見出し画像

自分で自分にインタビューしてみた その2(フリーライター編)

自分で自分にインタビューする自作自演企画第2弾。第1回目はこちら


『発達障害グレーゾーン』(扶桑社新書)がベストセラーとなっており、来月新刊『「発達障害かも?」という人のための「生きづらさ解消」ライフハック』(ディスカヴァー21)を上梓するライターの姫野桂さん。姫野さんは大学卒業後、出版とは縁遠い仕事も経験しています。姫野さんがどのようにして食えるフリーライターに転職したのか、詳しく話してもらいました。

―――姫野さんの思春期時代の夢や進路についてうかがいたいです。

姫野桂(以下、姫野):中学と高校は、中2の時点でセンター試験の問題を解かせるような中高一貫の進学校でした。大学に行くことが当たり前だったので、それ以外の選択肢を考えたことがありません。ただ、当時、綿矢りささんや金原ひとみさんなど、若くして直木賞・芥川賞を取る人がいて衝撃を受け、将来は小説家になりたいと思っていた時期もありました。

 でも、小説以外でも書く仕事、ライターという仕事があることを新聞で知りました。そしてあの、ハマグリ型のMacを使って仕事をしているライターさんの写真がその新聞記事に掲載されており、私も憧れて親に同じMacを買ってもらいました。それを使って小説らしきものを書いたり、ブログを書いたりして自己満足していました。

 そしたら数年前、某博物館に言ったら時代ごとに流行ったものが展示されていて、その中に2000年に流行ったものとしてハマグリ型Macが展示されていたんです。私が持っていたMacって今や展示されるモノなんだと時代を感じました(笑)。

―――姫野さんは大学進学後、どうやって出版関連の仕事にたどり着いたんですか?

 大学のアルバイト求人の掲示板を見ていたら出版社の求人を見つけました。出版社は忙しそうなイメージがあったので少し迷いましたが、翌日には履歴書を書き面接の問い合わせをしました。面接は10分ほどで終わり、その場で合格を告げられました。これが19歳の頃です。

―――出版社のアルバイトでは主にどんな仕事を担当していたんですか?

姫野:主に雑用です。社員さんに「お昼ごはん買ってきて」と言われてパシリに行ったこともあります(笑)。

 書籍の部署と雑誌の部署、2つあって最初は書籍の部署に配属されました。そこで、校正の仕事や校正を反映する仕事をしていました。でも、校正作業って本当に眠くてよく居眠りしていました(笑)。それとリサーチもしていました。国会図書館に行って資料をコピーしたこともあります。そのとき作った新書は奥付に編集者として名前が載ったので嬉しかったです。ちなみに『歴史ポケットスポーツ新聞 相撲』(大空ポケット新書)という本です。

 次に雑誌の部署に回されました。ここでは主にお出かけスポット雑誌の下請けを手掛けており、取材先に企画書をFAXしたり、取材のアポ入れ電話をかけたり、ゲラを取材先に持っていったりしていました。取材のアポ入れ電話は取材候補先がリストになっていて、一日50件くらいかけていたので精神的にキツかったですね……。飲食店って基本忙しいので、ランチの時間にかけると怒鳴られることもしばしば。ランチの時間を避け、15時〜16時あたりに電話することを覚えました。

―――出版のいろはを学ばれたのですね。しかし、卒業後は一般企業に就職されたと聞いています。なぜ新卒で出版関係の会社を志望しなかったのでしょうか?

姫野:私が卒業した大学って、「女子にも教育を!」という信念のもと創設されたそうなのですが、みんな就職は一般職で、総合職の人は2〜3割なんです。学びを仕事に活かす職に就かない点がちょっと不思議なんですけど。だから私も、流されるように事務職を選びました。それと、当時はバンギャル(ヴィジュアル系バンドの追っかけ)をやっていたので、ライブを全通(好きなバンドの全部のライブに行くこと)できる仕事が良かったんです。忙しい出版社だとまずそれは無理です。だから、一社も出版関係の会社は受けていません。リーマンショックの影響で全く内定が出ず、卒業式2週間前にようやく建設会社の事務の仕事が決まりました。

―――全く別の仕事から、どういう経緯でフリーライターになったのですか?

姫野:とにかく事務職が向いていなくて、今思うとちょっと鬱っぽくなっていたと思います。それで、ある日公募ガイドを見ていたら応募人数が少なそうな文学賞を見つけたんです。それを見た瞬間、これは応募しなくては! と使命感を抱きました。そこから約1ヶ月間、全ての娯楽を封印し、ひたすら小説の執筆に励みました。会社から帰ってきた後の夜と土日、全て使いました。当時はmixiが全盛期でmixi依存症になっていたのですが、それも一切ログインしませんでした。たまたまライブも、そのバンドが活動をあまりしていない時期だったので誘惑もありませんでした。

 そしてなんとか仕上げて投函。一次審査も二次審査も通過し、最終選考にまで残りました。大賞を取れば100万円の賞金が出るのも期待していました。結果、大賞は取れませんでしたが、「最終選考まで残ったということは、自分は変な文章は書いていない」という自信がつきました。

 変な文章は書いていない=小説家は無理でもライターにはなれるかもしれない。そう思い、友人の知人がライターだというので紹介してもらい、そこから私の人生の転機が訪れました。そのライターさんが編集プロダクションを紹介してくれて、お仕事をいただけるようになったのです。それと同時に、冬のボーナスを使ってライター養成講座にも通いました。半年間の隔週の講義で受講料9万円で安かったのと、その教室に求人がくるという点も、その講座を選んだ理由です。

 最初のうちは会社員との副業です(副業禁止だったのでこっそりと)。記名記事を書いていましたが、文化的な人が少ない職場だったので誰にもバレませんでした。そして、2012年の春からフリーライター1本でやっていくことになりました。

―――ライターデビュー当時はどんな記事を書いていたんですか?

 当時はちょうどWEB媒体が急成長し始めた頃で、主に恋愛コラムを書いていました。恋愛が苦手なのに恋愛コラムを書くのは苦痛でした。でも、仕事を選んでいる余裕なんてありません。いただけるお仕事は全て引き受けました。正直なことを言うと、他のライターさんの踏み台にされたこともあります。

ここから先は

1,075字

¥ 150

いいなって思った方はサポートお願いいたします。