など言えるわけがない。わたしはそうだった。
生きづらさを感じることが少なくない自分にとって、この状況は窮屈に感じられる。

現実問題として、SNS運営者が間接的に自殺や犯罪の幇助をしてしまわぬようにリスキーな投稿を弾いたりホットラインに案内したりしている、というのは理解できる。
しかしその一方で、死にたさ、生きづらさの表現が外へ追放されているような感覚も覚える。

コミュニケーションからの逃れられなさ

BUMP OF CHICKENの曲「続・くだらない唄」には次のような歌詞がある。

湖の見える タンポポ丘の 桜の木の下で
手頃な紐と 手頃な台を都合よく見つけた
半分ジョークでセッティングして そこに立ってみたとき
マンガみたいな量の 涙が溢れてきた

数年前にもこの場所で よくこっそり泣いたっけ
“あのコに振られた” だとか 可愛いもんだったけど
数年前と同じ気持ちで 朝日を待ってんだ
あのやたらとくだらない唄も 歌いながら

原因不明の涙を流しながら あの日の気持ちで朝日を待つ
……

中高生時代のわたしは、この歌詞の心情に共感しつつも、歌詞に登場する「桜の木」のような場所が身近にないことが悔しく悲しかった。

美しく整備された(特に東京の)街には、こっそり泣ける場所がない。うずくまってひとりで誰の目にも触れずに悲しみに暮れられる場所がない。

悲しみを感じたり悩みがあったりすれば、それを誰かに打ち明けて元気で健康になる必要がある。不健康な精神で、鬱屈としたまま、ひっそりと社会生活に溶け込むことはほぼ許されない。健康で秩序ある社会で自由を享受ためには「回復」するか、「回復」したように見せなければならない

駅近くの牛丼屋は確かに「透明人間」になれる場所だが、それ以上に自分の存在を消せる「桜の木」がないことを嘆いてもいいと思う。というより、嘆くことを許してほしい。

不健康を絶対悪とする社会

健康は、現代日本社会における「普遍的な価値観」によって、良いことであり保てて当たり前のものとして捉えられている。
反対に、病気は悪いものであり、病気を治すことは良いことだと考えられている。
このような社会では、病気になったときそのまま蝕まれ続けること(そして死に近づくこと)をもはや他人が許さないだろう。

わたし自身は痛いことが嫌いだから、手術等をしなくてよいようになるべく健康でいたい(逆に、手術の必要があるなら死んでも良い)と思っている。
インフルエンザはつらいので、予防接種のワクチンも受けたい。でも注射は痛いから嫌いだ。だから気が向いたときと強制されたときだけインフルエンザのワクチンを打ってもらうことにしている。

わたしの個人的な好き嫌いの話はさておき、ほんとうの意味で「自由」な社会では、人は健康でなくてもよい。

アルコールにはまってしまったら人に迷惑をかけない程度に飲み続ければよいし、煙草のリスクが分かっていてもやめたくないなら吸い続ければよい。ワクチン反対派は、(ワクチン反対を赤の他人に押し付けるのはよくないかもしれないが)ワクチンを打たなくてよい。

しかし現実はそうではない。
アルコールにはまってしまう状態は「アルコール依存症」と診断され、治療されるべき対象となる。煙草も同様だ。ワクチン反対派の人が自分にワクチンを打たないことは許される一方で、自身の子供にワクチンを打たせないことは虐待とみなされるかもしれない。

手術をしないと治らない癌を患った人が、痛いのが怖いからという理由で手術を拒否することはあるだろうか。
正しいことは分からない。しかしもしないとすれば、その背景には、特に目的がなくても長生きしたい、病を駆逐して健康でありたいという普遍的な価値観があるのではないだろうか。

直接的に医療に関わることでなくとも、不健康的な生活をしていることは、罪悪感の原因や批判の的になりうる。
例えば「運動をしていない」「ほぼ毎日ジャンクフードを食べている」ということは、よほどオープンな性格でなければ人に言いづらい。
身の回りでも「毎日筋トレしている」「健康のためにしばらく禁酒している」という話はよく聞くし、大学生の女の子が「1週間に7食ラーメン食べてる」と言おうものなら「太るよ」「やめたほうがいいよ!もっとサラダとか食べなよ」などと善意による(?)辛辣なアドバイスが飛び交う。

人々は健康長寿を自己目的化し、たとえ人生をかけて達成したい目的がなくとも健康を礼賛し、不健康を絶対的な悪とみなす。
リスクを理解したうえで不健康的な選択肢を選ぶことは、社会規範によって批判される。

