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眠れない夜の癒し系恋愛小説「SHOOTING STAR」蒼井氷見 #短編

きっかけは、女友達の瑞希のひとことだった。「行ってみたいよねって話になって」

瑞希の言葉に、私は、海水浴帰りの渋滞中に見るともなく目に入る、お決まりのネオンを思い出す。

その建物は、ずいぶん昔からそこに建っていた。明らかに「いかがわしい」雰囲気を醸し出す外観。煤(すす)けた赤茶色の壁。閉め切った窓。電球の切れかかったネオン。建物の周辺に民家はなく雑草が生え放題の荒れ地で、国道から入口へと続くであろう砂利道が白く細く続いている。『SHOOTING STAR(流れ星)』という名前の、いかにもな雰囲気の古いラブホテル。

瑞希は、あんな所(失礼)へ行ってみたいと本気で言うのだ。

昨年、瑞希と2人で海水浴へ行った帰りにも、そのホテルは存在していた。
国道は渋滞中で、退屈しのぎに、そのホテルのことを話題にしたのを覚えている。

―あんなボロくてもやっていけるのはさー、この渋滞のおかげよね。

―ホントホント。まんまと『ちょっと疲れたから休もうよ』コースだよねー。私だったら死んでも入らない、あんなトコ。誘った男とは即、別れるっ。…って、あ、1台入った。

瑞希はさんざんけなしていたのだ。

「リニューアルオープン?」
私はますます首を傾げる。好みにうるさい瑞希が、ラブホテルのリニューアルオープンで騒ぐなんて。

「それが全然違うんだって」
ラブホっぽくないの、と瑞希は息巻く。瑞希の興奮度のほうがよっぽど尋常じゃない。そんな瑞希の様子もあって、ある夜、彼にその話をした。彼もまた、興味がないことを悟られないように私に気遣いながら、ふんふんと感じ良く頷いただけだった。

そんな話をしたことも忘れていた翌週、海水浴の帰りに、私たちはまさにその看板を見つけることになった。

海水浴に訪れるのはほぼ1年振りで、辺りの様子はすっかり変わっていた。荒れ地だった場所には背の高いビルが建ち、あのいかがわしいネオンは跡形もなく消えていた。しかし、ホテルがビルに建て替わったわけではなかった。ビルのすぐ脇に、あの砂利の小径はそのまま残っていて、国道からの左折口に、ごく目立たない文字で「SHOOTING STAR」と示された看板が建っていた。

―ラブホっぽくないのよ。

瑞希の言うように、というより、その説明から想定していた以上に、洗練された佇まいの看板があらわれたのだった。

「うわ、ここ?」
彼も驚きというより、むしろ感嘆の声をあげる。企業デザインに携わる瑞希と同僚の彼は、瑞希と同じく建築デザインには敏感だ。

「ちょっと…気になるねコレは」
渋滞で、進んでは止まるを繰り返す車の窓から覗き込むように、看板の先を見やる彼の横顔は興味津々だ。車が左ハンドルのため助手席からはよく見えないが、私も前屈みになって車窓を覗く。確かに気になる雰囲気だが、しかし瑞希が躊躇していた通り、小径を入ったらもとの煤けた建物だった、というオチも、充分在り得る。

「これは賭けだな…」
動かない車内で、彼はハンドルを放し腕組みをする。どうする?という顔で彼が私を見る。お化け屋敷の手前で思案する付き合い始めのカップルのように。

「…入ってみる?」 
彼の気持ちを代弁するように、私は言ってみた。瑞希への土産話になるかも、という好奇心がよぎったのも確かだった。

「よし」
行ってみようっ、と言葉尻だけは景気良く、割と慎重に彼はハンドルを切った。ギュギュ、という小石を踏みしめるタイヤ音とともに、車は土埃をあげながら砂利の小径を進み始めた。

