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私が「子どもヴィジョナリーキャンプ」をやる理由①-日本の教育を変えたい原体験-

こんにちは!
みまひとみです。

自分の肩書きはよくわかりませんが、
映画プロデューサーしたり、ヴィジョンを言語化するセッションを提供したりしています。今はPRプロデュースもサービスインできるように準備中です。

そんな私が、なぜ、「子どもヴィジョナリーキャンプ」として、子ども向けの教育系コンテンツをやろうと思ったのか、について、可能な限り連載にしてお届けしていきたいと思います。

というのも、私が語ってきたことの多くは、障害者の「きょうだい」としてにフォーカスが当たってきていて、私の「日本の教育に対する思い」はあまり語ってこなかったのでは?と思ったからです。

ですが、私は、実は、この分野には並々ならぬ熱がありまして!!どうにかこうにか、日本の教育を変えていきたい!と常々思っていて、それは映画を作ろうと思い立ったのよりも遥か昔から、ずっと考え続けてきたのです。

ですが、教育分野のコンテンツ、しかも子ども向け、というのが、どうにもこうにも、形にするのが難しく、しかも私自身には子どもがいない、というところでも大きく気持ち的に後退していました。それでも、何度かその分野に着手するも、ビジネスモデルを構築できず、自分の勉強不足と力不足を嘆いて、挫折してきたのです。

こうして満を辞して、子ども向け教育分野に参入しようということで、個人的にはめちゃくちゃドキドキしていますが、やはりここは、私自身の「情熱」を語らねば、私自身が収まらぬわー!!ということで、「温度高め」な連載をしていきます!

みまの教育の原体験①

いくつか私には記憶に残る原体験があるのですが、一番最初に触れておくべき、大きな体験は、小学校4年生から6年生の3年間の担任の先生である、福島先生の存在です。本当に今になって、彼女には感謝しても仕切れないくらいの恩義を感じています。

福島先生のユニークな授業こそが私にとってのスタンダードになった

福島先生は、3年間、クラスの座席の配置を「コの字」型にすることにこだわりました。

コの字型の座席イメージ

こんな感じですね。この座席の何がいいって、どこに座っていたとしても、互いにクラスのメンバーの顔が見える、ということです。

もちろん、前列と後ろ列で重なっていると見えないところもありますが、授業中に、他の子がどんな顔で授業を受けているのか、全員のは難しくても、なんとなく半数くらいの子の顔が見えます。

それが一つの安心材料。真剣に聞いている、とか、表情が変わったとか、前のめりになった、とか、子どもも、クラスのメンバーの雰囲気を感じとります。

「授業への参画意識」

まず、これが格段に変わるんですね。これが先生が3年間ずっと貫き続けたスタイルのその1。

全員が意見を持って手を挙げることを徹底した

福島先生の授業が素晴らしくすごかったのは、これなのです。その授業が国語であっても道徳であっても算数であっても理科でも社会であっても、基本的にはこれ。

何か先生が問いを出した時、手を挙げる子が少ないと
「やり直し!!」がかかります。
で、意見を持つということがどれだけ大事かを語ります。

「とにかく大事なのは、意見を持つことなんだ。意見を持たないならその場にいないとの一緒だ。そして、他の子の意見をよく聞きなさい。意見そのものがあなたではないし、その人でもない。意見を発表して、違う意見の人を否定する必要はない。”ああそういう意見もあるんだ”と自分とは違う意見があることを発見したらいい。そして、自分には発想もしてなかった他の子の意見を聞いて、”そっちの意見のがいいかも”と思ったら、そっちに変えたっていい。変わったっていい。」

これを9歳くらいの子供達に、徹底的に教えて、それができるようになるまで、それが当たり前になるまで、根気強く教えていき、やがて、引っ込み思案なタイプの子まで、積極的に発言するようになっていったのです。

意見=その人、意見が違う人を叩いてしまう文化がある日本。自分の意見が否定されると、自分の人格まで否定されたと思ってしまう傾向のある日本において、とてつもなくすごい神な授業じゃないですか!?

