“足るを知る”じゃなくて“足らないを知らない”なんだと思う|心に浮かびゆくよしなしごと

正直に言おう、私は今の生活に満足してしまっている。
そして、「満足してしまっている自分」が、不満だ。

私が思い描く、幸せ

「幸せ」という言葉で
今の私が真っ先に思い浮かべる情景は、
暖かくて肌触りのいい毛布に包まれながら
大切な彼に抱きしめられる自分の姿だ。

半年前までは、
仕事が忙しすぎて気絶するように眠っていたので
毛布の心地よさを味わう余裕などなく、

また、その頃には恋人もいなかったので、
"彼の温もり"は幸せの想像にすら入っていなかったのだけれど。

幸か不幸かこの"幸せ"の姿は、今や毎晩眠る時の私の姿で。
今の私はこのお金もかからない幸せに、毎日心からどっぷり浸かっている。

それはもう、幸せも幸せ、満足な生活である。

満足すると、もう動けない

さて、それほど幸せで満足のいく生活を送っているのなら、
さぞ不満などないのだろうと思うことだろう。

しかし、それがそうもいかないのが人生の難しいところで。
今の私は「目標がない」という問題に直面してしまっている。

「もっとお金が欲しい」
「こんな大きな仕事ができるようになりたい」

そんな目標があればこそ人は向上心を持って頑張れるわけだけれど、
ほとんどお金のかからない幸せに心満たされてしまっている私は
「もっとお金が欲しい」などとは思えない。

自分が描く「社会人」としての将来設計は
とりあえずあと3年くらいで子供を産んで在宅ワーク or 専業主婦なので、
社会人として求めるレベルは「大きい仕事」どころか

仮に彼が仕事をやめたり、彼と別れることになったとしても
生きていける程度には稼げるようになること(できれば在宅で)

くらいなもので。

実際、子供1人と自分くらいなら養えてしまう給料をいただいている今、
「今より上」を目指すために頑張るだけのモチベーションが湧いてこない。

「人生」と「仕事」は分けることはできなくて、
食事中・入浴中・通勤中、など何をしている時間も、
マーケティングのことを考えるよね、という会社で。

会社全体で向上心が強くて、
「じゃあこのクォーター(3か月)で何ができるようになろうか」
なんて会話になる会社で。

目標もないまま働き続けるのは、
自分の意に反して引きずって動かされているような痛みと
それでも思ったよりも動けない自分への自己嫌悪とがあいまって。

ひどく、苦痛だ。

“知らない”ものを人は欲しいと思えない

では、なぜ私には目標がないのか?

足るを知りすぎていて、現状に不満がないからではないか、と思っていたのだけれど。

しかし最近ふと、
実は“足らない”を知らなさすぎるせいなんじゃないか、と気づいた。

例えば、普通の人が「お金が欲しい」というシチュエーション。

それは服やカバンなどが買いたかったり、
美味しいものを食べに行きたかったり、
旅行がしたかったり。

自分の満たし方は知っているけれど
「お金がないからな…」と我慢する経験から
生まれる欲なのだろうけれど。

基本UNIQLOで、ファッションにお金をかけて
「いいことがある」という経験をしたことがない

ちょっと背伸びする高級なレストランに行って
「美味しくて感動した」という経験をしたことがない

学校の修学旅行や会社の出張などでしか旅行にほとんど行ったことがなく、
「めちゃくちゃ楽しかった」という経験をしたことがない

そんな私は、
「これをしたら自分が快感を得られる」という経験が圧倒的に足りなくて、
だからこそ「もっと欲しい!」とならないんじゃないだろうか。

これで満足している現状は、「足るを知る」ではなくて、
「足らないを知らない」というだけなんじゃないだろうか。

最近、そう思うようになった。


けれどそれすらも、

もしかしたら世界には
私の知らないキラキラしたものがもっとあるんじゃないか

そんな期待を捨てきれていないだけなのかもしれない。
足るを知れていないのかもしれない。

そう思うと、現状に甘んじるのは悪くない選択肢で、
目標なんてなくても苦しくないような会社に
転職するのが最適解なのかもしれない。

そんなことを考える、土曜日の昼下がり。

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