継体天皇の考察⑦(越前での伝承)

 今回は母の振媛とともに越前で過ごした継体にまつわる数々の伝承を紹介します。
 
 日本書紀は、幼い時に父を亡くし、母とともに母の実家のある越前の高向に移った男大迹王(をほどのおおきみ)、のちの継体天皇はその地で成長し、人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かな成人になった、と記しています。そして男大迹王が57歳の時、大和では第25代武烈天皇が崩御し、少しばかりの紆余曲折があった後、翌年(西暦507年)に58歳となった男大迹王は第26代継体天皇として河内国樟葉宮で即位しました。即位後の事績は別の機会に譲るとして、ここでは男大迹王として越前を治めていたときのことについて考えてみます。

 幼年で越前に移り58歳で即位したということは越前で過ごした時間はなんと50年以上に及ぶということになります。ただし、古事記ではその崩御の歳を43歳としているので、その年齢に大きなズレがあることになりますが、ここでは日本書紀の記述に従っておきたいと思います。

 今から10年と少し前の西暦2007年(平成19年)、福井県や滋賀県では継体天皇即位1500年を祝う様々なイベントが開催されたそうです。その結果、継体天皇にまつわる様々な伝承が一般に広く知られるようになりました。とくに越前における男大迹王の為政者としての主な伝承には次のようなものがあります。

●当時の越前国は沼地同然で、居住や農耕に適さない土地だったので、まず足羽山(あすわやま)に社殿(現在の足羽神社)を建て、大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀ってこの地の守護神とした。
●大規模な治水事業を行い、九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を造って湿原の干拓に成功した。この結果、越前平野は実り豊かな土地となって人々が定住できるようになった。
●三国に港を開いて水運を発展させ、稲作、養蚕、採石、製紙、製鉄などを奨励し、様々な産業を発展させる基礎を作った。これによって男大迹王は「越前開闢の御祖神(みおやがみ)」と称えられるようになった。
●即位のために越前の国を離れる際に「末永く此の国の守神に成らん」と自らの生霊を足羽神社に鎮めて馬來田皇女(うまくたのひめみこ)を斎主として後を託した。これによって足羽神社では継体天皇が主祭神として祀られている。

これらのほかにも次のような伝承が様々なサイトで紹介されています。

●男大迹王が河和田の郷に視察で立ち寄った際に冠を壊してしまった。片山村の漆塗り職人がこれを修理して「三つ汲み椀」を添えて献上したところ、大変喜んで「片山椀」と命名して産業として奨励した。これが今日の越前漆器に発展した。
●足羽山の笏谷石(しゃくだにいし)は越前青石とも呼ばれ、男大迹王が産業として奨励した伝承に基づき、近年まで足羽山で採掘されてきた。足羽山には笏谷石採掘に携わった人々により王の遺徳を讃えるために造られた石像が立てられている。
●男大迹皇子は古代製鉄技術を駆使して鉄製農具や今までにない鉄製の道具を量産し、それを使って農業振興や治水事業を推進した。
●鯖江市上河内町の山中に自立するエドヒガンの古木は男大迹王が如来谷と呼ばれる山中に植えた薄墨桜の孫桜と伝わる。
●男大迹王が上京する際に、岡太(おかもと)神社の桜を形見とするよう言い残したが、上京後は花の色が次第に薄黒くなり、いつの頃ともなく薄墨桜と呼ばれるようになった。
●男大迹王の娘である茨田姫(まんだひめ)が住んでいたとされる場所が尾花町に残っている。尾花の裏山の「天王」というところから石室が見つかり、土器や刀剣、勾玉が出としたことから、茨田姫の墳墓だと伝えられている。
●男大迹王が味真野に住んでいた頃、九頭竜・足羽・日野の三川を開く治水事業を行った際に建角身命(たけつぬみのみこと)・国挟槌尊(くにのさつちのみこと )・大己貴命(おおなむちのみこと)の三柱をこの地に奉祀して岡太(おかもと)神社を創建した。
●男大迹王が味真野郷に住んでいた頃、当地の守りとして刀那坂の峠に木戸をもうけ、守護神として「建御雷之男命」を祀った神社を建てた。これが刀那(とな)神社の始まりである。
●男大迹王が味真野に住んでいた頃、学問所を建てて勉強をしていた。地名も文室(ふむろ)と呼ばれ、ここに宮殿を建て応神天皇から男大迹王の父、彦主人王までの五皇を祀ったのが五皇(ごおう)神社である。
勾の里は第1皇子である勾大兄皇子(第27代安閑天皇)の誕生の地で、男大迹王が月見の時に腰を掛けた月見の石が残されている。すぐ近くの桧隈の里は第2皇子の桧隈皇子(第28代宣化天皇)の生誕地と伝えられる。
●花筐公園の一角にある皇子ケ池は勾大兄皇子と桧隈皇子がこの地で誕生した時に産湯に使った池と伝えられる。

 実はこれらの伝承は記紀や上宮記一云には全く記されていないのです。継体天皇のことを学ぶ過程でこれらの伝承に触れることになったのですが、これらを裏付ける史料がどこにも提示されていないので少し調べてみることにしました。伝承の個々の内容はともかくとして、これだけ多くの伝承がこの地区に残ることになったのはどうしてでしょうか。そして、それらの伝承がなぜ古事記や日本書紀に記されていないのでしょうか。特に「味真野(あじまの)」という狭い地域に伝承が密集しているのはいかにも不自然な感じがします。そう思って少し調べてみることにしました。その結果は次回に。

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