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光明

 ちかっ、ちかっ、ちかっ、ちかっ……。
 電球が切れかかったみたいに、薄暗い部屋が明滅する。腹の内側から、体全体に熱が広がって、その後から快楽が押し寄せてくる。飲まれる。吐き出した息は短く途切れ、そして止まる。止めざるを得ない。
 体から力を抜くことが出来ない。震えて、跳ねて、もう一度大きな波が来る。
 今夜は何度、果てることが出来たろうか。
 ベッドの上で満足げに眠る男の顔を見て、美鶴は思う。幾度もなく、達した。それは間違いない。けれどそれは、この男が上手かったわけではない。
 美鶴の側の、多大な尽力によって、彼女自身を快楽へと誘うことが出来たのだ。「すごかったね」と得意げに笑み、頭を撫でてきたが、それは自惚れ以外の何物でもなかった。しかし、彼は今後、己の過信に気づくことはないだろう。
 何度果てようとも、満足とは程遠い。終わった後には必ず心は空虚になっていく。留め具を外された風船のように。
 いつからだろうか。満たされない、と感じることにすら疲れていた。セックスは、不満と疲弊を忘れる手段に成り下がっていた。
 朝になって、男は仕事に向かった。美鶴はあてもなく、眩しすぎる街へと紛れていく。

 カーテンを閉め切った部屋は、もう昼間だというのに薄暗い。美鶴は着替えもせずにベッドへ横になる。スマートフォンの画面を明るくして、連絡の有無を確認する。
 新着のメッセージが三件。どれも、今夜の予定の確認だ。
 冴えないサラリーマンと駆け出しの経営者、そして売れっ子の俳優。どれも淡々とした文章の裏に、欲望を滾らせているのが手に取るようにわかった。
 美鶴にとって、相手が金を持っているか否かはどうでもよかった。その夜の相手はいつも直感で選ぶ。
 一時の忘却を自分に与えてくれるのか。それが今の彼女にとって、最も重要なことだった。しかし、それは言葉やそこからにじみ出る人柄では判断がつかない。
 要は運次第、ということだ。
 はずれを引けば、その日一晩、美鶴は飢えと渇きに苛まれる。このご時世、誇りさえ捨ててしまえば空腹に苦しむことはないけれど、心を満たすことは至難の業だ。
 サラリーマンにだけ返信をして、スマートフォンの電源を落とした。
 枕を抱えて目を閉じれば、後はすぐに睡魔が迎えに来てくれた。美鶴は鉛のような気怠さに身を預け、夢の中へと堕ちていった。

 その日の相手は意外と巧かった。緩急をつけたかと思えば、抉る角度を様々に変えて、美鶴を喘がせた。
 男は既婚だった。見るからに冴えない、普通のサラリーマンなのに、底知れぬ欲望が眠っている。妻とはセックスをするらしいが、気を遣ってしまって不完全燃焼で終わってしまうらしい。
 好き合って一緒になったのに、その先に待っているのが不毛な気遣いと不満なのだから哀れでしかない。
 美鶴を散々抱き、自分も数回果て、男は満足したのだろう。美鶴を胸の中で抱き締めると、愛おしそうに額に口づけを落とした。
「奥さんにもそんな顔するの?」
「え?」
「そういう優しい顔、してあげるの?」
「まあ、一応は……どうだろう? そんな顔してるのかな?」
 男は、セックスを始める前の弱々しい生き物に戻っていた。困り顔で笑って、それからまた、美鶴にキスをする。
「……」
「どうしたの? 気持ちよくなかった?」
「よかった。すごく」
「そう……? 何か、機嫌悪い?」
「別に。これが普通なの。終わった後はこんな顔になるの。貴方とは正反対ね」
「確かにね」
 男は呆れたように言って、目を閉じた。
 程なくして寝息が聞こえ、抱かれている体が男の息遣いに合わせて上下した。
 美鶴は彼の腕からそっと抜け出すと、バスルームに向かった。熱いシャワーで汗を流し、化粧を落とす。
 散々舐め回された乳房とその尖端、そして陰部を洗った。ねっとりとした愛液が指に纏わりついて、ぞっとした。シャワーを直接あてがって、念入りに擦る。
 体が冷えないうちにさっと体を拭いてバスローブを着込んだところで、美鶴は言葉を失った。
 赤黒い血と腸を床とベッドの上に撒き散らし、男が息絶えていたのだ。噎せ返るほどの、血と汚物の臭いに、美鶴は思わず顔を顰める。不思議と恐怖は感じなかった。
 ベッドの傍には見知らぬ別の男が立っていた。真っ白な髪を腰まで伸ばした、真っ黒――それこそ墨のような漆黒の肌を持つ男だ。真っ黒なスーツに身を包んだ男が、美鶴に気づいて振り返る。
 手の甲や首、そして顔にまで白い紋様が刻まれている。恐らく、体中に刻まれているのだろう。
 男は不気味な黄色い瞳を美鶴に向けた。
 ――あ、これ、ダメだ。
 美鶴は己の死を直感した。男が一歩、また一歩と近づいてくる。実感はなかったが、体の方は迫り来る死に、明らかな恐怖を感じていた。体が震え、失禁していた。生暖かい液体が太腿を伝うと、今度は際限ない快楽が体の奥から湧き出してくるのを感じた。
 男の手が、美鶴の頭を包み込んだ。氷のように冷たい手だった。殺される。本能が告げる。死の恐怖を誤魔化すために、脳内麻薬が分泌され、美鶴は快楽の淵に沈んでいく。
「ほう……面白い」
 男が何かに気づいたように呟く。美鶴の頭から離した手を腹に当て、一気に皮膚を突き破った。言語に尽きない痛みが体を駆け抜ける。胃が破裂し、腸が捻じ切れ、肝臓が、腎臓が、あらゆる臓器が蹂躙されていく。
 子宮を握られ、卵巣を弄り回されたところで、二度目の失禁。美鶴は目を剥き、泡を吹く。それなのに意識ははっきりと保ったまま、痛みと快楽の狭間で奇妙な浮遊感すら覚えていた。
「なるほど……なかなか面白いおもちゃを見つけたな……」
 男はそう言うと、突き破った腹から手を引き抜いた。美鶴の体は糸の切れた人形のように、床に頽れた。明滅する視界の端で男を捉える。あれだけの仕打ちをされながら、美鶴の体はすでに痛みを感じていなかった。
 気怠さの残る体を起こして、自分の腹を見ると、傷跡一つ残っていない。驚いて男を見上げると、彼は言った。
「俺の玩具になれば、さっきと同じことをしてやってもいいぞ?」
「――っ」
 電撃に打たれたような衝撃。それはこの出会いのことを言うのではあるまいか。生きるも死ぬも、この人の意思一つ。捻られ、詰られ、斬り刻まれる。
 考えただけで堪らない。
「どうだ……?」
 男が不敵な笑みを浮かべた。何と美しく、神々しい。美鶴は真昼の太陽を仰ぐように目を細めた。
 目の前には男の履く革靴があった。美鶴は答える代わりに、綺麗に磨かれたそれを手に取って、自らその下に頭を潜り込ませて靴裏に口づけをした。
 その直後、男は躊躇うことなく浮かした足を床の上に踏み下ろした。


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