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「経験なく伝えていいのか」震災25年、悩む若手教職員 知らない世代が多数に/兵庫・丹波篠山市、丹波市/1月16日丹波新聞

 阪神・淡路大震災の発生から25年。丹波新聞の記事によると、県内の公立、私立の小中学校には約2万9000人の教職員がおり、震災発生時の1995年以降に大学を卒業した教職員の割合は、全教職員に対して半数以上になっているという。
 つまり、「幼くて記憶にない」「まだ生まれていない」という教職員が多数派になっており、「自分が知らないことを伝えられているのか」「リアルさに欠ける授業をしているのでは」といった声が上がっている。

 同じように思うものに「戦争」がある。例えば私が戦争映画を作ろうと脚本を書こうとする。でも戦争を知らない私としては、「経験した人にはかなわない」と思ってしまう。
 脚本家の笠原和夫、映画監督の岡本喜八など、実際に戦争を体現した人の作品には説得力がある。体験に勝るものはないのだと完敗してしまうのだが、次に伝える義務も私には存在する。

 そうなったときいつも思うのが、「興味」を持ち「知識」を携えたうえでの「想像力」や「共感力」が武器となるのではないかということ。まず「知識」は、「興味」があれば今の時代、すぐに手に入る武器。難しいのは「想像力」と「共感力」でしょうか。
 記事の中に「被災を経験していないけど、『普段から友だちと仲良くする』『助けてほしいと自分で言える』『困っている人に手を差し伸べる』といったことを子供たちに伝えていけたらと思います」とある。

 それでいいのではないでしょうか。震災は経験していなくても、自分の身の回りに置き換えて考えればいいのではないか。そして、勿論起こってほしくはないのだが、決して起きないとは言えない地震だからこそ、次につなげる、次に備えるために、普段から日常でできることをすればいいと思う。

 「もし今、普通にできていることができなくなってしまったら?」そんな風に想像してみるだけでもじゅうぶんなのではないだろうか。

 戦争や震災に関して、年がら年中想像するのは厳しいと思う。だが年に一回、その日くらいは思い出してみてほしい。そして「興味」を持ってほしいのだ。そうすればまたひとつ「知識」が増え、伝えることができる。そしてそれもまた、次につなげることになると思うからだ。

 記事の最後に、「南海トラフ巨大地震が起こると言われている中で、たとえ阪神・淡路を知らない世代であっても、伝えていかないといけない。『知らないのに伝えていいのか』と考えてしまう教職員が多くいるのは事実で、『自分たちも伝えていい』と、意識を変えていくきっかけになればと、県教委では、防災教育フォーラムを開くとある。

 私は伝えていいと思う。というのも「知らないのに伝えていいのか」という気持ちを持っているということは、知らないからこそ、知ろうとするだろうから、すでに「伝える」という資格を手に入れていると思うからだ。

 ちなみに私は25年前、震災を経験した。といっても自分が住んでいた地域は、大きな被害もなかった。だから、テレビをつけたときの街の様子に衝撃を受けた。窓の外を見て、普段となにも変わらない街の様子と、テレビの中に映る火の手が上がる街並みとのギャップに、さらに衝撃を受けたのを今でも鮮明に覚えている。
 だから私は「震災を経験していない」というのが、正確なところだと思う。

 だけど、こうやって思ったことを文字にすることも「伝えること」になると思い、知識と想像力を磨いている。

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