見出し画像

実母の誕生日だったので〜実父母の人生の話〜

昨日は産みの母の誕生日だった。実父がLINEで知らせてくれた。

なので、私の実父母の話を少ししようと思う。

最近は、実父が今までの自身の人生の事を振り返り、色々教えてくれる。私からしたら、自分の出生に関わる事で未知な事も多く、父母がどのように生きてきたのかも、やはり興味深く、知れる事に有り難く思い聞いている。

私の実父母は長年海外宣教で、インドやアフリカの貧しい地域に住んで苦労してきた。子供達(私の兄弟達)もみんなで行っていたので、話を聞くと逞ましく面白いエピソードをみんな沢山持っている。
ここからは実父から聞いた話だ。

インドでは、実母は世界平和女性連合(WFWP)の責任者をしていて、インドだけでなくアフガン難民支援の活動などをしていたらしい。当時アフガンは内戦下で多くの難民がインドに避難してきていた背景があった。
父は外大出で、ヒンドゥー語やその辺りの地域の語学を学んでおり、現地ではアフガン宣教師に任命され活動していた。アフガン難民を訪問し、自宅でペルシャ語教室を開いたりして、大盛況だったそうだ。
また在印アフガン難民を率いて、アフガニスタンの首都カブールを訪問し、世界平和女性連合として大統領と官邸で面会した事もあったという。
文鮮明総裁ご夫婦も、何度かインドに訪れ、実父母はその為の準備に励み、来印中は隣の部屋で過ごしながら、侍っていたという。

その後家族でアフリカへ。
次の任地は、アフリカの西側にある小さな国。
そこで各国から来た宣教師たちが、手作りで大きな教会を建てたそうだ。
アフリカには貧困故に教育を受けれない子供たちが多くいる。そこは特に教育が行き届かず、貧困が蔓延していた地域だったそうだ。
そこで、その教会の敷地を使い、子供達に教育を始めた。現地のスタッフ、専門家を雇い、学年毎のカリキュラムを作り、先生も教育を受け公的な資格をとり、学校運営をしていったという。初めは小学校。その後その活動を支援する為のNGOを立ち上げ、中学校の学舎建設、スタッフ雇用などを行い、学校運営を成功させ、今も現地に残る日本人が、一般の協力者の支援や協賛を受け、学校運営を継続し行っているらしい。

アフリカでは家族が次々にマラリアやチフスや熱病等に罹り大変だったらしい。まだ弟や妹は幼かったから余計だ。
また現地滞在中に、クーデターが起き、その国の軍艦で家族で隣国に脱出したらしい。

少し時間が前後するかも知れないが、この頃母の病気(リンパ腫)が発覚。日本に帰国し、病院で治療の相談をするが当時は中々できる事が限られていたらしい。

それで父と母はまた任地に戻り、活動を続けた。
神様を信じていて、心から世界平和を願い、情熱や志を持って活動していたから、自分の体の事だけを考えていられず戻ったらしい。
母は定期的に日本に戻り治療も受けたが、数年後任務が終わり、家族で帰国した後に病気が悪化し、母は一年間入院し闘病の後聖和(他界)した。

父はこの話をしながら「絶対信仰」を持っていたと言っていた。
統一教会の「絶対信仰」という言葉は批判的にも取られているが、それは他人が押し付けた「絶対」なら批判されても仕方ないと思う。
ただ父のこの話を聞いた時、私の実親は自ら「絶対信仰」を貫いたんだなと感じた。
そしてそこに後悔や恨みはなく、一生懸命世界の為に生きてきた父母の姿があって、それは素直に凄いことだし誇らしく思えた。

子供達(私の兄弟達)は、インドやアフリカの貧しい地域で過酷な生活もしただろうし、病気になっても日本のように大きく設備の揃った病院にすぐに行けるわけでもなく、本当に一刻を争う事もあったという話も聞いたりした。
お母さんの事では特に寂しい思いや複雑な思いもしたかもしれない。
でも、明るくアフリカで体験した話などを色々聞かせてくれて、とても興味深く面白かった。
みんな強くて優しく育った。
今も兄弟達みんな父母を大切に思い、誇りに思っているように感じる。

私もこんなに詳しく実父母の人生について聞いたのは最近の事だが、過酷な環境でもこんなに情熱的に利他の為に生きてきた実父母は凄いなと純粋に思ったし、短い人生だったけど、それを最後まで志持って生き抜いた母の事も誇らしく思えた。


〜最後に実母に〜
私は貴方達に比べたらとても平凡ですが、お母さん達が志や情熱を持って生きてきたように、自分の人生、自分のできる事で、志や情熱を持って生きていきたいと思います。
お母さん、私を産んでくれて、ありがとうございます。
あなたがいたから、私がいて、私の家族がいる。これからも見守っていてください。


※写真は実父が撮ったアフリカの学校。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?