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死にたい経験をたくさんすると絶望しかないのに、気持ちの持ちようで解決しちゃった話。


こんにちは。こんばんは。
前の記事にてイイね頂きとても光栄です☺︎
 
前の記事の中に私が発言したことに不快になられた人も居ると思います。「否定するな」と思う方も。

…きっと、私も普通の環境で生きてたらそう思うのかもしれません。

人に甘える隙もない厳しい世の中だと母に教えられてきたのも、
環境に慣れないまま精神が壊れたのが本当で、
その背景は幼少期からの環境崩壊でした。

環境崩壊とは、地球とか大自然のことではなく、生活環境が崩壊する危機を何回か経験してるということ。
幼少期の誰にも言えない苦しみを理解してほしいと人様に強く思うようになってから、
環境崩壊が何回も繰り返す中で、苦しみと悔しい想いを日記や小説に綴って書くことが人生の始まりだったと言えます。

そんなざっくりと纏めて私の育ってきた環境を今回はお話したいと思います。


    《私の家庭環境の出来事》

  1.虐めとゆとり教育の周りの環境
  2.遊んでいた親友と友達の親死
  3.トラウマと男性恐怖症と人間不信
  4.当時の記した日記について
  5.私が受けた感情と生きる感情


きっと長くなってしまうので、話しやすいよう区切っております。

話を戻しますが、私は普通の環境で生きた人では耐えられないほど泣く出来事がありました。今から話す家庭環境は、誰しも受けるには荷が重いと思いますが、私も人間であり、人に助けられている環境もあった。(その頃はもう昔の私は戻れなかった頃ですが)
いろんな苦悩があっても私が生きてるということ。少しだけでも、人の助けになってればいいと思ってます。


私の文章解釈苦手なりに言葉を載せて分かりづらいと思いますが、ゆっくり文章読んで頂けたら幸いです。






1.虐めとゆとり教育の周りの環境


私の環境世代はゆとり教育。保育園に行ってもとにかく人と関わることがあまりない環境で年長になった後、小学校に通いはじめる。
学校に入って仲間意識って言うものを教えられたけど、保稚園と同じように教えられてない違和感が感じ、歯車が崩れた瞬間でした。

小学校ではゆとり教育だったため、道徳や授業の団体行動が多くなった時、人と関わりを持つことなかったのか
子供ながらに教わってきたものを発言すると、小学校1年経って人に嫌われることが多くなり、見る目が変わった頃には虐めが始まっていました。

私が発言したのは「意見」。
こういう方がいいという意見でした。

言い方もきっと良くなかったのかなと思うけれど、周りの子供は「多数派」という意見に食い違いしたことに面倒だと思われ、班になると特にうざかられることが多かったのです。
そして私が違う発言したことの出来事があると、子供の見える所で親が意見通して「その子に関わるな」と浸透して嫌味言われることが多くどんどん孤立してしていきました。

ありえませんが、教育ではなく教育する母親がそういう風習にあったこと。
「子供が頭いいと言われるため」、失敗をさせないよう「こんなことやらないでできるの?」という期待の叱りです。

私は多分この環境に育ってきて、子供の自由をなぜ否定することが多いんだろうと思ってました。

子供は親のこと好きになろうといい子と褒められるのに、自分が悪くないと言いつつ弱者を虐める格差社会が少なくとも存在していて、保育園から15年それを虐げられていたのが現在の私です。




2.遊んでいた親友と友達の親死


小学校で虐めに遭いながら、帰ると遊んでいた親友がおり、ゲームをすることがすごく新鮮で好きだった時間だったから虐めを気にしなかった。
文句言わず誘ってくれる嬉しさと家行き来するくらい親共々一緒に過ごした仲だったから、信頼も強く心を許していた

しかし4年生半年過ぎたある日、約束して来ないと付き合いが悪くなり、他の友達と遊ぶようになった途端、私が気軽に声かけていた人から無視する人が多くなっていきました。

(信頼できる子も同じように、親にいい子と思われたいための策略だったらしい。)

突然、連絡しても返ってこなかったり、声かけても疎遠することがなかった友達だったため、信じてもらいたくて休日に友達の家を訪ね、「会いに来た」と友達の親に伝えて待っていた。
何時間経っても帰っても来なくて、友達の親に「申し訳ありません。今日は遅くなるので帰ります。また来ます。」と謝ってまた来ると去った。
その次の日。友達のお父様に伝言を伝えて帰った直後に倒れ、亡くなったと伝えられた。

