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11.皇祖神たる高皇産霊尊

ここまで私なりに設定した論点で伊勢神宮成立の経緯を見てきましたが、整理すると次のようになります。
 
●5世紀頃の南伊勢
・度会氏は漁労・航海を生業とする海人族で、伊勢・志摩の磯部を統括する有力豪族だった。
・ヤマト王権のもとで度会県造として南伊勢を統治し、御食つ国として海産物を献上していた。
・南伊勢は神島のゲーター祭りなど、古来、太陽信仰が盛んな土地であった。
・度会氏も太陽神(天日別命)を祖先神として現在の内宮荒祭宮付近で祀っていた。 
・この祭祀場は五十鈴川が伊勢平野に流れ出る扇頂部に位置し、二見浦とつながっていた。
 
●5世紀~6世紀のヤマト王権
・天皇家は大和盆地東端の三輪山麓で太陽神を祀っていた。
・海のない大和の天皇家にとって伊勢は太陽信仰の聖地と考えられた。
・東国への版図拡大に際して伊勢(的潟)からの三河航路を利用し、伊勢が身近な存在となった。
・御食つ国の首長であり三河航路を支える度会氏と天皇家の関係が深化していった。
・度会氏が祀る伊勢の太陽神を大和で祀ることにした。
・皇女の中から斎王を選んで、伊勢の太陽神を伊勢大神として祀らせた。
 
●6世紀後半~7世紀半ば
・太陽神祭祀の基盤整備のため大和の他田に日祀部を設置した。(577年)
・ヤマト王権は蘇我氏のもとで王権の強化に注力した。
・王権強化の一環で太陽神を皇祖神と位置づけて高皇産霊尊を祀ることとした。
・皇祖神高皇産霊尊を祀る場を伊勢に設けるために度会氏の祭祀場を奪った。
・このときヤマト王権は度会氏に度会神主の姓を与えて伊勢での皇祖神祭祀を委ねた。
・しかし度会氏は自らの祭祀場の移転を余儀なくされ、その場所を高倉山周辺とした。
・ヤマト王権は度会氏による高倉山山頂での巨大石室を持つ首長墓の築造を認めて技術支援をした。
・ヤマト王権は乙巳の変後に度会郡と多気郡を神郡に指定して神宮の経済的基盤を支えた(649年)
 
●7世紀後半
・皇大神宮(内宮)の建設を始めとした伊勢の祭祀体制が整備されていく。
・その過程で高倉山周辺の度会氏の神域は外宮として神宮に取り込まれた。
・「外宮先祭」はヤマト王権による度会氏を配慮するための施策であった。
 

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