教員迷子 意地〜単身赴任〜

2008年10月、教育実習が始まった。

横浜市の緑区にある小学校で教育実習。それまでは、西区の小学校を中心に教育ボランティアをしていた。「児童理解」「学級経営」「授業準備」燃えに燃えていた俺は教育ボランティア先で読んだ教育新聞に記載されていた教員が主催するセミナーやサークルに片っ端から参加してそれらの情報を集めていた。

その当時、学生がセミナーやサークルに参加することが”おかしい”とされていて、参加しても声をかけられないどころか、「おかしいヤツ」と見られたいた。それだけでなく、「こんな所に来るなんてお前は時間の無駄遣いをしている。帰って教員採用の勉強をしろ」など言われたこともあった。


サークル熱が高くなった2007年の春頃、俺はあるセミナーに参加した。

そのセミナーでウケがいいもの、惹きつける所だけをメモし、精査した。そこで浮かび上がったのが「伸ばすこと」である。何か一つ、ここを育てるといい気がするというのを見つける嗅覚みたいなものが人より優れているのだと考察する。これこそが俺のポテンシャルやフィジカルというものだと感じ、伸ばすことができる発言を作り続けた。それが功を奏し、日に日に子供との関係が変わってきた。

この頃は、どんな子でも負けないというよくわからない自信があった。それまで積み重ねていた経験もあってのことだ。それがあったから進んでこれた。


2008年10月、教育実習という「教員」になるための登竜門を迎えることになった。これを通過するためにやってきたといっても過言ではない。前年に何もしないで遊んでいた先輩たちがもがき苦しんだと言われていた。彼らが何もしてなかったとしたら、俺が苦しむはずがない。失敗は許されない。来年じゃ駄目だ。「一発で仕留める」という覚悟のもとで挑んだ。


その年の5月ごろ、養成学校が決めた学校に面接に行き、そこで学習ボランティアとして授業のアシスタントをした。

そのおかげか、子供は俺に対して壁を作ることや、変な拒否反応はなかった。

「授業づくりネットワーク」という教員だけが集まるセミナーに参加したことがあった。それは、「学級づくりは授業づくり」が発動されていた頃だった気がする。そこの講師として、「面白い授業で子供を惹きつける」という代名詞を作った「土作」先生、「赤坂」先生がいた。二人は、それまでいろんなセミナーで先生を元気づけるプロ教師として、あちこちに登壇したほどだった。当時は、「お笑いを教室に持ち込む」ということがダメとされたが、今では「緊張と緩和」という視点から取り入れられている。

当時、二人に魅了された俺は全国各地で登壇する二人を追った。神戸でセミナーがあると聞けば、神戸までセミナー受講しに行った。その次の日に東京でセミナーがあると聞けば、すぐ東京に戻った。それほどだった。

その二人に着いていくことで、俺がしたい「伸ばすこと」というのがもっと高まるのかもしれない。そう思い、とにかく着いていった。


そうして、10月になり、教育実習になった。


実家を離れ、下宿しながら挑んだ。


たくさん学んだと思っていた俺の自信が物の見事に砕かれた。

2008年11月12日、教育実習においての研究授業。

俺が教員を目指し、初めて味わった屈辱。


うまくいかなかった授業に対して子供らは、

「楽しかった」と言っていた。その2日後にはお別れ会が開かれ、子供が全員涙を流し別れを惜しんだ。

その日の夜に、俺は大粒の涙を流し、これからの教員人生について考えることにした。

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