思ったよりも、小径が長い。
森というか林というか、急に緑のなかを車は走らされ、やがて急に開けた場所に出た。ー広い。正面には背の低い四角い建物が佇んでいる。看板も何もないが、その存在自体が、ここが目的地であることを静かに伝えてくる。入口には、ぱたぱたと下品にはためくあのたぐいのカーテンのかわりに、長い帆布ゆるく風になびいていた。不思議なことにひと気がない。そして駐車場にはやはり、看板がない。幸い、スペースにはまだ空きがあった。気のせいか、高級車ばかりが目につく。ラブホテル見物のつもりでやってきた私たちは、完全に面食らっていた。彼が、金足りるかな、と、こそこそ財布を探りだす。不安なのは私も同じだった。いざとなったらカードで。私たちは、妙に気の合う共犯者のようになっていた。まるで神隠しにでも遭ったように、目の前の景色に怖気づきながらも、その入口をくぐる決心をした。

                          *  *  * 

(あれっ)
建物に入るなり、彼がなぜか囁くような小声で驚きの声を漏らす。なに?と私は彼の口元に耳を寄せる。(クロークに人がいる…) 

「いらっしゃいませ。『SHOOTING STAR』へようこそ」
もはや引き返すことは不可能だ。至極上質なシャツを纏った長身の男性が1人、カウンター越しに深々と頭を下げる。喉元のボタンをあえて外し艶っぽく着くずした男性の背後には、小さな扉が付いた銀色の無機質なロッカー(あるいは貸し金庫のようなもの)がずらりと並んでいた。カウンターの片隅に、REST AND SUPPER という表記を見つけ、私たちはようやく理解する。ここはホテルじゃなく、レストランなのだ。

「…お食事のほかに、ご宿泊もいただけます」
驚きすぎて男性の話に集中できない。落ち着きのない私たちの心情を知ってか知らずか、或いはこんなふうに迷い込む観光客たちには慣れっこなのか、男性は終始落ち着いた様子で説明を続ける。

HOSHINOという名札の文字がやっと読み取れる。高級ホテルのコンシェルジュのように落ち着いた佇まい。心臓をくすぐる魅惑的な声。実のところ、彼はおそろしく二枚目だった。私はすっかりうわの空で、彼の低音に聞き入ってしまう。

「…あいにく、本日はレストランのほうに団体様のご予約が入っておりまして。ただ、今でしたら、比較的広いお部屋が空いていますから、追加料金なしで、そちら個室のほうでお食事をしていただくこともできますが」
いかがいたしましょう、と星野氏は顔を上げた。彼と目が合うと、私は連れがいることも忘れてどきりとした。

「あの、」
私と違って注意深く(財布の中身が切実に影響するため)星野氏の説明に聞き入っていた彼が、口を開いた。「初めてなんですが、メニューを見せてもらえるでしょうか」
勿論ございます、と、星野氏が手元からさっと硬い表紙のメニュー表を取り出した。見たこともないような名前の創作メニューが写真付きで並ぶ。しかし一皿千円前後と、案外手ごろなのが救いだ。ワインリストは別にあり、品数が多く、ワインに特化した店であることがわかった。個室利用はチャージなし、という星野氏の言葉を信じ、私たちは足を踏み入れることにした。

クロークから奥へと続く廊下を抜けると、広い庭に出た。庭のまんなかに、大きなテントのような建物が見えた。中では大勢の人が賑やかに食事をしている最中だった。グラスや食器が重なり合う音、人々の喋り声などが天井に心地好く響く。まるで外国のような美しい光景に私と彼は思わず足を止めた。これがさっき星野氏が言っていた「レストランの団体様」なのだと思われた。こちらです、の声に我に返り、星野氏のあとをついて歩く。私は緊張している証拠に、いつの間にかめったに組まない彼の腕を取って歩いていた。

前を歩く星野氏が立ち止まり、1001、という数字が掲げられた扉を開いた。

「わぁっ…」
私と彼は同時に声を上げる。
目の前に、海が広がっていた。
海から離れて車で走ってきたはずなのに、こんなところからも海が見えるなんて。観光客の私たちが知り得ない海の美しさを見せつけられたようで、その景色に圧倒された。

部屋についても申し分なかった。まず、すべてが白い。外につながる開口部は、私たちがやってくることをまるで知っていたかのように、すべて心地好く開け放たれていた。そして窓の向こうには、プール。プールは、水面と海とが視覚効果で繋がって見える、インフィニティ構造になっていた。設えもすばらしく、あちこち見回しては、へえー、とか、うわー、とか嘆息ばかりが口をついて出る。