夕方頃に初めて友達の親が亡くなった葬式に行き、お祈りを捧げて式を終え、親が亡くなった送別会と身近にいる親睦会の集まりで寿司を食べていた集まりで食べていた時に、信じていた親友に「お前が死なせた」と私に向かって強く罵声を浴びるかのように発言した。

その出来事から私は感情というより生きる申し訳さが芽生えてしまい、引き籠るようになった。
何より私が行動してなかったらと身が入らなくなって自分を責めることは、その親友と遊ぶ度に罵声を浴びられることは何回もあった。

ビクビク怯えて生きていたことも、何回遊んでも「なんで謝んないの?」と最後に責められる立場で、その子に逆らえないまま、毎日枕を濡らしていたこと、小学校卒業するまで親に隠していた。

それほどに習い事をさせてくれるお金を払ってくれたと思うほど、わたしの精神はもう既にボロボロ状態でした。



3.トラウマと男性恐怖症と人間不信


「1.虐めとゆとり教育の周りの環境」と「2.遊んでいた親友に友達の親死」と親の自己破綻やリストラされる家族崩壊が同時に重なったことで、自分は最も信用されない人間と認識したくなかった為、保育園の幼なじみとして遊んでいた男友達にこのこと話そうとしたけれど、
会う度に私のことを「嫌いだからくんな」ともうすでに否定しておりとにかく私の話も聞いてくれない状態。
幼なじみだった親に許可する連絡を入れないと入れないような拒絶対応をされるようになり、

親は仕事で帰りが遅く姉は部屋に引き籠って私のことも見向きしない

人に拒絶することの出来事と人に話せなくなっていったのはちょうど小学5、6年で、私がバレエやっていた習い事を辞めていた頃はもうすでに遅かった。

どんな説得をしても理解してもらえず門返し、友達に相談に乗ることも誰にも嫌な対応される環境に限界と息苦しさを覚え、声を失った。
声を失ったことあるのは小学校で4年に一回と6年で一回。

その頃から感情を全て失い人という恐怖感が募り人間不信。男性恐怖症関わらず重いトラウマを一人で抱えるようになった。

自分の意見を押し殺して自分を偽るような生き方に吐き気がして涙は絶えなく、ちゃんとした言葉も語源も曖昧になってきて記憶を消した。
うまくいかないほど虚しい気持ちとこんな自分が許せなかった。



4.当時の記した日記について

私の日記には「誰がこんな悪くさせたのか」「残酷な環境で苦労しても居場所なんてあるのか」全て怖くて、いつ何が起こるかわからない恐怖を言わないほうがいいのか、悩んで綴っていたこともあった。

しかし、4年生の時、友達と遊ぶ姿を見てないの見掛けて先生が「喋ることは悪いことじゃないし、大事なことだからね。無理しなくても言いづらかったらここに書いてくれれば話し相手になるよ」と交換日記してくれて嬉しかったのも呆気なく終わったり(他の生徒がそれを目撃し先生が贔屓していると持ち出してしまい書くことできなくなった)、
保健室にいた女の子2人にも交換日記を誘われるも絶交ということになり叶わなかったこと、
すべてにおいて人に身振りされると思ってなかったほど日記に執着できなくなった。

学校のカウンセリングに相談してアドバイスを受けての解決策である方法は全て行なったが、人の信用とこの環境にどれだけ期待しても無駄だと確信してしまい、

以降自分の意思で
言うことはなくなってしまった。

当時の記録として本当に辛い時しか記してなかったと思う。人と遊んだことは今でもうろ覚えですが覚えている程度です。



5.私が受けた感情と生きる感情

1〜4まで受けたエピソードは全て今ある記憶であり全てが事実なのかわかりませんが、全て私目線での体験を書かせて頂きました。

ゆとり教育じゃなくてもという意見もあると思いますので強く言えません。(覚えてないので流れとして使っていました) 
ですが記憶も勝手に書き換えられてしまい、忘れてしまうってことは長く経験をしてしまうと飛ぶことはあります。

それによって相手の言動だったりが嫌だったりの気持ち忘れるといった、
「虚偽記憶」の違和感を覚えて生活している。

平常の人であっても、経験してなくても経験してると言えるようになるそんな環境が出来上がってしまい、「嘘つき」と思われるかもしれないほど恐怖がある。
話したくない出来事その他にもありますが、忘れるたびに記憶が飛ぶこともあります。

