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自分は特別だと思っていた話

 先日、知り合いが、noteで書いた自身の文章をTwitterのリンクに載せているのを発見した。飛んでみて、驚いた。普段の彼女の様子からは想像もできないほど、深淵で哲学的な記事を書いていたからだ。私は絶望した。

 長年、文章を書くことは、私のアイデンティティだと思っていた。初めて物語を書いたのは、幼稚園生のとき。好きだった絵本のプロットを丸パクリし、折り紙の裏に文章と挿絵をかいて、本の体裁を整えた。親や先生に見せると褒められた。

 当時の私は、日本語の難解さにも関心があり、例えば、「ナントカちゃんは こうえんに いってしまいました」とかいう文章に違和感を覚えた。なんだ、「いってしまいました」って。なんだか、「私はナントカちゃんには公園に行ってほしくないんだけど、ああ残念、行っちゃったわ」みたいなニュアンスじゃないか? 話の流れ的にはそんな内容ではないのに。おかしいじゃん。悩んだ末、自分の絵本には「こうえんに いっていきました」と書いた。これで、「ああ残念」みたいなニュアンスはなくなる。絵本を褒めてくれた先生は、「『いっていきました』っていう文章はおかしいけどね」と笑っていた。

 その次に覚えているのは、プロットも完全オリジナルの絵本だ。主人公の女の子が、病気のおばあちゃんを治す薬を探しに行く、という冒険譚だったと記憶している。手に入れた薬が本物かどうか確かめるため、途中で寄った家の女児に薬の治験をさせるという、サディスティックな展開が含まれていたような。当時小学校にあがるかあがらないかの私には倫理観というものがなかった。そんな絵本だったが、親や祖父母に見せると、やはり絶賛された。多分、「将来は作家さんやねえ」なんて言われたんだろうな。

 そして、小学校5年生のとき、私はちょっとした小説大賞で賞をとった。「トイレの花子さんが、いじめを苦に自殺した女の子の復讐を遂げる」という、当時の私の心の闇が見え隠れするような短編小説だ。このときの私は徐々に腐り始めていて、「どうせクラスメイトは私のことなんて好きじゃない」という被害妄想が膨らんでいた。おそらく、小説の中で復讐されたいじめっこは、当時のクラスメイトを投影して書いたのだと思う。現実では何もしていないのに、私の妄想の中で勝手にいじめっこにされ、小説の中で殺された彼女らのなんと哀れなことか。小5の私は、小説の中に日々のストレスを昇華させていた。なぜこんな闇小説が賞をとれたのか、審査員に問いただしたい。でも、嬉しかった。最優秀賞でも審査員特別賞でもなく、ただの入選だけど、「君の小説は面白いよ」と認められることはこの上なく嬉しかった。

 こんな風に育ったから、私は密かにこう思っていた。きっと私の遺伝子には、作家とか脚本家とかが持っているような、そういう文学的なDNAが組み込まれているにちがいない。誰に教わるでもなく文章を書き出した私には、きっと作家になる才能がある。物語を生み出す神になれる。私はきっと、特別な存在なんだ。

 振り返れば、幼稚園生の芸術作品を先生が褒めちぎるのは義務みたいなもんだし、両親が我が子を褒めそやし「ウチの子には、なにか特別な才能があるんじゃないか」と夢を抱きたくなるのは必然だろう。小5のときに賞をとれたのだって、単に応募者数が少なかっただけかもしれない。なのに、自分の物語を褒められて、認められて、私は勘違いした。自分は特別である、と。

 ここまでの文章を読んでいただけた方なら分かるだろうが(誰にも読まれないかもしれないが)、私には文才がない。語彙も乏しいし、文章の構成力もないし、何より人を惹きつける魅力が文から感じられない。「もう少しコイツの文章読んでやるか」と思わせることができない。要するに、私は特別ではなかった。何者でもなかったのだ。

 それを知ったのは、冒頭に書いた友人のnoteだ。彼女の文章には魅力があった。自身の哲学的な思想を、比喩を交え、分かりやすく、美しく書いていた。何より、「もう少しコイツの文章読んでやるか」と思わせる文章だった。彼女には文才がある。普段、Twitterでネタツイばっかりしている彼女に。

 そこから、彼女のフォロワーを探ると、芋づる式に他の同級生が書いたnoteが見つかった。大学生で起業しようと、経営論の本を読んでその感想を載せている人もいた。すげえ、コイツら。なんなんだ。身近にこんなことしてる人がいたのか。彼らは特別だ。・・・・・・いや、特別じゃないのか? 別に普通か・・・・・・? 大学生で起業することも、小説を書くことも、特別じゃないのか・・・・・・? そうか、私は何者でもないんだ、大衆の1人でしかなかったんだ。

 この事実に気づいたのが、つい最近だ。こんな勘違いをしたまま、私は20歳を迎えようとしていた。遅すぎる気がするけど、これが大人になる第一歩ってわけか。「自分だけは特別だ」という中二病的な考えは10代に捨て去らなければならない。「文章で飯を食いたい」という甘々な目論見も排泄しなければ。だって私は、平々凡々なただの大学生なのだから。

 私は特別じゃなかった。

 特別になりたかった。

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