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物語とプロットの関係


汝の名はプロット

 物語制作第二の月を振り返っていて、重要な行程と思われるのに、ないものが一つある。「プロット作成」だ。この「プロット」が、現代の、日本で、物語を作るときに立ちはだかる中ボスのような気がしている。海外の事情には明るくないので日本に括らせていただく。

 大人になってから真面目に創作に取り組むと、小中高で学んできたことは決して馬鹿にならないと感謝することが多々ある。

 国語のちょっとした文法は当然のこと、ストーリーを汲み上げる時に連立方程式の考え方がふと参考になったりする。理科も社会は言わずもがなである。あらゆる知識を総動員して物語を組み上げていく。

 しかしあるところで「何だこれは」と立ち止まる、物語制作独特の登場人物というのが、「プロット」である。学校で習った覚えがない。忘れているだけかもしれない。影は薄かったはずだ。

 おそらくは生涯のツレなんじゃないかというほどに、物語とプロットとはセットで扱われる。そのわりに読者として作品を楽しむ時に「プロットが〜」なんて感じることはないし、評論家でもないのに「プロットがどうの〜」とか言うと、鼻持ちならない人間に思われる。Wikipediaで作品のあらすじを調べるとしても「プロット」などと言う項目はまず見たことがない。作品として成立した途端、プロットはなりをひそめる。しかし作り手として名乗りを上げるや、突如として「プロット」とエンカウントする。まさしく「プロットがあらわれた!👾」状態である。


プロットは「作るもの」か

 小説の作り方をネット上で調べていると、割と初期の段階で「プロットを作ろう」と言われている。「プロット」は物語の断片をはめ込んでいく箱のような役割をしているように見受けられる。
 ロバート・マッキーの「ストーリー」を読んでいても、「プロット」と言う言葉が多用されている。しかし「作業として取り組む」という概念は希薄に思える。

 作るのは「ビート」とか「シーン」とか、「契機事件」や「ダイアローグ」や「キャラクター」などの、もっと細分化されたパーツで、それらをまとめるのも「プロット」ではない。

 物語を調和させるのは「統制概念(テーマ)」と呼ばれる、ストーリーの意図を余すところなく伝える一つの文だ。統制概念は重要なストーリーテリングの中核だが、それさえも初めから決めておく必要はない。書いているうちに作家自体が探求し、発見していくものなのだ。

 プロットはどちらかと言うと、組み上げたストーリーが何なのか、もしくは読者が受け入れられる筋立てになっているか、作者や製作陣が精査するときの道標のような位置付けに受け取れる。

 物語は制作のどこかの時点で担当編集なり助言者なり、企画チームなりと分かち合うタイミングが必要になる。外部の人間にストーリーをプレゼンテーションするときの共通言語としてプロットが存在しているのであり、自由意志に基づいて創作をしようという作者自身がフレームワークとしてのプロットに引っ張られる必要はないと思っている。

 一方で、シナリオライティングの世界には確かに作業工程としての「プロットづくり」は存在していることはわかっている。きっと何か違う世界線が存在しているんだと思う。

プロットとは何か

 プロットは作業工程ではないし手法でもない、というのが、現在のところの私とプロットとの関係性だ。キャラクターの履歴書が埋まらないとキャラクターを成立させられないわけではないのと同じように、プロットを組み立てないと物語ができないとは思わない。

 それでも「プロット」自体が重要なことには変わりない。

 マッキー氏の本によると、プロットは以下の言葉で登場する。

  • アークプロット

  • ミニプロット

  • アンチプロット

  • ノンプロット

 これらはそれぞれストーリーの型を指す。

アークプロット

 古典的設計とも呼ばれる。物語制作では王道的に使われるプロットの型であると言える。能動的な主人公、外的な敵対勢力、時間的に一貫して連続したストーリーによって物語が進んでいく。

 ふと、一般に言われる「プロットを作る」と言うのは「アークプロットに当てはめて物語を作り上げる」の言い換えなのではないかと思うこともある。それくらい全ての物語の基本となっている。

ミニプロット

 アークプロットのミニマリズムを目指した型となる。古典的設計の各要素を切り詰めていく手法だが、それでも読者(観客)が根源的に美しいと思えるストーリーの形をとどめている。

アンチプロット

 古典的要素に抗うストーリーの型である。派手で誇張された表現へと向かっていく。フェリーニの「8 1/2」「フェリーニの道化師」がそれにあたると言う。

ノンプロット

 上記の三つは最低限〜最大限に人生が動くが、ノンプロットではストーリーの中で描かれる人生は停滞したままの描写に終わる。

この他、

  • メインプロット:軸となる物語

  • サブプロット:メインプロットに並行して進んでいく、もう一つか複数の物語。サブプロットにも「幕」が存在するが、メインプロットの「幕」に合わせる必要はない。

物語は建築に例えられるが、建物ではない

 プロットは人間が物語制作の歴史を作り上げる中で高められた荘厳な理知の一つだというのは間違いないが、創作の本質ではない。

 アラフォーにもなってそれまでの社会生活を投げ打ってまで「物語が作りたい」と言っている私は、賢者だったとしても人間が作り出した理論の補強に駆り出された道具ではないはずだ。

 「物語が作りたい」ということは、「物語が好き」だということは、少なからず本を読んだり、漫画を読んだり、映画を見たりを何十年と続けてきただけでなく、それらと一緒に築き上げてきた自分の人生というものがある。

 物語を構成する要素……契機事件、ジレンマ、キャラクター、ダイアローグ、クライマックス……に分解したそれぞれに、自分にとってこれこそが真実だと思う人生の暗喩を散りばめていき、それが一つに合わさった時に、どうか物語が歌い出しますようにと、もはや祈り以外のなにものでもない感情で作り上げていく冒険を選んだ。

 物語は一度書いて終わりではなく、書き上げた後は延々と推敲作業が続いていく。その中で、自分の目指すプロットの「型」に照らし合わせて「もうちょっとここを盛り上げた方がいいかもしれない」「トーンダウンした方がいいかもしれない」とか「メインプロットとサブプロットをもっと差別化した方が読者が混乱しないかもしれない」と整理していく時の着眼点として、プロットの概念は活用されるものだと思う。

 物語は建て上げた後でも、足したり抜いたりできるもので、それでも崩れない背骨を作っているのは、「信念」とか「執着」とか「経験」とか、果ては「祈り」とか、そう言う領域に入っていくような気がする。

 もちろん闇雲に書いていてうまくいかない、書き続けられないよりは、フレームワークにでも何にでも頼ってみるべきだと思う。ただそのフレームワークは何で存在しているのか、理解している方がいいとは思う。


 何者でもないアラフォー女性が、35万文字の物語を完成させるためにやった全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。


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