【短編】四月一日の嘘【雛杜雪乃 / Vtuber / SS】

得体の知れない化物だ、と。
思わず声に出してしまった。

あくる日の朝。時刻は午前の七時過ぎ。相も変わらず穏やかで呑気な時間が過ぎているが、早起きが苦ではない私にとって、この時間は日夜の労働が報われる貴重な時間でもある。
既に身なりは整っており、今しがた出かけ前の珈琲も飲み終わった。
あとはいつも通り艶めいた革靴に履き替えて戸締りをし、人の少ない電車へと乗り込んでいく。そのはずだった。
廊下に出て鍵を閉めようとポケットをまさぐると、床に一つの鍵が落ちていることに気がつく。
白銀の光沢に、アンティークがかった意匠。ツルのようにしなやかな装飾だが、強い生命力を感じる。見事、という他ない。骨董に詳しい訳では無いが、仕事の折に好事家から講釈を受けた事がある。曰く、本当に素晴らしい作品は観た時に打ち震える感動がある。私の感情は、正にそれだ。
しかし、どうしてこんな所にこの様な一作が落ちているのだろう?
疑問はあるが、生憎とこのマンションに管理人は駐在していない。かと言って、ここに放りっぱなしにしておくのは、少々リスクがありすぎる。
思案した後、私はこれを一時的に預かることにした。管理人がやってくる時刻になったら落し物の連絡をし、持ち主が現れれば管理人経由で手渡す。
妥当な案だ。不自然ではない。盗むのでは無い。
預かるだけだ。だから、だから、わずかでもいいから、コレを手元に置いて、少しでも目に焼き付けておきたいなどと邪な考えでは無い。そうに違いない。
そうと決まれば話は早い。これ以上は、電車が混雑する時間になってしまう。
私は足早に歩を進め、到着したエレベーターへと脚を踏み入れた。
ガコンと異音が鳴り、エレベーターが止まる。理由は分からないが、非常停止してしまったようだ。階数を示すディスプレイも表示が狂い、多様な文字を混ぜ合わせたような、異常な表記をしている。
幸い、扉はまだ閉まっていない。手間ではあるが、階段から降りていくことにしよう。少しばかりの煩わしさを感じながらも顔を廊下へと向ける。
ーー何かがおかしい。
いつも通りのはずの廊下だ。なんの変哲もない、日常のはずだ。だと言うのに、私の直感は猛烈な勢いで警鐘を鳴らしている。
歯車が無理やり回ろうとする音が、エレベーター全体に響く。
……無理やり動く、音? エレベーターは非常停止しているのではなかったのか? そうでないのなら、一体なぜエレベーターは止まっているんだ?
何者かが歯車を無理やり噛み止めているのでなければこんな音はーー

「返して、いただけませんか?」

声が聞こえた。少しばかり高めの、歳若い青年の声。ちょうど、勤め始めて数年になる私の部下が同じくらいの歳の頃だろうか。
弾かれたように廊下へ顔を向ける。いつ現れたのだろうか、そこには一人の青年がいた。最も目を引くのは、鴉のように黒い髪だ。毛先はくすんだ緑色で、雲のように渦巻いた天然のパーマ。それを思えば、年齢にしては洒落たスーツも、宝石のように明るい瞳もヒールのある革靴も、微々たるものだ。そんな人物が、緊張感のある面持ちでこちらへ歩みを進めてくる。

「すみません、先ほどあなたが拾った鍵。アレは僕の物です。友人が誤って落としてしまったようで、先ほど気が付いたのだと連絡がありました」

だから、それを渡して欲しいと彼は言う。

「鍵とは、なんの事でしょう? 第一あなたはーー」
「僕はここに住んでいる者です。縁あって、逆隣の友人のツテで先日からあなたの隣に越してきたのですが、ご挨拶が遅れてしまいました」

