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ニシンのパイ〜彼女の憂鬱〜

「あたしこのパイ嫌いなのよね」

つい悪態とも呼べる言葉を放ってしまった。
それは自分を騙しきれない哀しみが胸をついたからだろうか。

(私……、もっと小さい頃は本当は大好きだったのに。なんで嫌いになってしまったのだろう)

「まあ、ずぶ濡れじゃない、だから、いらないって言ったのよ」

こんなこと言うつもりじゃなかった。でも、心にかかった黒いモヤが私を襲う。

その女の子から受けとったパイは、まだ温かかった。
きっとこの大雨の中、大急ぎで来てくれたのだろう。
今ではもう……誰も食べたがらない、このパイを。

そう思ったら、どうにもやりきれない憤りに苛まれた。

「おばあちゃんからまたニシンのパイが届いたの」

こんなことを言う私はきっと、とても嫌な子なのだろう。

そのパイは友人らも「私もちょっとね・・」「うん、少し生臭いし」と、不評でいつもほとんど誰も手をつけずに捨ててしまうことになる。
まっさらなままのパイをゴミ箱に放り込むときは、いつも胸がチクっと痛む。
そして、おばあちゃんに「美味しかった」と嘘をつくときは、もっと心がギューっと締め付けられるのだ。

今年もきっとその想いに苛まれる。そんな憂鬱な気持ちを抱えながらも、いつものようにパーティーのテーブルの端に並べた。

「みんなも無理しないでね。
来年はもう要らないって、今度こそおばあちゃんに伝えるつもりだか……」

そう言いかけたとき、鼻先にふわりと香ばしいパイの香りが通り抜けた。
それはあの頃の匂いだった。随分と前に忘れてしまっていた匂い。

ゴクリと唾を呑み込みこんだ。
半ば無意識に慌ててテーブルに転がっていたフォークを握りしめ、気づいたらそのパイにサクリと手を伸ばしていた。

口に入れた瞬間、あの頃の記憶が一気に駆け抜けていった。涙が溢れた。そう、私はこのパイが大好きだったのだ。
確かに去年までのパイとはまるで違う。なぜ?
感情の整理が追いつかないまま、ただただ涙が止まらずその場に崩れ落ちた。

そのとき私の背後、キッチンの扉の方から聞き覚えのない男性の声がした。

「お嬢ちゃん、ちょっと失礼するぜ」

後ろを振り返ると、だらしなくスーツを着崩した中年の男性、そしてその隣に小柄の女性が立っていた。
その女性は男の腕を引っ張っりながら、こう言った。

「ちょっと山岡さん!急にどうしたんですか。私たち取材で来てるんですから」

女性の制止も関係なく、山岡と呼ばれた男は続けた。

「そのパイ、どうだい?
今年のは格別に美味いだろ?お嬢ちゃんの味覚は確かなものだったんだ。
そして、嫌いになってしまったその原因、知りたくはないか?」

人の家で挨拶もなしに、なんて失礼な男なのかしら。
私は当然、不快感を露わにした。

「何よ、突然。こんなパイ、美味しくもなんともないわ」

「まぁ、そう言うなって。
実はこちらのご主人は昔から知り合いでね。『ニシンのパイが美味しくなくなった理由』について、調査して欲しいと頼まれたのさ。
こちらも用意してたものがあったのだが、今年はどうやら……事情が変わったらしい」

それを聞いて、隣の女性も少し驚いたようだった。

「え?そうだったんですか?だったら私にもそう言ってくださいよ。
急に海外へ取材だなんて、びっくりしたんですからね」

男は少しめんどくさそうに女性を宥めると、話を続けた。

「そうだ栗田くん。キッチンから例のもの……持ってきてくれないか?」
「あ、あれですね。わかりました」

女性はそそくさとキッチンへ向かい、二つのお皿をトレイに載せて持ってくると、テーブルに並べた。

「さぁ、お嬢ちゃん。
ここにAとBの皿がある。見ての通り『同じニシンのパイ』だ。
どうだい?食べ比べてみようじゃないか」

この男の言うように、二つのパイは見た目にはその違いはわからなかった。でも、そこから立ち込める香りは明かに違うようにも思えた。
不躾な男への嫌悪感よりも、好奇心が優ってしまった。

