今のコミュニケーション能力の下にたくさんの努力と犠牲があること、そんなことに皆はより気が付かなくなるのだろう。

私のたくさんの努力のおかげでASD的な要素が大きく変化してきて
表層的には多数派と同じような行動を取れるようになってきたけど
だからといってそう簡単に気が合うかというとそうではなくて
これまでしてきた経験は
多数派のものとは大きく違って

昔はあんなに難しかったのに
人の集団が顔のない怪物のように見えていたのに
なぜ今はそんなに簡単に出来てしまうの
多数派に全くなじめなかった自分の多くの努力と犠牲はなんだったの

最近は多数派の行動の仕組みが理解できることも増えてきて
自分もそこに合わせることが出来るようになってきたからこそ
どちらにも属せない自分の孤独が発生したり

私が今多数派とうまくやれていればやれているほど
私の多くの努力と犠牲は気が付かれないのだろうと
そんなことを思って悲しい
もし打ち明けたってなじめてないようには見えないと言われること
知ってる
なじみたいなんて思ってないのに

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しばらくの間社会との関りがほぼなくなって、
久しぶりにバイトを始めてみたら、
自分が思った以上に他者と円滑に会話している自分がいた。

この調子であれば今後もいろんな形で社会と関わることが出来そうだと期待できる一方で、久々なのだから、もっとぎこちなくても良いはずなのに、
なめらかにコミュニケーションを取っている自分の大きな変化に単純に驚き、戸惑う。

むしろ私は、コミュニケーション能力が高い人だと思われているのかもしれない。

私はときおり自分のコミュニケーション能力の面で、
ポジティブな意図を持った反応をもらう。

また、ASDだと開示すると、コミュニケーション能力が高いとか、馴染めてないように見えないとか、ASDには見えないなどとの言葉が返ってくる。

しかし、私が今スムーズにコミュニケーションを取れているのは、
自分なりにたくさんの工夫をつみ重ねてきているからだ。
それにも関わらず、他者とようやくなんでもない会話を交わすために、
私がどれだけ準備しているか、
そんなことには気が付こうともしない様子で、私のことを褒めてくる。
そのたびに私は自分のこれまでの努力が否定されたような気になる。

そして、今後も私が努力によって多数派とうまくコミュニケーションが取れるようになればなるほど、
私がこれまでに他者とコミュニケーションが取れず非常に困ってきたこと、
自分の心地よい範囲を大幅に超えて多数派に合わせてきたこと、
今のコミュニケーション能力の下にたくさんの努力と犠牲があること、
そんなことに皆はより気が付かなくなるのだろう。

今感じている、過去の自分の努力を見てもらえていない哀しみが、
未来においてより深まるのだと考えると、
鬱鬱とした気分になってくるのだ。

また、多数派に合わせたやり方でコミュニケーションを取ったとき、
そもそもなぜ褒められなければならないのだろう。
あたかも多数派の感情を交えたやり取りの方がより良いかのように
感じられる。

かく言う自分自身も、過去には多数派のコミュニケーションスタイルの方がより良いと思ってきた。
そう信じ切っていたからこそ、多数派に合わせる為に過剰な努力が出来た。
しかし、そもそもASDが多数派よりも劣っているわけではなく、
多数派に合わせる必要がないのだと気が付き始めた。
そして、だからこそ、褒められること対しても、
かつては感じなかった違和感を覚えるようになってきた。
私はこれからはASD的なコミュニケーションスタイルを大切にしたい。
もっと論理的に言葉の細部の表現にまで気を配って話していきたい。
そう思っている。


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