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たまには光る。

今日、映画トラペジウムを見てきた。
その勢いで久々に書きたくなった。
というより、書かないと上手く自分の中で消化出来ないからだ。

本当にいい映画を見た日、俺はいつも気落ちする。それも酷く落ち込み、夜は飯も食べず早めにベッドに潜り部屋を閉め切ってぐるぐるとその作品ただ一点について考える。今がそうだ。

ただ実はこれが嬉しい。この気落ちはどこか心地よく、静かに、だけど確実に強く"生"を実感出来るからだ。

こうして深く沈む日はなかなか訪れない。
まずはトラペジウムにそれを感謝する。
今年に入ってから初めてこの状態に入れたから。

自分の中でなんでここまで刺さったかというとcloverworksの美しいアニメーション描写の数々が完璧だったことがまず第一に大きい。

そこに相反するように内容は人間味溢れる、それもテイストでいえばアニメーションでカバーするのが難しい程に1人の少女の無自覚で未熟な計画が起こした痛みの伴う成長物語であったこと。

この2つがギャップとして凄くいい作用をしてた。

思春期のあの年齢にもなるとある程度人間は打算的に人との関係を作るようになる。

俺の場合は大学に入ってからだったが、明確な目標がある主人公が起こす行動自体には特段驚くこともなかった。

それよりも、原作を読んでいないから東さんの家庭環境(カナダに行っていた期間があると終盤で突然明かされたり父親が登場していなかったり)やそれ以外のキャラの育ちに対する部分が分からないままだったのがこういう風に文字を纏めていると気になって仕方ない。

映画内では完全に東さんに巻き込まれた形になっていて加害者と被害者の構図が勝手に視聴者に作られてしまっていたが、彼女らは高校生な訳だし、事務所契約や、テレビ出演、都内までの遠征等かなり自主的に動いたりする必要があると思う。

だからやっぱり中盤の決定的な自体が起きるまでは東さんによって運命を捻じ曲げられたのではなく、本当に楽しい瞬間はそれぞれに明確にあったのだ。

考えてみたら東さんが声をかけた3人はそれぞれ友達という存在の描写が一切なされていない。

くるみも「初めて友達になってくれたのは東ちゃんだよ」って言ってるし、亀井さんも過去の事がバレて浮いてると言っていたし、蘭子も同様だった。

だからそういう関係性についてのモヤモヤについてはそこまで酷いものでは無いのだ。なんなら本音をぶつけ合える関係になれた時点でそれは本物なのだ。

東ゆう


東さんの性格、面白かったね。

なんなら同族かもしれない。

ボランティアで自分の思い描いていた形にならなかった時の態度。
味噌汁に虫が入った時に虫を捨てるのではなく味噌汁自体を全て捨てるとこ。
文化祭でも自分の提案が通らなかった時の不貞腐れ具合。
男からの視線、そもそも男性に対する嫌悪感。
この辺り、ひとつひとつ考えていくとかなり話とも繋がってくる。

例えば味噌汁の場面、虫が入ったら味噌汁ごと捨てるか?もしかしたら育ち的な意味では普通のことかもしれないけど、俺は虫取り除いて飲む。
だからこれはメンバーへの対応と重ねた描写だと思う。東西南北という器に不祥事で黒い染みが付いた時に東さんはメンバーを切ったりはしなかった。

そもそもが4人揃っていないと意味の無いグループなので当然なのだが、その後事務所に残る決断を自分は出来たが、それもせずに自らも退所を申し出た。それは何処かで運命共同体としての意思があったのでは無いかと。

続いてくるみちゃん獲得のため工業高校行った時の男性に対する嫌悪感描写、いや嫌悪感という言い方も違うかもしれないもっというと邪魔くらいの感覚?それ以前にボランティア時でのサチちゃんへの態度もだけど、自分に利のある存在以外への興味が非常に薄い。

