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天照大神と伊勢神宮 (18)       穂積裕昌氏が考古学から伊勢神宮の成立に迫る①

これまで主に歴史学、文献史学の専門家として武光誠氏、筑紫申真氏、直木孝次郎氏、溝口睦子氏、岡田精司氏、林一馬氏の論考を見てきましたが、それぞれの説に納得できる点と疑問に思う点があり、どの説も決め手に欠けるということがわかり、古代史を扱う歴史学の限界を見たような気がします。ただ、だからこそ私のような素人が妄想を抱く余地があるとも言えそうです。次は、そんな歴史学の論考に対して物的証拠を以って挑む考古学の穂積裕昌氏の『伊勢神宮の考古学』から、私の興味ある部分をピックアップして紹介します。ここでも引用を多用することになりますこと、ご容赦ください。
 
 まず、伊勢神宮をめぐる研究史を振り返る中で「伊勢大神」に言及します。伊勢大神を在地で祀られていた神(=在地神)とみる意見と、アマテラスないしはその前身的な神などヤマト王権が伊勢で祀っていた神とみる意見に大別されるとした上で、『日本書紀』は先行して渡来中国人が執筆したα群と、その後に倭人(日本人)が執筆したβ群があり、伊勢大神はα群にしか登場せず、天照大神はβ群にしか登場しないとする森博達氏の「日本書紀成立論」に基づく見解を紹介します。そして、これはアマテラスと伊勢大神が同一主体に対する表記の差であり、α群とβ群の編纂の間にアマテラスがより実態を伴って形成された可能性を指摘します。伊勢大神については、森博達氏の著書を読んだ上で私なりに考えてみようと思います。
 
次に伊勢神宮成立に関する以下のように8つの考古学的論点をあげて、それぞれについて考察が述べられます。
 
①伊勢の地の弥生・古墳期「不毛の地」説
 昭和の時代、伊勢に弥生から古墳時代の遺跡が見られない、つまり伊勢が未開の地であったことをもって、伊勢神宮成立を古くみる論者に対する批判が行われましたが、その後、外宮近傍の隠岡遺跡や桶子遺跡などの弥生遺跡が発見されたことによって、この批判が成り立たなくなったことを述べます。
 
②内宮神域から出土する滑石製模造品の問題
岡田精司氏が伊勢神宮成立を5世紀とする説の傍証とした一方で、神宮成立論の傍証とすることへの反論もある中、著者はこの祭祀遺物郡の考古学的情報が極めて重要であり、伊勢神宮成立の議論に大きな影響を及ぼすとします。
 
③内宮御神体(八咫鏡)を包む御船代の問題
 これも岡田精司氏が、その形態が古墳時代中期に盛行した長持型石棺にそっくりであることから、内宮成立を古墳時代中期と推定できるとした考古資料ですが、こういった物品は交替や移動の可能性を考慮する必要があるので、容器が古体を残すからといってそれが伊勢神宮の当初から備わっていたとは言えない、とします。
 
④神宮神宝の問題
古墳時代以来の倭装大刀に由来するとされる玉纏大刀の付属品とみられる三輪玉が高倉山古墳から出土しており、神宮との関係が深いとされる古墳出土品と神宮神宝とのつながりを示す遺物としての解釈を試みます。また、別の神宝である紡績具については、鳥羽市神島八代神社の所蔵品や沖ノ島出土品に同様のものがあり、祭神が女性神の場合に紡織具が神宝となった可能性を指摘する金子裕之氏の説を紹介します。さらに画文帯神獣鏡などの八代神社所蔵品が多気郡内の古墳副葬品と共通することから、神島を介して多気郡の勢力が神宝調達に関与した可能性を想定します。
 
⑤神宮正殿建物の問題
 近接棟持柱式掘立柱建物である伊勢神宮内宮の「神明造」が、池上曽根遺跡などの存在や弥生土器に線刻された建物絵画などをもって、その形式の淵源が弥生時代にあることを認め、さらには纒向遺跡からも近接棟持柱形式の大型建物が見つかったことから、現在の神宮正殿が7世紀以降にしか成立しないと言った議論は成り立たず、少なくとも古墳時代からの連続性が辿れるとします。
 
⑥高倉山古墳の問題
 外宮裏山にある高倉山古墳は列島屈指の規模の横穴式石室を内包し、外宮禰宜を務める度会氏が被葬者と考えられてきました。築造時期は6世紀末~7世紀初頭とされ、荒木田氏による内宮禰宜就任以前であり、神宮祭政全体が基本的に度会氏によって差配されていた時期に重なります。
岡田精司氏は外宮神域に古墳が築かれることは、度会氏が神宮をバックに発展したことを示しているとし、さらに外宮一帯が度会一族の祭場であったと考えられることなどから、外宮は内宮祭神の神託によって移されてきたものではなく、度会氏が祖先神の聖地として奉斎してきたのだと主張していました。
 
⑦ヤマトから伊勢に至る「ルート」
 高島弘志氏による大和の桜井周辺から伊勢に至る4つの古道ルートを紹介します。このうち、初期伊勢神宮を滝原宮とする筑紫申真氏が重視する最も南側のルートは古墳時代の有力遺跡が乏しいことから主要ルートとして相応しくないと指摘。一方で美濃方面に向かう最も北側のルートは通過する各地域を代表する前方後円墳が続き、古墳時代前期後半には確立していたとします。その両者の間にある2つのルートも古墳時代の重要遺跡が多く、海路を含めると東国へ抜ける主要道であったとします。
 直木孝次郎氏は、大和から東国へは北伊勢経由が主要ルートで、南伊勢経由は脇道であったとしますが、穂積氏はむしろ南伊勢経由が主要ルートであったと主張しています。
 
⑧東国へ向かう湊
 伊勢神宮成立とヤマト王権による東国経営を連動させる論者は、渡海拠点を伊勢市域や鳥羽に想定して伊勢に神宮が成立した要因のひとつとして重視しますが、現時点でこの地域に古墳時代段階の有力な港湾の存在を示す証拠は見出せないとして、ヤマト王権の東の外港として主要な位置を占めていたのは現在の松阪市の櫛田川河口にあった的潟であるとします。このことは政治性重視の理由付けが必ずしも十分な根拠を示すものではないことを提起していると指摘します。
 林一馬氏はそもそも伊勢の地が東国経営の拠点であったことと伊勢神宮の成立に何か密接な関係があったことを示す証拠は見出せないとしていました。
 
(つづく)

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