「わかったわ……そこまで言うなら食べてあげる」

その瞬間、ニヤリと笑った男にやはりいい気はしなかったが、私はフォークをAのパイに伸ばしていた。

ゴクリ……。うん、やっぱりダメだ。
これだ、この独特の生臭さ、ニシンの汁がパイ生地に絡みつき、冷たく萎れたその食感が更に口の中で不穏な味となり充満していく。

その嫌な後味をレモンのサイダーで流し込み、そのままBのパイを口に入れた。

「……な、なに?これ、全く別物じゃない。
というか、今日、あの子が持ってきてくれたパイと同じ味。
ニシンの芳醇な旨味、パイの香ばしさ、口のなか全体に温かな優しさに包まれるこの多幸感。
これが、これこそが私が大好きだった……おばあちゃんの味」

動揺が脳内を駆け巡り、堪らず震える私。
それを横目に、隣の女性も同時に食べ比べをしていた。

「あら、Bのパイ。これ本当に同じなの?私、ほっぺたが落ちちゃうわ。
ねぇ、山岡さん。そろそろ教えてくださいよ〜」

「どうだいお嬢ちゃん。
もうわかったと思うが、君が大好きだったニシンのパイは言わずもがなBのパイだ。
Aのパイは言わば失敗作だな。君や皆が嫌いになるのも仕方がないのさ。

料理に大事なのはそう……『温度』だ。
この2つのパイの調理工程において圧倒的に違うのは、オーブンの温度の違いだ。
聞けば、君のおばあちゃんの家の薪のオーブンはかなり前から使われず、電気オーブンに変わったというじゃないか。
昔ながらの薪のオーブンは準備も手入れも、そして火加減も大変だからな。
高齢となったおばあちゃん、しかも車椅子のマダムには重労働以外の何物でもないんだ。

だから、おばあちゃんを責めるべきではないが、ニシンの臭みを消し、パイ生地をしっかり香ばしく焼きあげるのには、高温の薪オーブンが最高の調理法というわけなのさ。

今回のパイ、まぁ事情はわからんが、おそらく薪のオーブンで調理されたものだろう。

そしてもう一つの要因は……配達の子だ。
あの子は最近この街に棲みついた魔女だろう?
この大雨の中、空を飛んで最短・最速で温かいまま届けてくれた。その熱意に感謝すべきだな。
どんなにうまい料理でも冷めてしまっては、その味は台無しだからな。
特に冷めたニシンは臭みが出やすいんだ。

君も冷めたまま食べず、再加熱くらいはすべきだったんじゃないかな?
そうしていれば、君も大好きなこの味を嫌いにならずに済んだのだろう。

これで納得したかい?
ま、君の味覚は本当の味がわかる、確かなものだったんだ」

何も言葉を返せず、黙ったまま床に涙を落とすしかなかった。

「もし君がこの味を守りたかったら、これからは君がおばあちゃんの家に行って、パイを焼く手伝いをしたらいい。薪オーブンの使い方を習えばいいんだ。

さぁ行くぞ、栗田くん。どっかでうまいもんでも食って、日本へ帰ろう」

「ちょっと〜!待ってくださいよ〜、山岡さ〜ん」

数日後。
私はおばあちゃんの家を訪れた。
そこにはあの魔女の女の子もいた。

「あ、あの……、あのときは、ひどいこと言ってごめん、なさい。
もし、よかったら……私に教えてくれないかしら……。
薪のオーブンの使い方を」

美味しんぼ外伝「ニシンのパイと薪のオーブン」
#魔女の宅急便
#美味しんぼ
#ニシンのパイ

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