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「夏井いつき 俳句の種をまく」(12月30日、NHK)を見て

俳人の夏井いつきさんは、俳句に対してこんなことを言っている。

「悲しみの底なし沼の中に,、自分を置かないための杖である」

「杖」とは、歩行の助けとするために用いられるもの。では、俳句における杖とはどういったものなのだろうか。番組で紹介された句を見て考えてみたい。

露草やかなしみにくじけるこころ  夏井いつき

季語=露草(三秋)
道端や庭先、どこにでも見かける普通の花。今日もいつものように咲いている。だけれども今日の私は、昨日の私とは違う。悲しみに押しつぶされそうになった私の心。そんな私の悲しみの涙を受けてもまた明日、いつものように露草は咲いている。

・切れ字「や」を使う場合、五七五の定型を崩さない方がよいとされるが、あえて崩すことによってその心の状態を表している。

子規の日をすぎて芒の日々ありぬ  夏井いつき

季語=芒(三秋)
松山が輩出した俳人、正岡子規。子規はこの世を去ってしまったが、秋になれば芒のある光景が広がっている。きっとこの光景は、子規がいたころから変わらない。そんな芒のように軽やかに、私は松山で変わらず俳句とともに生きていく。

・子規の日とすることで、子規がいた時代、松山であろうことなどが分かる。さらに「すぎて」以降からは、変わらない町、変わらない決意が読み取れる。いつきさんの言うところの「言葉の経済効率がいい」である。

つながれぬ手は垂れ末黒野の太陽  夏井いつき

季語=末黒野(初春)
私のこの手はまるで独立した生き物のように垂れさがり、重力に抗う術を持たないほど悲しんでいる。黒々とした野原にたたずむ私の正面から太陽の光。眩しすぎて何も見えない。時間が経ち、太陽はいつの間にか私の背後にあった。私の影が大きく伸びる。手を大きく振って歩いていける気がした。

・悲しみ、孤独といった雰囲気。黒々とした光景がそうさせるのだが、そもそも焼野とは、春の芽吹きを促すためのもの。きっと太陽の力を借りて春に向かっていく景へと変わる。

蛍草コップに飾る それが愛  夏井いつき

季語=蛍草(晩夏)
私の住む家の隣が空き地となって久しい。いつの間にか居ついてしまった野良猫の糞に怒る日々。その空き地に咲く蛍草は、いつもここに咲いていたのだろうか。花器ではなくコップという日常に、ちょっとだけ花を添える。大切な人とのそんな日が愛おしく思える。

・目が行くのが「飾る」と「それが」の間の空白。夫とのなんでもない日常がもし・・・となる不安。言葉にできない、したくない思いがこもっている。「それが愛」と続くので、そのなんでもない日々の愛おしさも空白に込められている。

正夢にしたき梅見や下肢装具  ペトロア

季語=梅見(初春)
眠りから覚めウトウトしていたとき、どこからか梅の香りがしてきた。はっきり目が覚めた。果たしてあれは夢だったのか現実か。きっと夢だったのだろう。この夢をこのまま私だけの秘密にしていれば、いつか必ず正夢になるはず。だからあれは夢なのだ。

・「したき」の「き」過去完了の意であるので、おそらく夢を見たのだろうと思う。そして「や」から、その強い思いが感じられる句。

稲光思春期黒く渦巻きぬ  立志

季語=稲光(三秋)
あの頃のことを思い出すと胸の奥の方でなにか分からないものがうごめく。真っ暗な部屋の中、稲光が。突然の光に驚くが、「そうかもう夏も終わるのだ」そんな風に思うと、この部屋の温度が少し下がったように思う。

・一般的な思春期のイメージではないのだが、季語「稲光」とすることで、その印象が変わる。稲光は、稲を実らせるものと信じられていることから、その将来の見え方が違ってくる。これが「雷」だと、また違ってくる。

歩けぬを知らぬ母なり鰯雲  方城奈都美

季語=鰯雲(三秋)
私には、この子の気持ちが分からない。歩けないとはどういうことなのか。あの空の鰯雲ならその気持ち分かるだろうか。分かるのなら教えてほしい。そんなことを考えながら、いい匂いに乾いた小さな洗濯物を取り込む。

・「歩けぬ」のは誰なのか。知らないのだから、母ではもちろんない。そして歩けないというその思いを、知ることができないのだろう。よって、対象が幼い子であることが分かる。季語「鰯雲」には、母の思いを吸い込んでくれるなにかがあるようだ。

空蝉や嘘つきの毒は届かない  ぽんぽこぴーな

季語=空蝉(晩夏)
だれかが嘘を吹聴してまわっている。それは嘘だと叫びたいと思うこともあるが、私は知っている。しょせん嘘は嘘。いつかは本当のことが分かるのだ。

・最後、言い切っているところから、作者の気持ちが読み取れる。作者の思いとは違った読みになるのかもしれないが、これもまたひとつの側面ではないかと思う。

自宅療養このお粥なり秋の山  福岡の放浪鴎

季語=秋の山(三秋)
入院中、出されたお粥とは格段に違うお粥。もしかしたら、病院の方が栄養を考えられたお粥だったかもしれない。でも私にはこのお粥は他に変えられないもの。このお粥が明日への力を与えてくれるようだ。

・「この」と強調することで、作者にとって特別なお粥であることが分かる。秋の実りを育む季語「秋の山」は、他の季節にはない深い色合いを見せる。

立志さんは、
「嫌な体験がまさか自分で気に入る句になるなんてと驚いている」
「俳句にするとそれまでの経験が無駄ではなかったと思える」

いつきさんは、
「俳句を受け取った受け手が、やさしいボールを投げ返してくれる。人と繋がったと思える瞬間が、また次のエネルギーになっていく」

これらの言葉や俳句の数々が、「杖」の正体ではないだろうか。

俳句における杖とは、心の助けとなるためのものであり、俳句とは自由に作っていいのだから、杖によっかかりなさいよと、いつきさんは言っているのではないだろうか。

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