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ヒナドレミのコーヒーブレイク    絵を描く

 きっかけはリンゴだった。キッチンにあったリンゴが、あまりにもいい色をしていたので、私は嫁に「おい、ちょっと これ借りるぞ」そう言って、リンゴを片手に名ばかりの書斎へと入っていった。

 初めは、リンゴの絵を描く気など毛頭なかった。たまたまデスクに置いてあったメモ用紙が目に入ったので(描いてみるか)と思った。その絵(デッサンだが)を嫁に見せたところ「あら、なかなかいいわね」と言われた。調子に乗った私は、その後も絵を描き続けることになる。

 それから10年。ここまで絵を続けて来られるとは、自分でも思わなかった。一度 絵筆を持つと、絵画の魅力に取り憑かれたのように のめり込んでいった。

 定年退職している私だが、絵を始めるまでは 絵への興味はまるでなく 無知だった。今でも、遠近法さえよく解らない。そうかと言って、本を買ってまで勉強する気はしなかった。「全くの自己流だ、遠近法など関係ない」と強がる私だった。

 今では 書斎がアトリエに変わった。退職金の一部でイーゼルやキャンバス、額縁や絵の具を購入した。何事も形から入る 私らしいと苦笑する。

 いつも、真っ白なキャンバスを前にすると 半端のない緊張感に襲われる。そして最初の一筆を描き入れようと絵筆を持つ度に、手が震える。この緊張感は嫌いではない。というより、この緊張感こそが 私を絵の虜にする原因の一つでもあった。

 今 私は、超大作を描こうとしていた。今までに挑戦したことのない大きさの。真っ白なキャンバスを目の前にした私は、手の震えが止まらなかった。ここまでの緊張は初めてだった。何が こうまで私を緊張させるのだろうか?左手で右手を押さえても 震えは止まらない。私は一体どうしてしまったのだろうか?

 そんなことが3日ほど 続いた。(もう私に絵は描けなくなってしまったのだろうか?)と本気で考えて悩んだ。そして悲しくなった。(もしかして、頑張り過ぎたかな)と思った私は、リラックスしたり1週間ほど絵を休んでみたりした。だが、震えは治まるどころか、ますますひどくなった。

 他に身体の不調はない。(一度診てもらうかな)そう思い、病院へと足を運んだが、これと言って悪いところは見つからなかった。

 このことを 嫁に相談してみた。すると嫁は言った。「初心忘るべからずね」

 そして私は、絵を描き始めた頃の気持ちで絵筆を持った。適度な緊張はあるが(これなら描けそうだ)と思った。最近は(いい絵を描きたい、いい絵を描かなければ)と 気持ちばかり焦っていたため、身体が拒否反応を起こしていたのだろう。こうして超大作は完成した。                                    
                                 完 


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