信用ならない。確かに私は日中は不在だが、引越しに気が付かないほど鈍感では無い。それに、隣に住んでいたのは、穏やかな家族だったはずだ。奥方も、最近転職をしたのだとつい先日も忙しなく挨拶を交わした。
出ていく素振りなど無い。だから、彼の言う言葉には矛盾がある。
一陣の風が吹く。生ぬるく、巨大な生き物の吐息のようだ。その風がエレベーターの中で逆巻いて、時折鈴の鳴るような音を起こす。
スーツの下の肌が粟立つ。人好きのしそうな顔付きの彼であっても環境が整うだけでこんなにも恐ろしく感じるものか。だが、この鍵をおいそれと渡す訳にはいかない。第一、彼は私が鍵を拾う姿を見てはいないのだからーー

ーーカシャンと、白銀の鍵が落ちる。
ありえない。鍵はポケットの深くへとしまい込んだはずだ。鍵が独りでに動くのでもなければ、こんな事は。
目の前の彼は、こちらを見据えている。先ほどまでの緊張の面持ちとは違い、その表情は氷のように冷たかった。

「その鍵を、こちらへ渡してください。さっきから見ていましたが、多分あなたにはその鍵は要りません」

それが無くても、あなたはいつかここへ行き着くと彼は言う。
私は思わず言葉を返す。

「失礼ですが、私にはキミが信用ならない。先ほど話していた引越しの件といい、君の言葉には嘘がある。それにキミが現れた時から辺りの様子がおかしい! まるで妖怪のようなーー」

得体の知れない化物だ、と。
思わず声に出してしまった。
彼は顔色を変えなかった。冷たい顔のまま。

「そうですか」

一言、相槌を返した。私の足元から、輝く何かが宙を舞って彼の手元へ帰る。
それは白銀の鍵だ。私の瞳はその鍵に釘付けで、だからこそそれに気が付いた。
鍵の表面に反射して映り込む、巨大な塊。私が乗るエレベーターの外側に、水が溢れてこぼれるように、液体状のナニかがいる。それは見ている。目で見ている。おびただしい数の目で目で目で目目目目目目目目目目目目ーー

琥珀の双眸が、文字通りの眼前にある。
彼だけが、私の視界の中に在る。

「ご返却ありがとうございました。でも、次はこんな事しないでくださいね」

魔が差すのは分かりますけどねと、彼は微笑んだ。彼の髪色が、先程と違ってくすんだ桃色に見える。
高鳴る心臓の脈拍で視界がくらむ。

軽快な鈴(ベル)の音で意識を取り戻す。
見れば、止まっていたと思っていたエレベーターが一階に着いたことを示していた。
時刻は七時過ぎ。ちょうど、エレベーターに乗ったすぐ後の時間だ。
辺りも、何事も無かったかのようにいつもの平穏さを取り戻していた。
未だ狂ったように胸の内が跳ね回っているが、逆にいえばそれだけしか証明するものは無い。

「……白昼夢か」

私は、疲れから来る勘違いと思う事にした。
脇には建物の居室分だけのポストがあり、自身の部屋の隣は相変わらず家族で住んでいる部屋のままだったからだ。
おかしな状況にか、安堵からか笑いが漏れる。そう決めてしまえばなんの変哲もない日常だ。
エレベーターから歩み出そうという時に、視線が上階へ向く。
ひとつ、ふたつ、みっつーー

ーー部屋が、多い。

テケリ・リ。鈴(ベル)の音が鳴る。
エレベーターは動いていないのに。

溢れている。隙間から、継ぎ目から、穴から。ありとあらゆる狭間から、液体が、粘液がこぼれて、目で目玉で眼球で見て見て見て目で目で目で目目目目目目。

「化物ーー」
「傷付くなぁ」

溢れて、波となって降り注いだ。

……軽快なベルが鳴る。エレベーターがゆっくりと開いて、その中身を晒す。
中には、誰もいなかった。

上階の一室が開く。
現れた桃色の髪の人物は、冷めた目で地上を見る。

「化け物に見えるなら、たどり着かれるのは困るんですよ」

扉は、ゆっくりと閉まった。

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