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「検察官・能楽堂公演」能楽堂の魔物。

本当に、無事によく終了しましたね。という感じでした。いつにもまして…

能楽堂に入ったのは、本番二日前。下北沢の劇場とは、全く響きが違う。下北沢でまかり通ったことが悉く通らない。二日前にして、全てが変わった。

音楽は、ダブル裏の俳優で楽隊が組まれ、音楽家の方とテーマ曲まで作っていたのに、楽隊は解散。下北沢でハマっていた楽器の響きが能楽堂では音がありすぎるように聞こえる。たった2人に編成し直してシンプルに即興的にいろんな音を入れるスタイルに。

いつも作品や作家の個性に合わせて、演技のスタイルというものを探っていく。世界観を表現できるようにと様々なものをトライして今回の作品のためのスタイルを見つける作業が一苦労でもあり面白ところなんだけれども、下北沢でようやく見つかった!と思った間も無く、能楽堂ではそのスタイルが通用せずに、丸替え。狂言的な言語スタイルに。これがまた、前のスタイルが抜けずに引っ張られる。イントネーションが何が何やら…(笑)

小道具もキャラクターさえも変えろという演出家からの突然の要求が次々と誰彼に飛ぶ。躊躇していると、「本来なら自分で準備してくるものだ。良かれと思って提案しているのにそれを受け取ろうともしない!!」というもっともな叱咤激励が能楽堂に響き渡る。青ざめているその人を支えようと、みんなが走る。準備に翻弄しているうちにいつの間にか本番10分前。。。

私は、二日前に決まった前座の練習に必死でいたが、それをやめて、ウォーミングアップのゲームをしろと迫ってくる。5分前。せっ先生、せっ台詞がまだ怪しいんですけど。。。

と、そのまま舞台へ。

すると、やるしかない。丸裸の気分。準備したものではなく、ライブするしかない。

「能楽堂」に立つと、真面目に厳粛にいなければ…などの様々な思い込みや(実際、舞台に手をついたはダメなど、能舞台は神聖なものなのでいろいろな決まりがあります)、場の雰囲気があって、頭はかっちんこっちん。久々のライブ公演で緊張もある。場に劇団員はのまれていた。緊張で声が上ずり、何を話しているかわからない人が続出していた。

能楽堂が魔物なのではなく、自分の中にいる魔物を浮かび上がらせてくれる。

嘘や上部の物は通らない。自分の本当、揺るがない芯の存在感、音のシンプルな本質を要求してくる。そこでしか創造が起こらないのを知ってるかのようだ。「創造」「真実」「つながる」まさにそこに行くための能楽堂自体が揺るぎない装置になっている。

「すべては、即興にならなくてはならない。それ以外は嘘だ。」

稽古始めに師匠が言った言葉だ。師匠は、無理難題を吹きかけてみんなのマインドを吹き飛ばす。あれこれ不安で準備することをやめさせ、予定調和なところに安住させようとすることをやめさせ、保険を捨てさせる。そして、ありのままの自分でそこに立ち、その瞬間を生きさせた。そこでしか、創造は起こらない。

なんてこった。この人は憎まれ役を本気で演じてる。それもこれも作品で生きたエネルギーを生み出すためだ。それを届けるためだ。

改めて、能楽堂を生み出した日本人のすごさと、生きたエネルギーを生み出すことに妥協しない師匠のすごさを見た。


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