感情の起伏が激しいというより、虚無になる時間が多くなったために感情全てを忘れてしまうの方が近いです。

遅くも人を傷つけている自覚はあります。

昔のダメな行為を思い返すたび「死にたい」と思うくらい怯えて生きてきた私にとって、以前と違うのは認めて生きていく覚悟があったからです。

「死ぬなら後悔しないように生きたい」「自分の想いを伝える」という生き方選びは、わたしの想いがあったからで、
そこまで行き着くまでに母親の気持ちを聞いてあげたりと両親に納得させるのに必死だったので「母に幸せになって欲しい」と強く願うようになってからは、自分がこんなに人にしてあげたいと思うことあるのかと自覚するばかりでした。

その頃に彼氏が出来ても、見てくれるような人ではなかったし会いにいくのに許可は要らないと言ってくれたこと今でも思い出すけれど、

遠慮だった気持ちや信用できるような自分でないことも自覚していて、

今でもその想いや気持ちがあるばかりで未練がましいですが、もし死ぬなら一度でいいから忙しく働きたい。人に認められるような人にちょっとなれればいい。
それだけに人生をかけてみたかった。

人生の賭けで両親に怒鳴られようが、変なこと思わないように筋を通して母の願いを叶えた。
休みの日に行きたいと豪語してくれるから、そこに行って一緒に共有したり。遠慮していた昔は受け入れて、話ができるようになった。

うまく伝えられない気持ちは一緒に共有したら分かり合えるんだと初めて20代になってからは実感するようになり、少しずつ生きる快感をようやっと実感できたのが現在である。

就活して約4、5年経った今はもう生きる感情があって普通に楽しく思えるようになった。

感情が芽生えるようになった。


……以上。昔から今の環境までざっくりお話ししましたがいかがでしょうか?

本当はいうと「慰めて欲しい」と思うのが本命かもしれませんが、こういうことを話せるようになったのも小学の頃に試しに小説を書いたり、いざって時に皆様と話してみたいなと思う気持ちが心の底から根強くあったからです。

拗らせてしまった自分の気持ちを整理するのに大変だった時は感情を放置していて。

何も親のことに触れて欲しくない。何もかも逃げて死にたいと思うほど「好き」といって逃げて自分を守っていた。

経験してるから話せる今は、嘘できなくなってるから多分嫌われてるかもしれないけど。

私の場合、日々直したわけでもなく常に「死にたくない」「生きるならまだやることあるだろ」と強く思えることができたのは、
行動と感覚意識で人を嫌いにならないとかの妥協や許しをできるようになったからです。

私みたいな挫折を味わうような経験をしている人ほど幸せを感じるのは一番大変と言いますが、本当に大変だった。

人に言えない環境は病院やカウンセリングすると、うまくコントロールできないしきっと理解できにくい状況を作っているのにも苦痛を感じる方もいると思います。

そんな状況でも私が言えることは、
身近に誰が居ても話を常にしておく言葉を伝えるということ、です。

自分が〜だったから、今があり言いたかったこと言えただけ成長だと思ってます。

接点があるにせよ人に限って「話しても無駄」と遠慮してしまう私だったから、関係を作れなかったりした。人によっては経験してほしいし後悔して欲しくないと思うかもしれない。

それでも私という人をそのままを見てくれる人でなければ、生きてる気がしない。

私自身だからきっとそう思うのもあるけど、
どういう状況だろうが、理解するには話は何しても必要不可欠です。
人に認められたいならどことなく「たくさん自分のことを話す」というのは悪くないと思ってます。
時間を作って話すだけでもいい。

そんなことを作る人であれば人と話すってことは嫌になることはないし、話したくなるって言う状況を作るって大事にしたら。
話せるようになった時は、周りが集まる。

少しでも自信をつけさせるのもありなんじゃないかなって思います。

長い長文ですがここまで付き合っていただきありがとうございました。次回も私なりの気持ちですがお話聞かせればと思っております。

そして言葉ながらに不定期であり、定期的伝えたいと思いましたが伝えるのに何ヶ月か経って書かないと文ができない自分なのでご理解いただければと思います。
聞いてくださった経験やたくさん苦労してたことも、笑い話になっていい話にしてくれれば私はそれだけで救われます。

難しく思いたくないし、ずっとヘラって笑ってるやつだとしても苦労は誰しもあるので、暖かい広い心で受け止めてくれるだけで十分ありがたいことだと思ってます。

本当に本当に見てくれる人、聞いてくれる人最後までありがとうございました。次回も続きます。陽奈でした。

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