「メニューをどうぞ」
落ち着かない私たちの眼前に、星野氏がさっきのハードカバーの冊子を差し出して見せた。

「ご注文はテーブル上のお電話にて承ります。お食事のほかにも、必要なものがあればなんでもご用命ください。こちらは個室になっておりますが、時間制限、追加料金等、一切ございませんので。プールや浴室など、自由にお使いください。バスローブ、タオル類は、そちらのクロゼットにございます」

星野氏の口調には淀みがない。喋り終わって手を前に組んだとき、袖口からロレックスのシルバーが覗いた。
案内のお礼を告げると、星野氏は「ごゆっくり午後をお過ごしくださいませ」と一礼して出て行った。広い部屋に、不思議な余韻が残る。少しして、私はその余韻の原因に気づく。

星野氏は、海のような匂いがする。

*  *  * 

部屋に2人きりになったとたん、私たちはソファに崩れ落ちた。緊張しきっていた自分たちが可笑しく、しばらく笑いが止まらなかった。

柔らかなソファに沈みながら、砂混じりの身体を熱いシャワーで流したいと彼が言い、私はプールに入ることにした。なにしろ時間制限がないのだ。私は濡れた水着に着替え(クロゼットのなかには、水着も用意されていたが、自分のを着ることにした)、水際まで歩んでいった。

涼やかな風が全身を吹き抜ける。正午ごろ海水浴場を出たので、まだ陽は高く時間は十分にある。顔はともかく足だけはきれい、と周囲に言われる自分の足先を、少しだけ水に沈めてみる。プライベートプールなんて生まれて初めてだ。水深は1メートルほどで、身体を伸ばしてバタ足で数メートル進めるほどには広い。両腕をプールの縁に載せて浮いていると、濡れた髪が、肩先で水面に泳ぐ。真水に髪を晒(さら)すのは気持ちがいい。さっきまで、あの灼けるような砂の上にいて、充分すぎるほど水と陽を浴びたはずなのに、その疲れを忘れるほどの心地好さだった。まるで、今日の目的地は此処だったような気さえする。瞼についた雫を、指で払っていると、シャワーを浴びたばかりの彼がやってきた。

「何か頼まなくちゃだなんよね」
上半身裸のまま彼が言う。私はたちまちリゾートから現実へと引き戻される。そうだよね、と私。

「まだあんま腹も減ってないんだけど」
つぶやきながら、彼がメニューを開く。私は彼にバスローブを取ってもらい、プールから出た。私たちはなぜかプールサイドに立ちつくしたまま、メニューを見ながらしばらく悩む。身長168センチの私と、彼の目線はさほど変わらない。彼には運転があるし、アルコールは頼めない(シチュエーション的にいちばん飲みたい気分だったのだけれど)。結局、ノンアルコールのグラスビールを2杯オーダーした。

デッキチェアに座り、ビールを飲みながらしばらく彼と話しているうちに、私は眠り込んでしまったらしい。

瞼の裏が微かに暗くなるのを感じて、ふと目を醒ますと、星野氏が、サンシェードを下ろしているところだった。
グラスを下げにきたらしいことは察しがついたが、水着にバスローブという格好が気恥ずかしく、私は眠ったふりをしてしまった。

「ここ、ずいぶん長いですよね」
部屋のなかで、彼が話しかける声がする。

「ええ」相変わらずの声色で星野氏は答える。「先代からやっていますから…もう25年近くになりますね」

それから星野氏は、この辺り一帯の土地がその先代のものだったこと、最近、形見分けの際に孫の1人がここに建っていたホテルを継いだことなどを話した。

「余談になりますが先代の父親というのは、地主であるうえ、かなりの美男だったという話です。女は星の数ほど、遊ぶ相手には困らない、というのが口癖で。そんな遊び人の彼に『あなたは本当の愛を知らない』と突き放した女性がいまして。本当かどうかわかりませんが彼に靡かない女性が初めてだったらしく、それが珍しかったのか、好きになってしまったそうなんですね。あのホテルの名前は、終生惚れこんだその女性にちなんでつけたものです。掴まえようとしても手に入れることの出来ない美しいもの、或いは、一番大切なものの象徴として。
ホテルを継いだ孫というのは、男ばかり三人兄弟の三男坊で。定職にも就かずふらふらと世界をまわり自由気ままに生きてきたならず者です。ただ1つだけ、幼少の頃から、亡くなった祖父にそっくりだと言われて育ちましたので、これも何かの縁なのかもしれません」

