眠れない夜の癒し系恋愛小説「メイベリンの夏」蒼井氷見 #超短編
あの人のことを忘れることができるのなら、どこへでも行こうと思う。
辿り着いた坂道。焼け付くアスファルトの緩い曲線。降り始めた雨。
車窓を開ける。
運転席側も助手席側も、後部座席も、右も左も、すべて。
車は、雨の小淵沢を走る。もう濡れてしまったって構わない。
メイベリンのダイヤルマスカラはとっくに剥がれてしまった。
-わかっている。
走れば走るほど、あの人の棲む、街からの距離が遠のけば遠のくほど、
気持はあの人に向かってしまうことを。忘れようとすればするほど、
好い事ばかり思い出してしまうことも。
追い越し禁止の黄色いセンターライン。
わざと追い越して見せ、私を戸惑わせた悪戯な横顔。
今走っている道でさえ、彼の助手席で記憶したルートを外れることはない。
踏切を渡る。目的地は一体どこなのだろう。
いつの間にか、彼のことをまだこんなにも好きだと思いながら、私はハンドルを握り続ける。
忘れる必要があるのだろうかとさえ思い始めながら。
手元のボタンを押し、車窓を締め切る。
クーラーの匂いがノースリーブの腕を撫でる。
薄灰色のアスファルトを濡らす大粒の雨が埃っぽい匂いを放つ。
フロントガラスには緑が映り、ワイパーが水滴を鋭く弾く。
車は頂上に着く。私は街を目指そうと思い立つ。
Uターンは切らない。
雨は止まず、私は彼を、好きでいることを止めない。(了)
(蒼井氷見「メイベリンの夏」2006年)
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