今考えると、本当に、恵まれた、めちゃくちゃ神な先生だったなって思うのです。とても、アメリカ式というか欧米式というか。

「ディスカッションする」ということの本質とかをめちゃくちゃ叩き込まれた3年間だったんです。

私的スタンダードから外れた中学での違和感

もう大体わかるかと思うのですが、普通の公立の小学校の最後の3年間が、福島先生によりとても濃密だったのに、その後に通った公立の中学校(私は中学受験など存在しない地方出身者)で、私は強烈な違和感を感じるのです。

中学校では、席の配置は、一般的な独立型の席。

他の生徒の顔は、ほぼ見えない。一方的な解説をされて、淡々と進む授業。授業中に、手を挙げる人はほとんどおらず、
「手を挙げるやつなんて、空気の読めない、変に気合い入ったヤバいやつ」という空気感。

これまでの福島先生の授業とは何もかもが真逆でした。

私が窮屈さを感じないわけがないですよねw 

何かを学ぶと、自分の意見が出てくる。疑問や質問も出てくる。ここで私はこう思うけど、あなたはどう思うの?と人の考えを聞きたい気持ちになる。
自分の考えを伝えたい思いもある。

それが福島先生に培ってもらった、「学ぶ姿勢」だった。

それが、突如、全て禁止されてしまった。

学ぶということは、本来、面白いもののはずなのだ。
学ぶということは、知識欲がある人間にとっては、「へぇ!そうなの!え!しらなった!」ということの面白さと、「私はこんなことを思ったんだけど、あなたはどう思うの?」という考えのシェアも、とても面白いもののはず。少なくとも、私は、学ぶことそのものに情熱があった方だった。

中学に入って初めて触れた「地理」はとても面白かった。小学生時代は、洋画マニアなくらいに、英語圏の映画を観ていたから、世界に興味があった。いつか旅行に行きたい国はたくさんあったし、「ああ!なんか聞いたことあるわー」という世界の地名や地形の話が出てくるのが面白かった。

だけど、その面白さを語れる場所がないことがとてもつまらなかった。「楽しい」と言えない。

「勉強なんてよー」的な斜に構えている方が美徳的な雰囲気を気にしすぎていたといえばそれまでだが、なんだか学習体験は不自由だった。

福島先生の授業が楽しすぎて、そこに後ろ髪を引かれてしまう。
同じ授業を受けて、すぐに、誰がどんな意見を持ったのかがわかる、誰かの意見を聞いて、自分の気持ちや考えもまとまっていく、自分の発言が誰かの考えを作っていく、、、そういう授業が当たり前だったからこそ、失ったものが大きすぎた。

中学校で習う勉強だと、そこまで難しく感じていなかった私は、勉強そのものは得意だったから、成績は割と上位に居続けたけれども、純粋な「学ぶことの楽しさ」とか「学ぶことへの情熱」は削がれていったように思う。

つまりは、言いたいことは、今の日本の一般的な教育スタイルでは、子どもたちは、「学ぶことの真の楽しさ」「学ぶことへの情熱」が育たないばかりか、「自分にとっての情熱のタネ」を見つけることが困難なのではないかな?という疑問が自身の体験からあるのだ。

もちろん、例外もあると思う。勉強好きな子はいるのだと思う。どちらかと言えば、私だってずっと勉強は嫌いじゃなかった。でも、私の原体験たる福島先生のような、「意見をもつ」ことを徹底されたことで、「自分が何が好きで何を考えている人間なのか」ということの体験こそが、本当の意味での「人間教育」なのではないか、と思うのです。

ということで、長くなったので、第一弾はこの辺で!!

子どもヴィジョナリーキャンプin糸島
2023年7月26日(水)~7月28日(金)実施!


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