「三男坊って…星野さんのことでしょう?」

目を閉じてチェアに横たわったまま、私が思ったことと同じことを、彼が訊ねた。

「まあ…そんなところです」

「先代さん…は、結局、その女性を掴まえることができたんでしょうか」
彼が訊ねた。

「さあ、」
星野氏は笑った。「祖母は今、葉山にいます。祖父が亡くなる前、かなり晩年になってから離縁して。…きっと、面倒な遺産相続に巻き込まれるのが嫌だったんでしょう」

「…じゃあ一度は、『掴まえた』わけですね」

「そうとも言えますね」
彼と星野氏は、穏やかに笑い合った。

少し間をおいて、今度は星野氏が訊ねた。
「お客様の『流れ星』は、彼女でしょう?」

ええ、と彼が答える。
「一応、妻なので…」

「そうですか」
星野氏は、安心したように頷いた。

「でも、先代さんのようなロマンチックな話ではないです」
照れ隠しなのか彼はめずらしく饒舌になって続ける。「同僚の女性の紹介で知り合って。彼女たちが高校の同級生だったんです。自分は学生の頃から就職時に至るまで、デザイン畑にどっぷりはまってますが、彼女はずっと理系で、技術者なんです。そんなふうにまったく畑違いなのになぜか気が合って」

一緒に居ると落ち着くんですよね、と彼が言った。

「では、逃がさないように、壊さないように」
少し茶化すように星野氏は言葉を並べた。「星同士というのは常に一定の距離を保っているもので、それはお互いのために必要な距離だから。熱過ぎる星もあれば、凍ってしまうような温度の星もある。お互いの距離の計り方を誤ると、それはお互いの破滅を意味します…」

「なんかちょっと意味ありげな言い方ですね」
彼が(めずらしく)鋭いことを言う。

「ええまあ」
星野氏は笑って言葉を濁す。ただし、無理に隠すような感じではなかった。「恋人にしても友人にしても、ほどよい距離感が一番ですから」

*  *  * 

「何か、食べてみたかったね」
帰りの車のなかで、私は彼に言った。

「家からもうちょっと近ければなあ」
休息をとったせいか、彼の日に灼けた横顔はすっきりとしている。

「それに泊まっても良かったなー」

「俺もそう思ったけど、」
彼は前を向いたまま答える。「明日、坂口たちとバーベキューだろ」

「うん…」
坂口、というのは他ならぬ瑞希のことだ。お洒落にうるさい、私たちのキューピット。

「さすがに断れないよなあ」
少し困ったような顔をしながらも、口ぶりは楽しそうでさえある。

すっかり夜道になった国道を車は走る。私たちが休んでいるあいだに渋滞はすっかり解消され、ヘッドライトを照らし行き交う車はまばらだ。

「明日、瑞希にあのホテル行ったって自慢してやろうね」

「ホテル…じゃなくてレストランだったけどな」
彼が隣で苦笑する。

―お客様の『流れ星』は、彼女でしょう?
―ええ。

淀みなく答えた彼のあの声を、ずっと覚えていようと思う。

彼も、瑞希も、明日のバーベキューにやってくるはずの友人たちも、私にとっては大切な流れ星だ。(了)

(蒼井氷見「SHOOTING STAR」2006年)

あとがき
公開した2006年当時、星野リゾートはまだできていなくて、イケメン・コンシェルジュの名前を星野氏にしたのはまったくの偶然でした。
今だったらググればすぐわかることも、スマホがないと口コミや雑誌の情報が頼り。いま読み返すと、新しいお店を開拓するのって、ちょっとした冒険みたいですね。(蒼井氷見)

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