まるで自分だ。

そしてこれを書いていて気付くんだけど、このアニメではアイドルアニメなのにファンの描写がほぼ無い。

出てきてもそれはSNS上での数字だったり言葉、後はファンレターくらい。

でも確かに東ゆうという人間を描く上では省くべきものなんだとも思う。

最初から見ていたのはステージで光るアイドルの姿であり、そこにあるファンの輝きは含まれてはいなかった。

作中で「なんでアイドルになりたいの?」と訊ねられた時も"光る"という事を常に言っていた。

それは照らしてもらうのでは自らでそうなりたいという自己承認欲求が強いのだ。

他者に承認欲求を求めない。ここに関しては格好いいと思う。

そしてこうして東ゆうを見ていて俺は今の社会に蔓延するしょうもない「クリエイター」という言葉が脳裏に浮かんできた。

勘違いしないで欲しいのは東ゆうはしょうもなくない。彼女は凄い。天才でもなく、そして適当にもならず知識と計略と運を味方につけ自らの力で這い上がった真の勝者なのだから。

では何故いきなり「クリエイター」という言葉を出したか。それは今がクリエイター神格化社会だからである。
例えば芸人、漫画、小説、映画、タレント、YouTube、そういう創作をしている人間を神格化する風潮はどんどん強まってる。
何かを作ってる人は凄いと思いすぎている節がある。
違う。やるか、やらないか。その二択だろ。
それに何かを作っている人間を神格化するのなんて、所詮はそれが金になるからに過ぎない。
そもそもが創作者と消費者で線引きしているから良くない。
そこには人間がいるだけだ。
種類なんか無い。
極論、俺だってここまでの人生を創作してるし、誰にも見られないこのnoteだって創作なんだ。
文章を書いてない時だって常に創作なんだよ。

さて随分脱線したけど、ここで東ゆうの「だってアイドルって沢山の人たちを笑顔にできるんだよ?こんな素敵な職業ないよ!!」というあの狂気染みたシーンを思い出して欲しい。
このシーンの東ゆうは有象無象のしょうもないクリエイターに飲まれてしまってる。仕方がない。そもそもこの時代に育ってそうならない人間の方が原始人並に見つけるのが難しい。
だけど彼女は最後に残った"モノ"を見つけた。気付けた。だからしょうもなくないのだ。
そのモノについてはあえて言葉にはしない。

東ゆうに対して結局色々と語ってしまったが一度この辺で終わりにしておく。

cloverworksの映像美

最初にも言ったが、1番語りたいのは結局ここなんだ。
これがあったからこの映画のnote書いてる。
かなり好きだったのは舞台となった場所。
その中でも電車、海、星、そして要所での光の使い方。
あの日あの時を描く上で大切な原風景として落とし込む上で満点。
電車に関しては内房線、南房線での描写が多くそこから見える海を印象的なものにしていたんだけど、ここの使い方にも口角上がった。
というのも、くるみが段々と心が壊れていく場面の度に夕焼けのキラキラと反射する海と美しい水平線を映す。
ここでその海の手前に架かるケーブルも入れてる。
これが電車から見える海の風景と心身のバランスの崩れそうという不穏さを見事に表してた。
それと城山公園……………。






ここまでnote書いといてあれだけどこのアニメーションとしての良さを語るのなんか嫌だな。
なんか野暮なこと言ってるかも。
俺が言いたいのって彼女たちのあの頃の原風景の舞台としての完璧さであってそれ以上でもそれ以下でもないんだ。だからシーンと合わせた表現の上手さとかは二の次でただ、

ただその一点に対して共鳴さえしてくれればいいんだ。

俺はこの映画の背景描写が大好きだ。
1番語りたいのはとか言ったが、やっぱりそれは語らない事にする。

あとはもう自分で見て感じろ。見つけろ。

その先で俺は光りながらお前を待ってる。


オタクもたまには光るんだ。




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