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59「卑弥呼・少有見者」から繋げた「邪馬台国」「邑日野・柳田國男の故郷」説!!

「卑弥呼・阿遅須伎高日子根命神」説、「臺興・天豊津媛命」説!!         卑弥呼ファン集まれ!! 「卑弥呼」はここだー!! 
〇卑弥呼の父(埴岡寂諦) sakurako_saku・・・・、
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文化センター開設二十周年 記念事業 【記念講演】
                                              天台座主第253世  山 田 恵 諦 大 僧 正
 演題「 心 豊 か に 生 き 生 き と 」 抜粋

模 範 地 域 を 福 崎 町 に
 私 は 、 是 非 と も 、 福 崎 町 の 皆 様 方 に 日 本 だ け じ や な く て 、 世 界 中 の 人 々 が 模 範 と す る 福 崎 町 を つ く つ て い た だ き た い 。
 そ う し て 、 そ れ を 以 て 人 間 生 活 の 標 準 は 、福 崎 町 に あり と 、 世 界 中 の 人 が 言 う ま で に し て や っ て い た だ き た い 。       そ れ は 、 福 崎 町 に は 出 来 る と い う 信 念 を 、 私 は 持 っ て い る 。  一番 最 初 に 申 し ま し た け れ ど も 、 文 化 勲 章 二 人 も 出 さ れ た 町 、 何 故 福 崎 町 か ら そ の よ う な 偉 人 が 出 る の か 。 決 し て そ の 二 人 だ け が 偉 い ん じ ゃ な い 。 そ れ を 生 み 出 す ご 先 祖 が あ っ た か ら こ そ な ん で す 。 そ れ を 生 み 出 す 環 境 が あ っ た か ら 、 宜 し い で す ね 。 ご 先 祖 と 環 境 と こ の 二 つ が 、 き ち つ と 一 つ に な っ た 時 に 初 め て そ こ に い け る 。

  柳田国男先生が、10歳の頃に大庄屋三木家の三木承太郎翁に預けられ三木家にあった 数多くの蔵の中の蔵書を読んだ中で、柳田国男先生が明治の舶来西欧文化の行き過ぎに懸念を抱き民族学の研究に傾注された。
  これほどの大きな研究の成果の中で「魏志倭人伝・卑弥呼・邪馬台国」が、柳田國男先生に繋がらなければ、何の意味もないということになるですよねー。 

先 祖 と 環 境 と こ の 二 つ が 、 き ち つ と 一 つ に な っ た。


    毎年、神積寺の文殊会式には「勅使の下向」があって、長目の勅使寺からの出立を見守り、接待の準備が間に合うよう準備すると聞かされている。

偏正院の記録
 
元弘の頃神東神西福崎町周辺に居住せし人達
西光寺 清水巌
元弘三年二月二十二日 寅の一天(午前四時)元弘の乱に
赤松則村が 挙兵をした時に 着到をした人達の中より抜粋
これは(播磨後風土記 八、九巻より)(元弘は一三三三年)
赤松則村(円心)はすぐれた武人であったので 十二軍団を
造りました この団長は円心の近親の人達です
第一軍 赤松則村 第二軍 赤松頼範
第二  在田朝則 第四  本郷直頼
第五  広瀬師頼 第六  神出範次
第七  赤松貞範 第八  赤松貞村
第九  赤松則俗 第十  赤松義則
第十一 赤松義雅 第十二 赤松晴政
この内 第五軍の団長 広瀬師頼は 宍粟郡 揖東 揖西
神東 神西 五郡の采地の領主でありました
師頼は 宍粟郡長水城主  この幕下永良長五郎は 神西郡
の永良城主でありました  この外の家臣に 砂部 滝
本庄 藤原 鶴井 大井 岡  今井 小室 平田 田尻
大国 矢野 等の一族が五郡の内に 住居しておりました
広瀬家の家臣達
勝為  鶴井則勝
為重  鶴井丹波守
此滋  鶴井内蔵助
滋近  岡五部兵衛 紋笹丸
恒年  小室遷次郎
年安  小室十七後号兵太兵衛 武幹有
為比 岡部主計 家紋重枡 美作知和太夫
比近  犬見次郎 家紋重井筒
森恒  小室千八  紋地扇
為信  今井十郎二 家紋扇丸
信平  今井十左ヱ門尉 家紋地扇
信楽  岡部左弥太 家紋重桝 信平長男也
平種 今井重太郎
平真  今井左近 日原郷居住
真定  今井右膳
直邸  多胡兼太
平雄  多胡左膳
 
定年 今井重郎右エ門尉勲七等
 年種 今井善十郎 後に有井邑住居(辻川村の事)
種成 平田五郎左工門 家紋梅鉢 田原郷住居
森清  田尻小助 田原郷住居
清兼  多胡又兵ヱ義之の義子 武幹有
種近 今井重郎左ヱ門 花好人芳蘭三
近三  今井善七
行国  今井五郎兵ヱ尉宗念 茶道達人
国定  今井五郎又称善五郎
真修  今井八郎兵衛
修武  今井九左ヱ門
修安  今井八右ヱ門 百俵永良二仕
竹重  今井五左ヱ門
清次  今井小七郎 家紋風車大見扇
神崎左近元秀  家紋藤巴結梗
後藤基明 伊勢守 春日山城主 弓の達者 (太平記)
田原郷住居とあるのは変りないが 一三〇〇年代以前 辻川
村はなく有井邑とばかりあります
西光寺部落内には 南の池の北に 姓はないが 左近屋敷と
言う 字名があります この様に住居して居たのでありまし
よう  又播磨鑑には吉田村に 吉田左近 居住とあります
平田の姓が 長目村の薬師院の近くに 住居して居たが
今では 村の南の方に居を構えて居るのが 平田五郎左衛門
の後裔と思われます 家紋は梅鉢五七重菊 明治以前には
姓はないが 貧乏して居ても 家紋は 祖先より伝へられて
居る家がたくさんあります(平田家の系図を見て)
又延慶年代に 妙徳山神積寺が 火災でなくなった時より
二十五年後に元弘の乱がおこりました 妙徳山の偏正院 金
剛院 より 騎馬三人 歩兵二十人旗揃して着到同じく 田
原庄神主 文殊院これに同列するとあります
円心公 別に 着到ありて 酒肴 珍味を賜ふとぁります
以上は播磨後風土記 赤松挙兵集士録 赤松秘士録

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