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天照大神と伊勢神宮 (21)       山中章氏が考古学から伊勢神宮の成立に迫る

次に、穂積裕昌氏と同様に考古学の立場から伊勢神宮の成立に迫った論考として山中章氏の『考古学から見た古代王権の伊勢神宮奉斎試論』を見てみます。この論文は穂積氏の論考をかなり意識して書かれており、文献研究の成果と考古資料を照応させて、どの時期の説に矛盾無く読み替えられるかを検証する穂積氏の論証方法に対して、いったん文献史料から離れ、遺物や遺構から時期を特定して大和王権の影が色濃く反映する資料に焦点を当てて伊勢神宮に迫ろうとするもので、多くの部分で穂積氏に反論が展開されます。
 
封建的支配関係にあった古墳時代において、大和王権が地方に進出するには大きな障害があり、これを克服するための措置がミヤケ制、部民制、国造制でした。著者は、これらの諸制度の成立を経て伊勢湾西岸地域において大和王権が直接的に地域へ進出する時期は6世紀前半以降とし、特に空間を占有し、王権の直轄的支配が及ぶのは6世紀後半以降である、とします。4世紀以降に在地首長層が支配していた伊勢の地に大和王権が奉祭する神祀りの場を割譲することを求めたとすると、考古資料にどのような変化が生ずるのか。著者は大和王権を構成する有力首長と地方首長との人的な結合が不可欠と考え、その象徴が前方後円墳であり、伊勢度会の地にこそ、その痕跡がなければならないとして、伊勢および周辺地域における前方後円墳の展開状況を検証します。(著者は広瀬和雄氏らによる古墳編年を用いますが、ここでは実年代に読み替えて表記します。)
 
北部伊勢地域では4世紀前半に伊勢最古の前方後円墳である高塚山古墳(全長50m)が桑名に築造されます。その後、4世紀後半までに志氐(しで)神社古墳、能褒野(のぼの)王塚古墳、寺田山一号墳などが築かれますが、5世紀代に入るとこの地域に前方後円墳が見当たらなくなります。
 
中部伊勢地域では4世紀に池の谷古墳(86m)が築造されるまで、中部・南部の古墳は一志郡域を中心とする前方後方墳であり、その後も大型円墳がこれに次ぎます。池の谷古墳に続いて4世紀後半に伊勢最大の宝塚一号墳が築造されます(穂積氏は等古墳の築造を5世紀前半としています)。続く二号墳は矮小化し、帆立貝式に近い前方後円墳になり、その後は5世紀末までこの地域から前方後円墳は姿を消します。この状況は北部伊勢地域と同様であり、著者は中央との間に何らかの問題が生じた可能性を指摘します。
 
南部伊勢地域では古墳時代を通じて前方後円墳あるいは際立った首長墳が築造されない状況が認められます。当該地域は伊勢神宮が所在する地域であるものの、6世紀中頃まで古墳を媒介とする政治秩序とは無縁の地域であったとします。
 
伊勢地域におけるこうした大和政権との希薄な関係が激変するのが6世紀に成立した横穴式石室を伴う後期古墳の築造でした。北勢では6世紀初頭、井田川茶臼山古墳に横穴式石室が初めて導入され、6世紀後半になると急激に広がり、安濃郡域の長谷山古墳群のような大群集墳が成立していきます。
 
南勢における横穴式石室の展開で最も注目されるのが両袖式の巨大横穴式石室をもつ6世紀末築造の高倉山古墳で、この古墳の出現が大和王権の伊勢地域進出の証左であり、6世紀後半になってようやく伊勢神宮所在地の一角に強力な大和王権の痕跡が認められたとします。また、その他の注目すべき後期古墳として双龍環頭大刀を副葬した磯浦(礫浦の間違いか)の宮山古墳をあげます。伊勢地域では一志郡の鬼門塚古墳などに単龍環頭大刀が確認されており、単龍を物部氏、双龍を蘇我氏の配布品とする清水みき氏の見解に従うと、南勢地域は7世紀前後に蘇我氏との関係を深めたことになります。
 
以上のように主に古墳の築造経緯を通して伊勢神宮の地と大和王権との関係を明らかにした結果、6世紀末に初めて伊勢地域全体が大和王権による統一管理体制下に入ったとします。さらに、穂積氏が神島と坂本一号墳における一定の照応関係を想定した頭椎大刀については、伊勢固有のものではなく蘇我氏によって配布された剣であり、大和王権の関与が度会郡域に及んだことを示す初めての資料だとして、この時期こそ皇祖神天照大神を伊勢に奉祭する絶好の機会であり、伊勢神宮成立の契機を6世紀後半に求める所以とします。
 
最後に、伊勢神宮をめぐるその他の考古資料についても触れられます。まず、内宮の荒祭宮の立地が古墳時代祭祀場の選地として典型的であり、汎国家的なレベルで決定されている可能性が高いとする穂積氏の見解に対しては、国家権力が全国の祭祀場モデルを示して形成させたわけではない、などとして反論します。次に、神島の八代神社所蔵品にある画文帯神獣鏡について、全国で24面ある同型鏡のうち3割近い7面が伊勢湾周辺にある背景には、国際情勢の変化や大王専制体制の強化のために国家的祭祀の場を必要とした雄略朝による配布が想定されるとする岡田精司氏や同氏の説を首肯する八賀晋氏の論に対して、24面のうち5世紀代の15面は雄略朝による配布としても6世紀代の6面は継体朝によることが想定されると主張します。そして内宮の祭祀遺物について、内宮空間が5世紀代には大規模な祭場であったと推定する穂積説に対しては、当該地域において大和王権との関係を端的に示す前方後円墳が一基もない中で内宮空間に大規模な祭場が展開していたと理解すれば、その利用者は在地首長層以外に考えられないとして、一歩踏み込んだ主張をします。
 
穂積氏および山中氏の論考は、古墳の規模や築造時期、なかでも高倉山古墳の位置づけ、さらには内宮祭祀空間の意味、神島の八代神社所蔵品の捉え方など、伊勢神宮の成立を考えるにあたっての具体的な材料を提供してくれました。また、陸海の交通路、土師器や須恵器などの土器生産、あるいは土器の分布など、ここでは取り上げなかった課題もあります。文献からのアプローチだけではどうしても隔靴掻痒になるところを物的証拠をもって語れる考古学からのアプローチが欠かせないことを再確認しました。
 

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さて、「天照大神と伊勢神宮」について、ここまで21回にわたって専門家諸氏の説を見てきました。ここからは、これらの説を参考にしながら私なりに考えたトンデモ説を15回シリーズで紹介したいと思います。お楽しみに。

(つづく)

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