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「世界観」は作るものではない

5月に入って、ふと舞い降りてきた(←と書くとかっこいいw)のが「世界観」というキーワード。

今までも
「この人は独特の世界観があるな〜」
「このブランドの世界観が素敵だな〜」みたいなことは思っていたのです。


特に今のお仕事を始めてから、より「自分」というものを意識するようになったからかもしれない。そして「自分」を意識すると、それと比例したように「他者」の存在もくっきり見える。
InstagramやYouTubeや、もちろんこのnoteでもそうだけど、「あ!素敵」と思う人ほど惹かれる世界観を持っている。(ように感じる)
だから「世界観がある人」ってなんだか憧れでもあり、羨ましさを感じる存在でもあった。自分に「ない」ものをすごく持っているような気もした。


そしてそんな素敵な人達の世界観を追っているうちに共通して「伝える力」(語彙力、話し方、伝え方、表現力、想像力、文章の書き方、写真の撮り方等など)がとてつもなく高いことに気づいて、まずは伝える力を磨こう!と思った私。
数冊ハウツー本読んでみたり、話し上手な人の話しをインプットしてみたり、伝えるにあたって、自分の思い・考え・感覚を言語化してみたり。


だけど自分がアウトプットする時にはどこかストレスが重ーくのしかかる。頭が疲れる。もしくは頭が空っぽになる。初めは誰しもこんなもの!と思いながら奮い立たせて頑張るものの、うまく書けない・話せない、書いた後しっくりこない、なんだか言いたくことがよくわからない、時間かかった割に達成感なしという現実が続く。笑
次第に「自分って、そういうの向いてない」「そもそも人間得意なことと苦手なことがあるもんね」と諦めという名の逃げを選択しようとした夜も何度もあった。笑


「人間凸凹があるもの」という感覚は今も尚あるのです。
でも自分の心が”苦手意識”をしっかり掴んでいることは、今の自分にとってひっかかっていること。だから自分を納得させて終わらせるのは自分をごまかしているような感覚が強くあった。
とはいえ、今までのやり方はなんだか違う気もするな…とちょっと距離をおいていたのが昨年秋から最近までの話です。


で、疲弊するくらいなら発信しない!というマイペースな発信をすること約半年。そこで冒頭にも書いたように再び降りてきた「世界観」というキーワード。


うん、私は「世界観」をたいそうなものと勘違いしていた気がするぞ。
というか自分の世界観を「作ろう」と必死だった気がする。過ぎ去った今だから感じることだけど。

特別な力を磨かなきゃ出来ない、自分の感じたことを言葉にしなきゃいけない、その為に語彙力が足りない、足りない力を足さなきゃ出来ない…。
今の自分には「ない」が大前提で、それを意識して見ようとしたり、言葉にしようとしてたり、作り出そうとしてたのかもしれない。
結果「自分」と「世界観」が分離していく。


でも「世界観」はすでに自分にあるよね。
だって同じ場所にいたって空見上げている人もいれば風に揺られる木々を見つめる人もいる。人の様子を観察している人もいれば、音楽を聞いてコーヒー片手に読書をしている人もいる。同じ出来事に遭遇しても、笑う人もいれば喜ぶ人もいたりして感じ方は様々。
他人から広がっている景色と自分から広がっている景色では、それはもうまるで世界が違う。

見える景色、起きる出来事、自分の感度にひっかかる物事も全部含めて、もうそれだけで自分の世界観だったな。
自分からどんな世界が観えてるの?
本当は、ただただそこに意識に向けてあげることだけで十分だったこと。
そして世界観は作るというよりも
今の自分はこんな景色が観えていることを知って、その観てる景色をちょっとずつ明確にしながら広げていく感覚に近いのかもしれない。と、今の私は思う。

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