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出会い編・その1

私たちが生まれた頃の日本は高度経済成長で自信を取り戻し、公害が社会問題になっても経済的に豊かになる方がはるかに優先されていた頃で、
本田は愛知県、長野は東京の練馬で育ちました。(本田の方が2歳年上)
東京都と愛知県は結構な距離があります。それがどうやって出会い、コンビまで組む事になったのでしょうか。


私たちを結びつけたのは、漫画と、アニメでした。
(長野視点なので二人の思い出のボリュームに差がありますがご容赦ください)


物心ついた頃に大流行していたのは「ウルトラマン」シリーズの怪獣のソフビのおもちゃと、「おそ松くん」のキャラ〝イヤミ〟の『シェー!』のポーズ。昭和ですな😅


本田は怪獣が大大好きで「ゴジラ」の大ファン。映画が封切られる時は連れて行ってくれとお母さんに大泣きしてねだったそうで、ウルトラマン怪獣は「帰って来たウルトラマン」まで全て記憶している近所で有名な〝怪獣博士〟。遊び相手はもっぱら男子。普通の友達は男の子ばかりだったそうな。外で走り回るか、家でお絵描きしているかという子ども。得意なのは最初から動物を描く事でした。当時はアメリカのアニメをテレビでよくやっていて(「トムとジェリー」「バックスバニー」など)それの影響もあるとは思いますが、多分それは後付けで、元々好きだったものにくっ付いたものだと思います。もう一つの得意技はペーパークラフトで、ハサミでどんな動物でも器用に作ったそうです。作ったものは全部「欲しい」と言われてあげてしまい手元には一つも残っていないそうで、当時は写真もそんなに気安く撮れるものではなかったので痕跡が残っていないのが残念ですが、近所や学校では有名な〝天才少女〟だったそうな。


♪地元じゃ〜負け知らず〜♪


当然好きなお絵描きで怪獣を描くわけです。歯がギザギザ生えていたり、爪が大きくて鋭い生き物。うん、カッコいいじゃんか。
するとそれを見たお母さんが「あんたなんつうおそがい(名古屋弁で「おっかない」の意)ものを描いとるの。女の子なんだからかわいいものを描きなさい!」そうたしなめられて、幼稚園児はお母さん向け(?)にかわいいものも描きました。この頃から「自分が好きなもの」と「大人が喜ぶもの」を理解し、身につけ、描き分ける技術が育って行ったのでしょう。全ての児童がそんな器用な事が出来るとは思えません。絵が上手かったから出来てしまうんですね。将来、良く言えば「マルチ」悪く言えば「器用貧乏」となる始まりです。
なんでも描けるようになったのは決して望んだからではなく、すぐそばにいる(おもに)大人の要求に応えるためでした。


さて、当時のテレビはまだ白黒。アニメという言葉はまだ一般的ではなく〝テレビまんが〟と呼ばれていました。アニメというワードが一般化するのは最初のアニメブーム(「宇宙戦艦ヤマト」の大ヒット後)が起きてからだと思います。夏休みには東映などの総天然色(カラー)「まんがまつり」を親に連れてってもらって見たものです。「まんが」と頭に付きますがアニメ映画の事です。この頃は日本では漫画の方が定着していて、アニメは黎明期でした。「アニメは漫画の〝後輩〟」みたいな位置づけで思われていたのです。漫画の方が、なんか、偉かったんです。


白黒の〝テレビまんが〟も大好物。「鉄腕アトム」の本放送のリアルタイムには私は間に合っていませんが、この頃のアニメ本放送は夜6時〜7時半くらいで、ほとんどのタイトルが夕方に繰り返し再放送されていました。「あれの再放送始まるかな」と新聞のテレビ欄をいつも気にして見ていたものでした…(家庭用ビデオは当然まだなし)

余談、夕方の再放送を見てると「同じものを何回も見なくてもいいでしょう」と親に呆れられたものでしたが、『面白いから何回でも見たいんじゃん』と、一回見ればそれでいいと言う母親の考え方に同調する気は全くなく、ずっと後に手塚先生が「バンビ」を50回見た、という話を聞き「やっぱり好きなものは何回見たっていいんだ!50回!?自分なんかまだ全然じゃん!!!」と勇気を頂いたものでした(笑)

私は物心ついた時からまんがとテレビまんがに夢中で、毎日それを真似したお絵描きばかりしてるインドア派な子どもでした。

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