そしてわたしが今健康の価値について少しの疑いを持って述べていること自体が、おそらく多くの人にとっては異様に映る。

健康・美しさについて劣等感を煽るネット広告の醜悪さ

これはわたしが大学1-2年生のころから問題視してきたことだ。もはや現代日本社会が持つ問題というよりも日本のネット広告会社特有の問題と言えるかもしれないが、どうしてもここに書いておきたい。

インターネットメディア(特にキュレーションサイトや大衆向けの娯楽ニュースサイト)には、記事に混じって広告が配信されるアドネットワークが組み込まれていることが多い。多くのアドネットワークでは、男女問わず若さや美しさを保つことを過剰に煽る広告が配信されている。

「こんなに酷かったシミがぽろっと取れる!」「彼氏に臭いと言われて振られた……(だからこの商品を使ってみた)」のような、コンプレックスを刺激するネット広告に見覚えがないだろうか。
これらはメディアの記事特性やユーザの行動履歴にほぼ関係なく、記事と見間違えてクリックされページが遷移することを目的とした広告だ。先に述べたように、美容・健康などに関して消費者のコンプレックスをみだりに刺激する文言が使われることが多い。

このようなネット広告によっても、健康・美しさを保つことができない人々は劣等感や罪悪感を覚えることになる。
そして広告のキャッチコピーが過激になればなるほど、一部の恵まれた人々が美しくなればなるほど、人々が社会から求められていると思う健康・美しさの基準は上がり、より強く劣等感を覚えるようになる。

子育てのリスクとコスト、親が子に求めるものの大きさ

育児にかかる心理的・時間的・金銭的コストが高いゆえに、親の子供に対する期待は大きくなる。子供に対する期待が大きくなればなるほど、さらに育児・教育にかかるコストは高くなる。
これに伴って、カップルが新しく子供を育てることのハードルは上がり、親の子に対する期待も高まる。

資本主義が疑われさえしない所与の価値観である現代において、人間の子供は生れたからには世の中に求められており、経済的リターンというかたちでなにかを生産することが義務付けられている……と言っても過言ではない。

生きているということは生産的でなければならない、とも言い換えられるこの考え方は、忌み嫌われる優生思想と地続きなのではないかと思うことがある。

子供は自ら生れたくて生れたわけではないのに、親は「投資」に見合った「リターン」を子に求め、子供は無言の圧力をかけられ親の顔色を伺いながら「生産的」になるために優秀にならねばならないというプレッシャーを感じることになる。

わたし自身がそのような環境で(大切に厳しく)育てられた子供だった。特にハイクオリティな東京の社会で子育てするうえでこれは必然だったのだろう。親という存在が負うことを求められるリスクやコスト、責任の大きさ、不自由さを感じざるを得ない。
そのような環境で大切に厳しく育てられる子供のプレッシャーもやはり、間接的に社会から要請されたものであると考えても間違いではないだろう。

人生設計をすることが当たり前の社会

長寿を希うことは当たり前、若いうちにある程度キャリアアップして収入を増やしパートナーと結婚したら子を養うのは当たり前、そしてその後の育児や老後に耐えうるようにお金を運用して貯金して計画的な人生を送るのも当たり前、という通念があるとわたしは感じる。
この通念から外れたパスを歩む人々は「負け組」と認定され、それだけならまだしも、彼らは社会的信用を得ることさえ難しくなる。たとえば三十路の女性にパートナーが居なければ「余り物」と揶揄され、独身男性はもしかすると「なにか怪しい」「不審者」と言われることさえあるだろう。親族からの圧力もあるはずだ。

そして副次的に、社会人は成長したい・なにかの目標を成し遂げたいと願っていて当然という空気がある。すべてがそうではなくとも、少なくともそういう会社が存在する。

わたしはこのような傾向にとても窮屈さを覚える。健康における「愚行権」(この言葉が正しくないにせよ)があるように、不健康的で不道徳で好き放題に放蕩してさくっと死ぬ、そのような人生を送る自由が認められるべきで、そのような人生を送る人が疎外され不自由を感じてはならないと思う。そして「愚行権」が表す不健康的な生活スタイルが愚かではないのと同じように、そのような人生も決して愚かではない。
しかし社会はそのようなはみだし者を認めず、ひとたび社会のロジックに足を踏み入れればこの通念に沿ったパスを歩むことが絶対的に正しいとされる。

前述の通念がすべての人に守られるべきものとはまったく思わないし、私自身守りたいと思えない。

しかしこの社会で、社会の明言化されない決まりごとを嘲笑いながらも そこそこの自由を享受するためには、一歩引いて冷静になり「普遍的」な通念・習慣・社会規範を守ってゆかねばならない。

参考文献

熊代 亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』

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