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「自分が好き」なんて無理して思わなくていい

私が最近衝撃的だったこと。「自分のことを好きな人」なんていない。

とある人の記事を読んだ。その記事を書いた人は、私から見たら自分が大好き!なように見えていたが、厳密に言うと、そうじゃなかった。

本当に自分のことが好きな人の「自分が好き」という言葉を分解すると、「うーん、自分が好きとか嫌いとか考えたことないな。でも嫌いとも思ったことないし、聞かれたから、好きって言っとくかな。」らしい。

びっくりしたけど、そうだと思った。

私は自分のことを「好きにならなければ」と追い立てていたことに気づいた。そしてそもそも、「好きになる」ってどうすればいいのか、どういう意味か考えた。

そう考えた時にまず思ったのが、「自分が好きだ」とわざわざ自ら主張してくる人に、本当に自分が好きそうな人はいないな、と思ったこと。(批判ではない)

そういう人たちは「自分は○○を頑張っているから」「これだけ実績を出しているから」「努力してきたから」と言う。

でもそれは結局条件付きの自分しか認められていないんじゃないかと思う。「できる自分を認める」は、「できない自分は認めない」とイコールになると思う。

「頑張れている自分が好きです」の裏側は、「頑張れない自分は嫌いです」じゃないかと思う。

心の底から自分が好きと思えている人は、まず自分から、自分が好きだなんて、言わない。自分のことを一番に肯定しているから、わざわざ相手に私は私が好きです、だなんて宣言する必要もない。

自分を愛せているから、他人からの「あなたが好きだよ」「認めているよ」なんて言葉も求めない。

こう思うのは私も一時期、頑張っている自分が大好きだったからだと思う。でもそれは今考えればあの時期は、本当は苦しかった。

でもその時は苦しいと思えてなくて、何なら人生で今が一番楽しい!と勘違いしていた。成果を出せている自分はすごくて、他人はそれ以下で、私は人より頑張れて他人にも気を配れる自分すごい!って、酔っていた。そういう意味で他人をめちゃくちゃ見下していたことも、今考えれば恥ずかしい。一体何様なんだ。

成果を出せている自分しか認められなかった。人から好かれている自分しか好きじゃなかった。

そんな自分でずっといたら、燃え尽きた。

今の方があの時よりずっと楽だし本当の意味で自分が好きだとだんだん思えるようになってきた。

だから何が言いたいのかと言うと、マウンティングなどがしたい訳ではなく、頑張っている自分しか認められない人たちをみると、純粋に苦しそうだ、と思う。見ていてこちらまで辛くなってしまう。だからこそ、関わりたくない、というより、今自分のことで精一杯なのに関わる余力はない。と思う。

ちなみに昔は苦しい人をみると放って置けなかった。力にならなければ!と思っていた。でもそれは今はしたくないと思う。相手の抱えている苦しさに、同じくらい共感したり、頼まれてもいないのに、勝手に巻き込まれにいってしまうから。

私は他人の痛さを抱えられるほど、そこまで強くない。そのこともやっと分かった。


きっと自分が好きな人は、例えば人から「あなたのせいだ!」と責められても、「自分」という存在のせいではない。そりゃ自分の中の「一部」は悪いけどな、と自然に思える。この時、ああ悪かったな、とか反省はしているけど、自分のことは全然責めていない。

自分が嫌いな人は「あなたのせいだ」と言われると「自分のせいなんだ」と丸ごと受け取る。誰も、あなたの存在自体が悪いんだ!なんて言ってないのに、それくらいの勢いで受け取る。

どんな自分も許せる人は、許せない側からみると、何とも自分勝手で好き放題に他人に迷惑をかけて生きているように見えるが、本人が好き好んで、そうなった訳ではないんじゃないかと思うし、じゃあそういう人が全く何も考えていないかというと、そんな訳でもないと思う。

自分が悪いと思えた時には心から謝れるし、逆に他人から大抵のことを何をされようが許せる。だって自分も他人に対して同じことをするからだ。その上で、自分の許容範囲を超えてきた人とは距離を置くだけ。

でも正直、それらができる人たちは、器用だなあ。羨ましいなあって思う。

「自分を許すこと」を当たり前にできている人がいて、どうしてもそういう人たちのことを「恵まれていて羨ましい」「許せない」と思う自分が、たまにひょっこり顔をだす私もいるのも、事実だ。

前は「人を嫌う自分」そんな自分すらも嫌っていた。「考え方がネガティブな自分が悪い」「直さなきゃ」って。でも今は少し違う。そんな、人を嫌ったり自分を嫌ったりする、いろんな複雑な自分も今は認めている。

直せないのは仕方ない。というより、直すって、そもそも自分が間違っているみたいで嫌だ。でも、自分が自分の中のいろんな自分を許せないことは事実だし、その事実はどう考えてみても損にしか思えないのも事実だ。でも、今はそう思ってしまうことも仕方ないこと。それも自分なのだ、ということ。

だからって特効薬があるわけでもない。だからこそ、急いで何かをしても治るわけじゃない。だから、今無理して何とかしようと思わなくていい、というより、急いでも意味ないしな、と思えていること。

それが、今思えること。

認められない自分がいる事実をまずは認めること。今はそれ以上は、無理してしなくていい、というかそれ以上なんてできない、と思う。

正直、「自分が自分を受け入れること。許すこと」そんなことは私にとっては人生の中で一番の課題で、一番難しいのも分かっている。一生かかってできるかはどうか分からない。

でも、それでもいいんじゃない、それが私だし、って思えた時、心の中のつっかえが取れる感じがする。だからって根本的に劇的に何かが変わるわけじゃないけど、確実に数年前の私より、理由はなくても今の私の方が好きだと言えるし、他人を許せるようになってきたし、格段に心が楽になってきていることが、「好きになれている」証拠なんじゃないかな、と思えている。

でもやはり、頑張ろうと思う。私の人生の今のところの最終目標は「どんな自分も受け入れること」、それこそ「自分を好きだとか嫌いとか考えることもなくなること」が目標。

同じ頑張るなら、自分を追い詰める頑張るじゃなくて、どんな自分も許せる、受け入れられていくように頑張りたいのだ。

「自分が嫌い」を言い直すと「自分を許せない」だと思っている。だとしたら、その逆は「どんな自分も許す、受け入れる」ことだと思う。

だとすれば、今の時点で私ができることは、自分の中の嫌いな面も肯定できるようになること。自分の心の声を無視せずに聞いてあげること。誰よりも自分が自分の理解者になること。何があってもまず一番に自分を責めないこと。それらのことからじゃないかと思っている。

自分を好きな人というのは、本当の意味で、自分にも他人にも優しい人なんだと思う。なんの縛りも課さない優しい世界に生きていると思うのだ。

いいなあ。純粋にそう思う。

だから、私が目指すのはそこだ。すごくすごく時間がかかるかもしれないし、初めから当たり前にできている人に、腹が立つこともあるけど。

でもどうせ自分の人生なら、自分の嫌いな面も受け入れて、わたし自身を受けいれていけるような、自分との上手な付き合い方をみつけて、これも私だと、開き直る訳でも、やけくそになる訳でもなく、自分として生きられるようになりたいのだ。

いつか、自分が嫌いとか、好きとか、そんなことをいつの間にか考えなくなっていられるようになれれば、それって最高かも、と思う。

またね。

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