【交換日記】あっちゃんへ 父のネイル【1ページ目】
父親の爪にマニキュアを塗った瞬間、赦された気がしました。
私は何も禁じられていなかったのに、大人になって父の指に触れた時、たしかに開放感に包まれていました。いかにも職人の手をしている父の爪を、落ち着いた赤色で慎重に塗っていきます。
あっちゃんと初めて食事に行った時(まだ一度行ったきりですが)、話したいなと思ったのは、そのことです。でも、あの時どうしてそんな気持ちになったのか、あまりにもわからなくて話せませんでした。だから、あっちゃんと交換日記で他愛もない話をして、遠回りをしながら、いつかあの気持ちがなんだったのか辿り着けたらいいなと思っています。
思えば私がネイルをする日は、いつも雨が降りました。
ネイルキットをいっぱいに詰め込んだ重たいキャリーケースを転がして、雨の中をネイリストさんがうちまで歩いてきてくれるので、いつも少し申し訳なかったです。
その頃の私はもう結構いい大人で、27歳くらいだったのですが、まだ実家で両親と暮らしていました。東京は下北沢にある団地です。
雨の日は父が家にいました。いろんな建物の屋上で現場仕事をしているので、雨が降ると仕事にならないのです。
私の部屋にはちょうどいい机がなかったので、ネイルはリビングのテーブルで施術しました。実家のリビングのテーブルに、私とネイリストさん、そして休日の父親。なんだかちぐはぐです。
たいてい父はオーディオセットからビートルズを流して、缶ビールを飲んでいました。
まるで誰もいないように、父はのんびりくつろいで過ごしていて、爪に立体の派手なパーツが取り付けられる時だけ、私とネイリストさんの手元を見て感心していました。
「俺もネイルしてみたいな」
ある日、ふと父がそう言うので、私は自分の部屋からマニキュアを持ってきました。落ち着いた赤い色のマニキュアばかり、3本持っていました。
父の第一関節を押さえて、そっとマニキュアを塗った時、父は「マニキュアってシンナーと同じ匂いだね」と言いました。ふうん、と相槌を打ちながら、私はこの瞬間をこの後何度も思い出すんだろうなと思っていました。
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