否定 〜2011年〜

震災が起こった2011年3月11日。

この年は、相模原市で勤務をしていた。

俺が勤務をしていた頃、ネット環境というものは全く整っていなかった。教員が研修やらセミナーやら講座やらをしているという情報を手に入れるのはとても大変だった。


今ではスマートフォンと呼ばれているケータイも、その頃は折りたたみ式でネットなんかワンセグでのテレビ中継を見るか、メールに使用するかでしかなかった。


そんな中、どうやって情報を手に入れたかというと。

色々な知り合いから研修やセミナー、勉強会、講座を片っ端から誘われるようになったからだ。

それもそうだ。東京に住んでいても、大阪や神戸などの関西地域や、仙台や福島などの東北地域などあちこちに参加していて、給料は全て講座など教員の勉強に使った。


学校という勤務地以外にやっている勉強会、講座、セミナー、研修にこの時おそらく3ヶ月間で90箇所は回った。

今のように情報が溢れているわけではなく、情報が全く出回らないところからあちこちに参加した。

おそらく、この年に使った金額は200万円以上は使っているだろう。


そして、2011年の4月。相模原市から一転。東京都に勤務した。

東京都は、相模原市や横浜市と違っていた。

研修を勤務地で全くやらなかった。


俺は今まで学んだことを細かく分析し、

講座で登壇していた講師の発言、授業の仕方を事細かに分析し、洞察した。

ビデオで講座を撮影しては、帰って3時間以上は見ていたことがあった。


そして、2011年8月10日。第5回Mini-1グランプリ。

九州の田中先生の模擬授業だ。

俺は動けなかった。手に持っていたアクエリアスがそのまま床に落ちた。

明確な指示はない。発言と質問というパート分けも細かく存在しない。子どもと大人。なんというか、こうだった。

新しいことをするのは大事ではあるが、そこにこうする!という願いや思いといった主義という哲学がなければ意味がない。この授業が「普通の授業」とするのならば、授業に概念はないのだ。

俺は時間を細かく計り、秒単位コンマ何秒という単位で発言を詰め込んでいた。流行りものに手をだして笑いも入れていた。やりとりのセリフ。発言の長さ。言い回し。机と机の間を歩いて回る順路までも計算した。その全てが自分の主義という哲学を奪い取っていた。

教員を目指した数年の取り組みは全て間違いだったのではないか。

田中先生が見せた授業が、自分の主義を粉々に粉砕していく。


俺の地獄の始まりはこの日だった。



何かを変えるべきなのかもしれないのだが、全てを捨ててやることなのだろうか?

俺は簡単にそれをできるのだろうか?

新しい授業スタイルを作るためには、必ず子供の前で授業をしないとならない。

授業を失敗することはできない。

失敗することは、全てを失うことである。

どんなすごい教員でも失敗することは許されない。


これまでの数年は、「狂っていた」ということだった。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?