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私が「子どもヴィジョナリーキャンプ」をやる理由②-日本の教育を変えたい原体験-

こんばんは!みまひとみです。
ご訪問ありがとうございます。

この記事は、連載物です。 
①↓ から読んでいただけると良いかと思います。

私が「子どもヴィジョナリーキャンプ」をやる理由①-日本の教育を変えたい原体験-では、小学校の時の恩師、福島先生のことを書いた。

福島先生に、みまの礎を築いてもらったと言っても過言ではないほど、「学ぶことの楽しさ」「誰かと一緒に学んでいく面白さ」を教えてもらっていたのに、中学に入ってから、あまりのギャップに「得体の知れない違和感」を言語化できないまま高校を卒業することになった。

どこかで「学ぶことがただの成績順のため」「学ぶことが、ただただより良い進学のため」というものになっていき、純粋な「学ぶことへの情熱」を削がれていく自分と、そういう自分にさせた中高の先生たちに、常に不満があった。

「勉強そのものは嫌いじゃないのに、これは何かがおかしい」
「こういうことじゃないのに」
「杓子定規でつまらない」

小学校の時の、授業スタイルの面白さ、その授業スタイルから来るクラスの一体感など、あらゆるものがなくなっていき、そんなものは、ないことが当たり前になっていて、「発言する」とか「意見がある」とか、そんなこと自体を諦める方が楽なムードに、長い物には巻かれろ、的な日本社会の一つの縮図に、私の中の大事な何かが壊れていくような気がしていた。

いくつかの事件があった。

記憶はうろ覚えだが、中学のある時、女性の先生が女子学生限定向けで、こんな質問をした。
「将来、結婚して自分が家庭を持ったときに、仕事したいと思う人?!」
と手を上げさせたのだ。

その時、90%の女子が手を挙げなかった。私ともう一人か二人だけ、手を上げた。

勉強した先に、勉強したことを活かして実力をつけて、自分の力で稼いで自立して生きていく、という考えが当時から当たり前だった私には、衝撃だった。

そもそも、そんな愚問を先生が投げかけることにも、その時の同級生の女性たちにも、とてつもない怒りを感じたことを覚えている。どういうつもりで質問したのか知らないが、その時の私の記憶では、「どうせ結婚したら仕事しないのだから、あなたたち女性は、一生懸命勉強したって意味がないのよ」というニュアンスを感じたからだ。そして、それを中学生の女の子たち90%ほどが、感じ取っていて、「まぁ、そこそこ勉強すればいいかな」というスタンスに染まっていたからだ。

(補足:今は流石にそうではないとは思うが、1997年の青森では、そういう古臭い空気感がまだあった。)

そういうことじゃないだろ。勉強って、究極、仕事のためとかでもない。その人の一生を、人生を、豊かにするためにあるものだろう。結婚が全てでもなければ、仕事が全てでもない。
勉強による成功体験があれば、仕事であろうが趣味であろうが、チャレンジする土台にもなるし、人生の選択肢を増やすことになる。

どうして、そういう「勉強は何のためにあるのか」というディスカッションの場所にしないのか。せっかくなら、それを題材にして、話し合えばいいじゃないか。この無責任な投げかけを、先生がなぜするのか、と怒りが隠せなかった。

一度、私の心の中の怒りを表現してやろうと、新聞部というものに入って、どデカい新聞に先生への文句を記事にしてみようとした。過去の新聞部の作品にそういうものがあったから、「なるほど。反発心をこういう形で表現したらいいのか」と、書いてみたことがある。

それが後日、大事件になった。その時の担任が、クラス全体の前で「この新聞部のタイトルは何ということか!!」と、公開処刑ばりに、私が中心となって作っていた作成途中の渾身の作品たる新聞をビリビリと破いた。

あの時の瞬間を今もなお体が覚えている。全てを諦めた瞬間だった。
日本の学校教育というものへの希望が、私の中で、プチッと何かが音を立てて消えてなくった。

「大人は、信用ならない」
「真っ向に行っても話が通じないし、何とか反発心を表現しようとも、表現の自由は、ここ(学校)にはない」
「本質的なものを提供して欲しいと願っているだけなのに、絶対に私の方が正しいのに、ここの人たちは学ぶことに対する自由を削ぎ、学ぶことに対する情熱を奪い、ただ私たち子供に勉強を押し付けたいだけだ。」

そんな風に私は解釈した。
思えば、あの時から、私は学校というものが嫌いになったのだ。

「もっと本質的なことをやる場であって欲しいのに」

今思えば、ずっと心の中で、そう伝えたかったのだ。教科書を読むとか、そういうのって、家でも出来る。一人では出来ないことは、そういう知識を得た後のアウトプットをしあうことだ。

私は、知識をただ暗記しているとか、どれだけ記憶力がいいとかの勝負になる勉強が嫌いだった。

そんなことよりも、知識を自分ごとに置き換えたり、人生に活かしたりしたかった。

小学校の時に読んだ、夏目漱石の「こころ」からは、罪悪感を持ち続けて生きることの苦しさを体感したし、そういう生き方はしたくない、しないためにはどうしたらいいんだろう、自分にも誰かにも、正直に生きていきたい、と考えさせられたものだった。

本来、勉強って、そういうものじゃないのか。
知識をただただ覚えて、どのくらい覚えたかをテストして、その順位が決まる、っていうことじゃないんじゃないのか。もっと、「濃く生きる」ために必要なものが、勉強じゃないのか。得た知識から「何を感じ」「何を教訓とするのか」そこまでを自分に落とし込むことこそが、勉強なんじゃないのか。

その「勉強」が「面白い」。「学ぶって楽しいことなんだ」っていうことを教えるのが、学校じゃないのか。

得た知識から、どう生きるのか。どう生きる糧にしていくのか。直接に生きるか死ぬかに関わらぬとも、「教養」として生きた学びにするのは、そこから自分の意見を明確にしたり、他の人はどう感じたのかを聞いたり、逆に、自分が興味のないことであっても、誰かが興味があって面白く話してくれたら、互いに学び合えたりするんじゃないのか。

私は、ずっとずっと、こういう想いを抱いては、それが叶わぬ場所たる学校という存在、学校の先生という存在に対しての反発心を持っていた。

私が問いたいのは、「学びの本質」だ。
学ぶって楽しいよ!!世の中のことがわかるし、自分のことがわかるし、人のことがわかる。それこそが学ぶということなのに、小学校を卒業してからは、少なくとも中学・高校では、この本質的な学びの楽しさを、そこに対する情熱を削がれてしまったと感じるのだ。

どうなのだろうか。私は子どもがいないので、現在の義務教育の現場を知らない。でも、公立学校の現場で、私が問いたい「学びの本質」は、一体、どれだけ展開されているのだろうか。

次回は、不満だらけの中高からNY留学体験での頭をかち割られる体験を書いてみたい。

子どもヴィジョナリーキャンプin糸島
2023年7月26日(水)~7月28日(金)実施!


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