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見る、視る、みる

ぼくは本当は、日晴スイとして、年齢も、性別も、ジェンダーも、バックグラウンドも、社会的な肩書きも、何も明確に明かしたくない。

それは、日晴スイとしての作品は、ただそれをみたひとが極力フィルター少なくみてほしいと思っているからだ。
ぼくの明かされた属性が多くなればなるほど、フィルターは増える。どんなに意識してもひとはそのフィルターを除いて作品を見るのは難しくなる。

「社会的な価値観的に評価されるひとだから、この作品も素晴らしい」
も、
「社会的な価値観的にあまり評価されないひとだから、この作品も大したことはない」
も、
無意識にフィルターとして目の前に入り込む。

解釈のないそのものを視るのは、ひとにはきっと不可能だ。それでもぼくはぼくの作品をぼくを材料に翻訳してほしくない。
ぼくの作品を目にしたあなたに、あなたを材料に翻訳してほしいのだ。
「作者の意図当て」はしなくて良い。それはあなたにとっての「良い答え」と一致しないことの方が多いとぼくは思う。

【ぽへぽへ戯言その1】
そもそも作者としてのぼくが作品を通して示唆できることとかなんもない。コックさんがどんな熱量で思いでオムレツを焼いたかより、今食ってるオムレツがおいしいかどうかの方がどう考えても重要だろ。コックさんに想いを馳せるのはその後で十分すぎる。


作者の意図にはそれはそれとして作者のひとという意味がある。
作品を前にしたあなたの解釈、翻訳、感じたものにも、それはそれとしてあなたのひとという意味がある。

作品を前にした時くらい、なのか、作品を目の前にした時にも、なのかわからないけれど、作品の奥を透かしてぼくを見るより、反射するあなたに気づいてほしい。

これは、ぼくの願いでもあるが、懇願でもある。

ぼくは勝手にぼくを決めないでほしい。
ぼくというひとを推測するのは自由だ。ただ、それはぼくではなくて、あなたが思うぼくの像だということをどこかに留めておいてほしい。

あなたの思うところにぼくはいるかもしれないし、いないかもしれない。
あなたがぼくを何者でもないただのぼくとして視ようとしてくれるのなら、ぼくはあなたの前にいたい、と思う。

【ぽへぽへ戯言その2】
発言を、少ない工程で内容の2~3割くらいは「そっか!君の発言か!」って受け取ってもらえるくらいの(相手の肩書きと相対的に)程よくつよい肩書きがあった方がいいよなぁ。
弱者っぽい肩書きしかないと1割も聞いてもらえないことが多い。強者過ぎてもその肩書きのインパクト強すぎてそれにしか反応されない。
2~3割聞いてもらえたら及第点!

では、また何かの投稿で。

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